ワンダフルライフ 死にかけの目に真っ赤な夕日が美しい。 赤い夕日が真っ赤に沈むのが美しいなんて知ったのは生れ落ちてからずいぶん後のことで、夕暮れにサイレンがなれば家に帰らなければいけないのがうっとうしかったし、イルカ先生にさよならを言うのが惜しかった。ずっとずっと夕暮れ時のままだったら遊ぶことができる。いつだって夕日は同じ色でおなじ空だった。一日一日を経験として咀嚼し間延びしながら密度のこい時間に生きていたとき、夕日なんてどうでもよかった。 夕日はセンチメンタルで鑑賞すべきものだ。 ついでに言葉はいらない。ものを愛でるときに言葉はいらない。 ものを愛でるときに誰かと感覚を共有する必要は全くないからだ。 恋愛の名言なんだろうが、「愛は孤独だ」なのだ。 夕日。 一日の終わりとどこかでの一日の幕開けだ。地平近くで陽炎みたいにとろけて沈む。似合うのはひたすらセンチメンタル。終わりながら始まるもの、けれど紛れもなく終わってしまうものに対するセンチメンタルだ。それはたとえば落花をおしむ春にもいえたりする。無情の春、無情の天体、その荒莫にたちすくむが、無情の天体すらもまた流れものなのだ。 日輪が天を銅に染めながら西の端に沈んでいく。頬をふきさらっていく風は血を失ったせいもあるのだろう、冷えて冴えた空気だった。何キロも何キロも走り抜けたあと吸いこむ空気のようなはりつめた具合、体中が酸素と水に飢えているのがわかる。 たとえばこんな太陽が沈むときは恋人の家まで短いようで長い道のりを歩きながら今日のパンツは新品かな、口くさくねえかな、これから十年あと手をつないでるのはその人なのかちがう人なのかなとか、そんなことで悲しかったり嬉しかったり色づけられない心でぼやっと歩くのが理想であって、まちがってもああ美しいなと思いながら死ぬために沈むのではないのだ。そうまちがったって太陽はそのために沈むのではない。 死んでたまるか。夕日拝んでああ幸せなんて、未練もクソもない人生それこそクソのくそったれなのだ。未練なんかない?そんなの古ぼけた読み物でしかしらない聖人だけで十分だ。 なあ、みてるか、この空の赤を。 それとも寝てるか。 いまも独りきりでたってるのか。 夕星が光る先、明星がのぼる場所、そこは明るいか暗いか。 もうおまえの声だって思い出せない。 かすかな呼子の声がひびき、土におしあてた耳に足音がきこえてくる。 「うずまき上忍?終わりましたか?」 砦の残骸をうめつくす骸の山を踏みつけた中忍が夕日の赤に顔を照らされながら覗きこんでくる。 「指示を」 「各班副長が点呼をとれ。班長に召集をかけろ」 呪文のようにとなえながら目を瞑ればうしろのほうでサクラちゃんが怒ってる声がする。カカシせんせいが困ったように笑ってる。まぼろしだ。写真よりチープなはずだった日常があとにもさきにもない一度きりだなんて知らなかったんだ。 だから、おれはおまえがいらないっていうもの全部ひろってあるくよ。 一生は一度きり、かけがえもなくって変えようもないんだ。おまえがおまえから逃げられなかったみたいに、俺も俺の夢というばけものからはにげられない。 ツナデのばあちゃんは来月引退するだろう。夜がまた西から追いかけてくる。 俺の心にあふれかえったのは胸苦しくなるほどの慕わしさだった。 もうどうでもなんだっていい、おれはもう一度サスケに逢いたかった。 「夜までに帰還する」 中忍がおどろいたような顔をするのがちいさくゆれてぼやける。 額宛てを目深にずりおろしてでも、俺は立ち上がらなくちゃいけなかった。 「ワンダフルライフ」/ナルトサスケ |