サーカスの夜 どこかの国のように一面、霧がたちこめていた。 夜更けの雨は冷えた空気にミルクを溶かした水のような霧にかわったようだ。うすあおいかわたれ時に黄色くにじんでいた街灯の明りが点滅し、ふいと消えた。 まだまだ里は眠りの中で、里中に向かう橋の上を過ぎ行くいくつかの人影は、あまりに希薄な灰色の影にしか見えず、輪郭を持つのはサスケだけのようだ。腕をのばせば指先がかすみ、みおろす自分の足や拠って立つ地面すら曖昧だ。太陽も雲向こうにぼやけていて、知らない町に迷い込んだような気さえする。 それがさらに昔の戦いを思い出させたが、いまだ体の芯にのこっているような気がする潮騒と耳に慣れすぎた川の音はあまりに違う。なにより敵はおらず、自分の背後には背中を預ける相手も、隣を守る相手もなかった。 潤んだ空気を通り抜けるうち、心なしか袖口がしめったような気がし、汚れにくたびれた髪の毛をみれば雨粒よりもちいさな水滴がまつわっていた。眠りたいとおもったが、血の昂ぶりはいまだおさまらず体の奥に波を浮かべている。まんじりともせず短い休暇をつぶしそうだとため息をつきながら、下宿の階段を上がった。 習慣でドアノブを捻ってから鍵のかかっていないことに気がつき、すこし嬉しくなった。よくみれば郵便受けも奇麗にかたづいている。すぐに気がつかなかったということは相当疲れているのかもしれなかった。 あっちも任務が入っていたから一ヶ月ぶりだった。 夜目はきくから明りをつける必要はない。玄関で靴を脱いでいると、タオルが差し出される。おかえりと言われ、髪の毛を拭かれながらサスケはただいまと返した。 カカシにはキスをするとき目を開けっ放しにする厭な癖がある。 ぼやけてろくろく見えやしないとは思うのだが、自分だけ一方通行に見られるのは癪にさわる。なのでサスケも顰め面で目を開けたままでいる。下瞼をおさえたカカシの指が撫でるように動く。くすぐったさに目を細めると、唇を寄せたカカシが笑う。 なんて恥ずかしくやらしい男だ。そしてじぶんのなんて愚かな。 湿った息の生々しさと、少女趣味なキスにはぐらかす白々しさ、けっきょく気恥ずかしさにサスケが根負けしたように目を閉じると、睫毛をカカシの唇がくすぐり、サスケはまた口をへの字にした。 腹を撫でられて尻尾をふる犬か、顎を触られて喉を鳴らす猫にでもなった気分だ。自分がものすごく単純なものでできているのかもしれないと思う。いつも我慢がきかないのはこっちで、だから今日も背中に腕をまわして深呼吸をした。沁みるような相手の体臭ににまじった外の匂いに、サスケは気がついた。 「あんた、今来たばっかりか」 「うん。お風呂沸いてるよ」 「いい、いらない」 「今日はおとなしいね。朝っぱらから、とか、もう寝るっておこらないの」 「たまには……ッ」 「うん、いいよ。嬉しい」 耳元の笑い声に徹夜の任務と疲労で昂ぶっていた血はあっというまに勘違いな逆流を起こす。顔に血が昇るのがわかる。いつもより冷えきった手に熱をさがされて鳥肌が立った。 思わず漏れそうになった高い声を唇を噛むことでやり過ごすが、膝がふるえるのはどうしようもなかった。もう用なしになったタオルが床に落ちる。 「ん、……っ」 疲れてるんじゃないときかれ、ばかやろうと返した。昔さんざん人のことを鈍感だの野暮だのカカシは言った。いま疲れてるんじゃないとなんか尋ねてよこす、だれが野暮だ。 知らない。あいたかった。 膝を割った足にバランスを崩すと、支えられる。肩口に額をこすりつけ、首筋に鼻面を寄せる、うまくもないシャツを噛んでみせる。身じろいだ気配に気をよくして、背中をゆっくりと撫で下ろした。 「そんなのどこで覚えたの」 「あんたのまね」 切りかえされてカカシは困ったように笑って目を細めた。そうすると微かに皺がより、ねむそうな犬みたいな顔になる。サスケは肋骨のあたりを掴まれるような気がした。なにかに打ちひしがれたとき、カカシはたまにこうして笑う。 「……ぁっ、待――――……ッ」 いきなり割り開かれ口の中で悪態を噛み殺した。湿り気なんて気休めみたいなもので、そうとう痛い。ごめんね、と声がした。 (なにが?) (痛くしたことが?) (何もいわないことが?) (何もいえないことが?) 朝霧に濡れたカカシの髪からは演習場のある森の匂いがした。 千の技、傷つき方傷つけ方守り方、それから泣き方もぜんぶカカシから教わった。 カカシの触り方はひどく臆病で、距離を確かめるものであるのも知った。どこまでが許されてどこまでが許されないのか、そのくせサスケに尋ねることもしない。口ほどにカカシは器用ではない。たまに手が震えてるのを知っている。 ほんとうは抱きあったってどうにもならないものがあるのを知ってる。人が人にできることは手を繋ぐぐらいの何かしかできないことも知っている。世界中の誰にも、自分でさえもなおせない傷を誰もが持っているのも知っている。 夜、自分が狭い部屋にひとりきりだというだけで、気が狂いそうなほど寂しいのも知っている。二人きりでも埋まらないものがあるのも知っている。でも動物のように他の体温で心がゆるむときがあるのを知っている。全部カカシが自分に教えたことだ。 抱きしめ方だって教わった。 お前がいないと寂しいよと言い、かわいそうなものを見る目をしてくれた。傷痕がいたいと、踏みしめた足の裏は疵だらけだと、目の前が暗くて怖い、堪らないんだといったっていいと言ってくれた。 ぜったいそんなこと言わない、バカにするなと悲鳴のように怒鳴り返した自分に、それでもかまわないと言ってくれた。俺がそうしたいだけだと言った。 (おまえのことを四六時中思ってるなんてとてもいえないけど) (思い出す時きっと、どこかでおまえが笑ってたらいいなあと思うよ) (隣にいてもいなくても) 同情は人を傷つけると誰かが言う。それは違うと思う。同情で傷つく人間がいるだけだ。傷つけるものなのではない。かってに傷ついてしまうのを、甘ったれて傷つけるものだと言ってるだけだ。 自分を哀れむことが時に気休めになること、心に明けない暗がりがあり、そばにいてもなお孤独はきえない、それでも自分と一緒に泣き笑いしてくれる人がいるだけでどうにかなること、教えてくれたのはカカシだ。 たまにお互い名前を呼ばない夜がある。 たまにカカシの左目を見れない夜がある。 たまに碑の前に立ちつくす背中を見なかったふりする夜がある。 「……サスケ?」 「なんだ」 気がつくと笑っていたらしい。上がった息の合間に痛くない、大丈夫と尋ねられて大丈夫と答えた。かわいい生き物だ。自分はサクラみたいに頭がよくないから、その掠れ声だけですぐどうでもよくなる。 「―――平気だ」 自分達は臆病でほんの少しずつうそつきだ。 (明日にはすこし笑えればいい) (はやく朝になればいい) いつかの夜のように、今日は自分がカカシをずっと抱きしめててやろうと思った。 そしておはようを言おう。 |
「サーカスの夜」/カカシサスケ |
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