鼓動よりもゆっくり、子犬の歩くリズムで。 子犬のワルツ だめだよ、とやわらかい声に口を噤むしかなかった。 なけなしの勇気をふりしぼって出そうとした声はいつだって音になれもしないまま失望と飲みこんだ。 寝たふりから醒めて現われた眼の色みのない虹彩の表面に扁平な自分の顔が見えている。日の光も届かない深みを覗くように目がそらせなかった。後にさがりたいのか前に進みたいのかもわからなくて逃げることもできない。ごめん、寝てたと言って欠伸まじりに笑ったカカシに黙っていることしかできない。 そろそろ帰りな、とカカシは塩の結晶をまつわらせたように白い睫をおろし、長い間おぼえた科白を諳んじるように続けた。あんまりね、特定の奴を構うのは褒められたことじゃないんだよ。 そうか、と返しながら喉元まで溢れかえるよう甘くぬるく浸したのは安堵だった。そうだなとなめらかに喉からでた声は滑稽なほど取り乱しもしなかった。絶望はいつだって降り積もっていた。叶うことなどありえないと最初からわかっている。 視線を結ぼうとしないのは罪悪感だろうか。寝たふりは優しさなんだろうか。ならいっそずっと寝ていてくれたらよかったのに。カカシはずっと優しさを間違っている。ふと思いつきで、また来てもいいかと尋ねれば、もちろんだと安堵でいっぱいになった眼差しで頷いた。 おまえが好きなときいつでもおいで。 やっぱりとサスケは可笑しくなった。俯いて笑った。三等分だけでいられたらよかったとカカシは思ってるだろう。 (オレもだ) 唇が熱い。ほんとうはこんな恋、やめてしまいたい。思い出だといつか笑ってしまいたい。でもドアをしめて階段を降りる足は厭がって走り出すことができない。でも振り向かない。ドアは叩けばいつでも開くだろう。追い返しはしないだろう。でもたまにいないふりはするだろう。見ないふりもするだろう。マスクが遮らない声はけして聞けない。 だからサスケはカカシの部屋には行かない。 二度と行かない。 みじめなキスが一度で全部の恋だった。 肌寒さにこごめた膝が壁にぶつかってかたい音を立てる。寝返りを打てば足が隣人にぶつかり、くぐもった抗議にサスケは手足を伸ばして身震いをした。時計をみれば休日の起床にはまだ早い時間だ。 夜寒を朝冷えがぬぐうごと霜は露になり若緑をつけてたわむことなく伸びた枝えだの後ろを塗りつぶす空は浅い春の青、すこし冷たい風さえも硝子でふせいでしまえば陽だまりに横たわる床はあたたかく、埃が蜜のような光の中で浮きつ沈みつしている。ステンレスを叩く水の音が耳に軽い。 喉渇かない、と後から聞こえた掠れ声に枕に顔をうめながら渇いたと返せば、欠伸まじりの声でじゃあなんか作っていいとカカシは起き上がった。ひやりと冷たい空気を感じてベッドがすこし傾く。 「……!?」 カランをひねる軋んだ音続く水音に、撫でられたばかりの髪を押さえながらサスケは転げ落ちるようベッドから出た。 「なにしてんの」 「……いや」 下半身を布団にまきつかれた格好で床にはいつくばったサスケの背中にあきれたような声がふる。台所からわざわざ戻ってきたカカシに足先で肩を蹴飛ばされた。 「だらしない格好してないで、着替えといで」 「……」 「お尻でてるよ」 「見せてんだよ」 おや、と眉毛を上げたカカシがすこし目を眇めて唇の端だけつりあげるだけで、どこか寝ぼけたような印象のある顔がひとを食った笑顔になる。だがすぐ頭から被ったシャツの中に消えてしまう。 にやつかないでとがめろよ、と思いながらベッドからドアまでの道のりに落ちた衣服の一番最後、ひっくりかえったズボンと下着をつかむと、下着を抜いてズボンだけ足を通した。ひやりと首筋に触った冷たい手に震えあがる。 「ッにしやがる」 「おまえ寝起き悪いの。朝からカリカリしてんね」 首ぬくい、と言いながら濡れて冷えた右手のひらを裏返して手の甲を押し当ててくる。サスケはよせ、と小さく呟いて首を竦めた。肩と頬にカカシの手のひらが挟まる。かさついた指が挟まれたせいでぎこちなく耳の後の髪をかきわけて窪みをなぞった。いざるよう後にさがっても手のひらは追いかけてきてベッドに背中がぶつかる。逃げ場を失い、いざったせいでまたずり落ちたズボンに足を通しただけ、窮屈そうに足をちぢめ肩まですくめた格好にカカシは笑った。