愛は記憶をこえて ホテルを出たのは正午過ぎだった。外は救いようもないくらいの熱気でアスファルトの道路からは陽炎が立ち昇っている。 タクシーを停めて「コタ地区へ」と告げたが、乗り込んだのも束の間、車はほどなく渋滞に巻き込まれた。インドネシアの交通ルールはカオスの中の無秩序だ。よくこれで事故を起こさずにいられるものだと感心もし、呆れもする。信号のない道路を横切ってゆく通行人はあとを絶たず、バイクも車を擦れ擦れに横切ってゆく。信号で止まれば物売りの行商人が車の窓を叩いてくるといった具合だった。どこかで苛つくようなクラクションが鳴り響く。カカシはちらりと腕時計を見やり、吐息をついた。乗ってから10分も経っているのに、車はまだ2kmも進んでいない。サスケを待たせていることに気ばかりが焦る。先刻から何故か妙な胸騒ぎがして止まなかった。 結局、チャイナタウンに着く手前で車を降り、渋滞中の車列を縫うように道路を走った。 昼には開くと言っていた筈だが、阿片窟のエントランスの呼び鈴を鳴らし、いくらドアを叩いても応答がない。 息が詰まるような不安が押し寄せてくる。 サスケの身に何かが起こったのではないかと直感した。 斜向かいの酒場の店先で昨日見たマレー人の男がコーラのペットボトルを飲んでいるのを見付け、声をかけた。鍵を持っていないのかと訪ねると、彼は持たされていないらしい。マレー訛りのひどい英語はところどころしか聞き取れないが、どうやらスペアはカブトのところにあるようだ。 Come about me.と言うとマレー人の男はコーラのペットボトルを手にしたまま先に立って歩きだした。何か得体の知れない妖気のようなものが立ち上る薄暗い路地を右へ左へと曲り、少し行ったところにカブトの家はあった。 質素な作りの玄関には看板も表札もない。ノックもせずにドアを開けるとカブトは薬品の調合をしている手を止め、顔をあげた。 「…どうしたんです?」 近寄ってカブトの襟首を掴みあげると凄んだ。 「サスケをどこへやった…!」 「どういうことですか…?」 「とぼけるな! 何か知ってるだろう」 「僕は知りません」 「サスケの命を救ってくれたことについては礼を言う。しかし、貴様さえサスケを幇会の手に渡さなければこんなことにはならなかった…!」 カカシはカブトをじりじりと壁際に追い詰め、首筋にナイフの腹を押し当てた。 「大声を出すと首をかき切るぞ」 「…物騒だな、…勘弁してくださいよ」 「後ろを向いて手を壁につけろ」 カブトは言われたとおり、両手を上にあげると壁を向いて立った。 「僕も無免許という弱味を握られて幇主に利用されている口です。逆らえるわけがないでしょう」 この男の歳に似合わない慇懃さが自分を苛立たせる。 「阿片窟の鍵を渡せ」 瞬間、目にも止まらぬ速さで隠し持っていた拳銃を抜いてカブトはカカシの目の前に銃口を向けた。ダブルイーグルの銃身から突き出しているプロ仕様のサイレンサーが目をひき、カカシは唾を呑み込んだ。しまった、と思ったが既に遅かった。 「少しでも動くと撃ちますよ」 カブトは微かに不敵な笑みを浮かべ、トリガーに指をかける。 言葉にならない恐怖が背筋を走り、思わず目を瞑ると銃弾が頬を掠め、後方でサイレンサー独特の鈍い音が響いた。ペットボトルが天井に弾け飛び、宙を舞う。どすん、という衝撃が伝わり、一瞬のことで何が起こったのか分からず、項に生暖かい液体が飛び散った感触に恐る恐る振り向くと額をまともに撃ち抜かれたマレー人の男が血溜まりの中に転がっていた。着弾の衝撃で眼球が飛び出し、全身を痙攣させていたが、まもなく動かなくなった。 「…なんで…」 カブトは死体の側に躙り寄り、即死していることを確かめると、右手をこじ開けてみせた。 