それらは失われるべくして失われたのだと。 午睡の寝覚めは体の芯を重く痺れさせた。空虚を抱いたような倦怠と喉の渇き、糸の絡んだような抵抗のある瞼が、視界に飽和する陽光をかすかでも遮ろうと眼球を覆う。だが真紅に緑黄の閃光がうねりながら飛び交う瞼裏は、陽炎よりも眩暈を誘った。 夜半に嵐は過ぎ、雲が吹き洗われた高い空は青かった。はためくカーテンから流れ込む熱を孕んだ空気は重い。ばたばたと翻って何かを呼んでいるようだ。 今は任務で留守にしている同居人の、わがままで置かれている覆いが半分剥がれかけた巨大なスピーカーから、よじれた電波の声が零れていた。かすれきって何を言っているのか判らない連音を耳障りと思いながら天竺綿のラグから起き上がって止める気力はない。 夏の午は長いようで短い。振り返れば秋色をにじませた夕暮れしか、記憶には留まっていない。赤みを帯びた懐古はみな一様に家路を思い出させ、厭な気分になる。遠い子供の声や嘘のような沈黙を埋める悲鳴めいた蝉時雨、夕餉の匂いや驟雨の後の土の匂い。全ては過去を思い出すための記号だ。じとりと湿った肌に這う小虫や、剥き出しの踝を傷つける薄の刃、積もった草を踏みしだいた。握り締めた野苺の蔦は棘を持ち、手にはいつも傷が耐えなかった。朽木は風雨にさらされて流木のような滑らかさを帯び、ひっくり返すと蜥蜴が下草の間を滑り逃げていく。ついついと勤勉に飛ぶ蜻蛉の羽根は捕らえたときに蝶の羽根よりも脆いことを知っている。 人の影のない社の社殿の窓の罅は日焼けしたテープで補われ、手水舎の水はいつでも澱んでいた。社は境だと誰に言われることなく感じていたように思う。踏み込んだその先に日常と断絶しながら目を閉じて関わりを拒むことの出来ない異域。 石段はあっただろうか、そんなことも思い出せない。石造りの鳥居は小さく古び、祭神の名も判らなかった。そもそも社といえたのかどうか。鳥居の奥にはわずかに開けた土地があり、石碑があったように思う。庚申塔だったのかもしれない。祠のようなものがあり、正面に社殿といってよいのか、小屋のようなものがあった。ガラス戸で閉ざされたそれも社殿なのだろうか。 空虚な社だった。開拓から半世紀も立っていないだろう土地に建てられた其処には、すりきれた移住者の信仰を集めるだけの力もない、形骸だけがあった。時の重みも、かつて捧げられた祈りの痕も見えず、ただただ空虚だった。 回想は螺旋をえがいてよじれていく。 (通りゃんせ とおりゃんせ) (此処は何処の細道じゃ) (天神様の細道じゃ) (そおっと通してくだしゃんせ) (御用のないものとおしゃせぬ) 行きは神様の子を大事に飾って負ぶっていって、お札を納めたあとは人の子だから、攫われないよう大事に大事のその手をつないで、石畳を踏ませて帰る。行きはよいよい、帰りはこわい。人ならぬものに魅入られて神隠しに遭うのはいつも子供だから。祝い年は忌い年だ。 下駄がかつかつと音を立てて錦紅葉の石畳を噛むのが楽しく、手を繋いでくれるあの人の手を引っ張るようにして歩く。左手には千歳飴、右手は正しいものを掬う手、その手を握られている。離れるなと口に出しては言われなかったが繋いだ手は雄弁だった。 夕暮れの影は長く、長く。前を行く父と母が鳥居の前で振り返る。負ぶさった父の広い背よりも隣の手が好きだった。世界の全てだった。あの夕暮れの日。 (ぼくのかみさま) ばさりとカーテンが音をたててひるがえった。ラジオボイスは遠く、子供の声も遠く、覘き見える空は記憶と色を違え、青くも遠い。眩暈のする遠さに瞼を覆うと、きしりと床を踏む音と陽射しが遮られた。 銀色。 「そんなところで何してんの」 「……帰ったのか」 「そ。お帰りなさいは」 表情を覆い隠す布の下でくしゃりと目を細めて笑う気配。