「邪魔だからですよ…。殺さなければ貴方が殺されるところだった。延髄を狙われていたことに気がつきませんでしたか…?」 男は手の中にアイスピックを握り込んでいた。カブトはそれを取り上げ、代りに自分の拳銃の銃身を上着の裾で拭き、死んだ男の手に握らせた。 「何故、オレを助けた…?」 「あなたに今死なれたら誰がサスケくんを出国させられるんですか…?」 カブトが振り向き、カカシに顔を向けた。その滑らかで整った顔に一瞬微妙な表情が浮ぶ。 「幇主が来たとすれば、嫌な予感がします。阿片窟の階段下に地下室がある…。彼の居場所は多分そこでしょう…」 カブトは鍵の束と旅券を金庫の中から取り出し、カカシの手にそれを渡した。 「幇主はほどなくここへ来ます。死体の処理について指示があると思います。それで足留めをしている間に彼を連れ出して一刻も早く出国してください。それしか道はない」 「この旅券は?」 「大きな声では言えませんが、彼がバンコクへ行かされたときに大使館の職員の一人に裏金を使って偽造させたものです。僕が保管を任されている。幇会に拉致されたことの証拠となる筈です」 「貴様がこれをオレに渡すということはボスへの裏切りじゃないのか」 「僕は僕の患者を救いたい…。それだけです。苦い思いはもうたくさんだ…」 「ボスからリンチを受けるのは覚悟の上か?」 「その時は貴方に銃で脅されて強奪されたと言いますよ」 カブトは口の端を歪めて少し笑ったが、すぐに真顔になった。 「早く行ってください。サスケくんが心配だ。幇主は危険な男です。何をされてるかわからない」 「…貴様を信用できるのか?」 「信用するもしないも、貴方次第じゃありませんか…。時間がありません。幇主がチャイナタウンの中にいる。幇主が此所へ来ないうちに。…早く!」 カブトに促されて、カカシはドアの把手に手をかけた。 「サスケくんに会ったら伝えてください。チャンスが訪れたらこんな道化芝居はおしまいにして、僕も同志を糾合して祖国に戻ると」 サスケとカブトの間には何があったのだろうか。不確定な未来に解放と自由を望んでいるという上で、彼等は同志であったのかも知れない。 「…貴方たちの幸運を祈ります。早い出国を」 「……」 無言でカブトの言葉に頷き、外に出た。 思えばカブトは不思議な男だ。幇主に絶対服従しているのかと思えば危険を承知で機密を暴いたりもする。祖国、と口にしたときのカブトの昏く燃える瞳が脳裏に蘇る。カブトの秘密に触れた気がした。恐らくカブトは戦車の前に身を投げようとするレジスタンスだ。幇会を隠れ蓑に潜伏して蜂起の機会を虎視眈々と狙うその眼差しの先には彼の祖国の命運が左右されている。あの内奥から滲み出した一言だけがカブトの真実なのかも知れなかった。 「サスケ!」 もどかしい思いで阿片窟の扉を開け、大声で呼んだ。 誰もいない店の中は水を打ったように静まり返っている。小部屋を仕切る羅の布が開けた扉から入り込んだ風を孕んで揺らいでいた。 戸口の隅には強い力で半分に折り曲げられた金属の杖が放り出されている。サスケのものだった。 不吉な予感が兆してくる。 カブトの言うとおりだった。確かに階段下には古びて赤錆びた鉄の扉があり、耳を当てた。 「サスケ!」 呼んでみるが返事はなく、中は無気味なほど無音だった。 「…そこにいるんだな、サスケ!」 鍵の束のひとつひとつを扉の鍵穴に差し込む作業を何回となく繰り返さねばならなかった。髪の生え際から汗が吹き出し、頬を流れてゆく。何度目かで、鍵穴の奥に嵌まり開錠の手応えを感じ、もどかしくドアをこじあけた。 窓も無い暗い小部屋には阿片の甘ったるい臭気が充満している。 