すべり出た声は掠れて御世辞にも抑揚があるとは思えなかった。有ったところで美味く感情を乗せる術は知らなかったし、なかったところで目の前の男が気にしないことも知っていたが。 「オカエリ」 「ただーいま」 「変に伸ばすのヤメロ」 ひどいなあ。おつかれさま、御風呂にするご飯にする?ぐらい言ってくれても良いんじゃないの。そりゃあ夏の昼寝は当たり前だけれど。 「カカシ」 眠そうな目が床に横たわるこちらを見下ろして、ぱちくりと緩慢に瞬きをした。覆わなくても日焼けのしにくい、少年らしく筋張ってはいても滑らかさを失わない手が躊躇いもなく差し出されているのをまじまじと見る。 「なにサスケ、この手は」 「起こせ」 「どっちが御疲れ様なんだか」 「労ってやらないなんていってないだろ」 「あはは、どこまで態度が俺様なの」 「地だ。諦めろ」 手をとらせてやるだけ有難く思えといわんばかりの少年の言葉に猫背の男はくつくつと笑う。しゃがみこんで二の腕を捉えると、いかにも恭しく背中を支えて抱き起こした。 「はい、これでお望みどおり」 そのまま大して抵抗しないのをいいことに少年を両腕の中に抱き込んでみる。やはり抵抗はない。眠そうな顔をしているあたり、風の吹き込む窓辺で午睡していたのだろう。陽射しさえ遮られていれば意外に南風も涼しく、部屋で一番風が気持ちのよい場所なのかもしれない。 涼しい所を見つけるのが上手いことや、午睡して眼がまだ目が細いこと、機嫌のよいときばかり大人しく触らせるあたりまるきり猫だ。力まかせに抱き寄せればすぐに臍を曲げて逃げてしまうことを知っているから、あくまでふわりと腕の中に戒める。 もぞりと動いたが腕の中から逃げようというほど力あるものではなかった。自分のものよりもわずかに高い体温をかんじて、男は目を細める。 「石鹸のにおい」 「あ?」 「サスケから」 「ふうん」 あんたの手のひらからは血のにおいがする。 「まあね。サスケからもするよ」 「鉄のにおいだろ」 目を細めて少年は己の手の平に顔を寄せる。そのさまを眺めて、男は思う。よくよく考えれば、金物を掴まない者の方がこの隠れ里には少ない。皆、血のにおいと紛う鉄のにおいにさらされているから、判らないのだ。ときおり離れると、ほんの少しだけ、ふるさとの匂いとやらに気がつくのだ。血の匂いに抱かれた里。 (いつか世界は墓で埋まっちまうといったのは誰だっけ) 続く人の営みは先細り、いつかぽきんと折れて世界中は墓守と墓だらけ。青天井をぐるぐる回る太陽の下で延々と続く墓標。動く影は無くえいえいと続く棺にしおれてしまった手向けの花が一輪。そのさまを思い浮かべると、世界は随分とすっきりキレイなものだと思った。 死んだ墓守のしゃれこうべは吹きさらし、血の匂いを洗う風にカタカタ鳴るだろう。 (おまえにも花を一輪あげようか) 今は土の下で眠る同じ血をもつ死者をいたむ少年に。いつまでも在りし日の黄昏に佇む少年に。萎れた花束を一つ。 懐かしむような目をした少年に、思い出とやらをもっているのだと見当違いなことを思う。光の入りすぎた写真のように全てが淡く輝いているような、遠い出来事とやらにたかが十に幾つかの少年が思いを馳せるのか。懐古は日常とやらを見つけてしまい、のったりと歩く大人たちだけに許されているものと思ったのだけれど。 (振り返る日々は痛くとも眩しいのだろうか) 右手は正しいものを掬う手。左手は悪いものを掬う手。差し出した自分の右手を握ったあの人の手は左。禍の萌芽は常に春の目醒めを待ち続けていたのだろうか。 (通りゃんせ 通りゃんせ) あのまま影に手を引かれて、夕暮れを歩いたらどこにたどり着いただろう。 もう背中も見えない。 「メランコリア」 /カカシサスケとイタチサスケ カカサスにはまりたての頃作ったもの。 散文すぎて没。 |