暗闇の中、目をこらすと板張りの床に薄汚れたブランケットが敷かれ、そこにサスケは横たわっていた。 「サスケ!」 身体は微動だにしなかった。一瞬、息が絶えているかと思ったが瞳が動いているのが分かり、カカシはほっと胸を撫で下ろす。手首をとって脈を取ると、心臓の拍動は弱々しいが一定のリズムを刻んでいる。力づくで阿片を吸引させられたことは明瞭で、全身がひどく冷えきっていた。 放心状態のサスケの身体のあらゆるところに酷く殴られた痕と歯形が、そして昨夜残したキスの痕の上をさらに強く吸われた証が刻印されていた。 「…!」 下肢に掛けられていたバスタオルを剥ぎ取ると、内腿に血混じりの白濁した液体が筋を作って流れているのが眼に入り、暗く激しい感情が涌きあがる。拳をひび割れた漆喰の壁に叩き付けるとひときわ大きく剥がれ落ち、穿った穴から埃が舞い上がった。 無理な体位を強いられたのだろう、サスケは自力で起き上がることができなかった。 「…杖を折られて…、逃げることもできなかった…」 生気のない表情で冷えて紫色になった唇を震わせてやっとそれだけ言うのを聞き、カカシはサスケの身体を抱き寄せた。床に敷かれた薄汚れたブランケットを躰に巻き付け、しばらくそのま慄えを吸い取るように抱き締めていると、浅い呼吸が首筋に当たり、そこだけを幽かに温めた。 「俺が甘かった。さっき、無理矢理にでも連れ出せばよかったんだ…。もうこんなところに一秒でもお前を置いておけない。今すぐ、ここを出る。オレのホテルに行こう」 「無理だ…。オレは杖無しで歩けない…」 「杖が無ければ俺が運んでいく」 膝の裏に手を入れ、弛緩した身体を横抱きに抱え上げた。肉の薄い肢体は骨と筋と黒髪の重さしかないほどに軽い。冷たい皮膚の下に骨のありかがはっきりと感じられる。頬にも額にも紅みがなく、窪んでいる部分には隈が浮き出していた。 「ハリウッドのスタジオなんていつたたんでもいい。脚のこともある。国へ帰ったらロスで一番いい専門病院で診てもらおう。夏は長い休暇をとるんだ。二人で気候のいい場所に転地しよう。そうだな、サンディエゴかサンタバーバラの海の近くの家を探して、毎朝ビーチを散歩して…」 「カカシ…」 サスケが遮るように口を開いた。 「最後にアンタとまた会えて嬉しかった…」 腕の中のサスケを覗き込むと瞳に暗い漣のような諦念が押し寄せているのが窺えて、カカシは狼狽えた。 「…バカな…! 最後だなんて何言ってる。これからまた始まるんだぞ、オレたちは…!」 「…そうか…。…そうだったな…」 それだけ言うと、サスケは眼を瞑じ、長い息をついた。身体から潮が引いてゆくような冷たさを感じ、カカシは腕に力を込めた。呼吸が危険なほど早まっている。急激は阿片の吸引は呼吸筋の麻痺を誘発している可能性があった。 「…サスケ、しっかりしろ」 地上へ上がる階段を昇りながら呼び掛けるとふっと眼を開けたが、何かを探すように視線を彷徨わせた。 「光が…」 乾いた唇が呟いた。 「光りが当ってる」 サスケがじっと見つめている方向に眼を向けた。昨日ここで再会したとき、横顔に当った廊下の照明のことを言っているのだと気がつく。どこにでもある、何の変哲もないダウンライトだ。 「きれいだ…」 恍惚とした表情で呟くのに、不安になった。阿片が美しい幻覚を見せているのだろうか。息遣いのたびに肩が上下するのを腕の中に感じながら焦燥感だけが募ってゆく。 玄関の扉を開けると、潮の香りと共に生暖かい風がはいってくる。 意識を手放すように眼を瞑じたサスケを抱え直し、もう一度呼還しようと声をあげた。 夜の兆しが落ち始め、数軒先にある酒場のネオンの明滅が辺りに及ぶ中、どこか遠くからまたコーランの詠唱が聴こえ始めていた。 |