空いた左手をサスケの右手に重ねる。 「だめ?」 だめって何がだ、とサスケは内心で叫ぶが情けないことに視線は狼狽えきってカカシの腕と自分の膝の隙間にみえる床を凝視するだけだ。とても顔なんて見れない。いいとも厭だともいえないでいれば、答えをとても待っていたとは思えないタイミングでカカシの息が頬にかかって、剥き出しの首筋にくすぐったい髪の毛の感触がする。 幾度かかるくキスをおとされて肩から力が抜けると見計らったように、顎をとられて口を合わせる。重なった手のひらと唇が触れ合うだけで、そういう意図は見えないのもあって(押されれば否という気もなかったが)、安堵したサスケはようよう手のひらを裏返してカカシの手を握り返した。 「っ」 いきなり耳朶がやわらかくあたたかいのに包まれてまた首を竦める。 「なんでお前そんな緊張してるの」 耳朶を挟んだ唇をはなし、サスケの首筋に顔を埋めたカカシはくつくつと小鳥のように喉を鳴らして笑った。なにがそんなに機嫌がいいのかがサスケは理解できない。カカシはまるで窒息してしまえと言わんばかりの甘い空気をこれでもかと作りあげて、サスケが骨抜きになるまでやめない。 「冷蔵庫あけていい?お腹すいた」 「俺がつくる。……おい、ケツさわんな」 「触るぐらいいいでしょうよ。っておいこら、逃げるなって」 四つんばいでまだ往生際わるく逃げようとするサスケの足首を掴まえるカカシの顔はやはり笑っている。思い切り足を振り回したサスケは近くに落ちていた上着をひっかけると玄関まで五歩で駈けた。 「なんもねえから」 買ってくる、と言ったときにはドアがひらいて閉じてしまった。鉄製の階段をおりる高い足音が遠ざかるのをききながら逃げられてしまったカカシがあらら、と呟いたところでもう一度ドアが開く。「帰んなよ」とカカシを指差しながらビニール傘をひっつかんだサスケは勢いよくドアを閉じた。 階段を上る足がすこし重い。雨はすこし冷たくて指先も冷えたし、鼻もすこし赤くなっているだろう、息が白くけむる。 (逃げた) でもあの場にいるのはどうにも耐えがたかった。 トイレをかりたコンビニで鏡をのぞけば、二重が随分と浅くなっていた。瞼はまだ重く腫れぼったい気がする。簡単に朝食に使えそうなものを見繕いはしたが、面白くもない雑誌を立ち読みして、棚に戻すのもどこか罪悪感があって買ってしまった。 自分の部屋のドアノブをこんなに音がしないようあけたのはいつぶりだろう。 電気を消したままの廊下は薄暗い。濡れたせいで脱ぎにくいスニーカーから裸足をぬいて廊下にたてば随分と冷たい。 「……カカシ?」 水音が聞こえるのは洗濯機が回っているからだろう、こんな濡れててはどこでも乾かせないのにと思い洗面所をのぞくが、カカシはいない。居間に足を踏み入れたところでベッドの上で布団が丸まっていた。 「おかえり」 ひらひらと手招きをされるのにサスケは眉を顰める。 「なんもしないよ」 「それが胡散くせえ。メシつくるから」 「そんなのいいよ。ちょっとこっちおいで」 逃げないでさ、と加えられた一言にサスケは一歩踏み出すと両手をとられる。 「なんで逃げんの」 「……」 「自覚はあるの?」 変な奴だね、おまえ、とカカシはサスケのよれよれになったシャツに顔をうめながら笑ったようだ。湿った息があたたかい。 「なんで?」 「―――あんた、変だ」 「へん?どこが」 ため息としぼりだすような声にカカシは顔をあげようとするが、サスケの手がまるで押さえつけるように頭におかれたせいでできない。躊躇っているのか妙にながい沈黙が続いた。 「サスケ」 「あんたさ、いつもこんなんなのか」 「こんなんってなによ」 「こんな甘やかすタイプじゃねえだろ」 テンション高くてついていけねえ、とこぼした声はめずらしく途方にくれているのに喉がすこし鳴った。 「そりゃ、浮かれてるしね」 「……」 髪をゆるく引っ張るかじかんだ手を包みこむと緊張しているのがわかる。頬に押し当てて唇をつければちいさく震えた。あんまり過敏だから触るのが楽しくてしょうがない。 「俺、やっぱり向いてないなあ」 「は?」 「教えたりとか、そういうの。三人でいいよ、もうたくさん」 独り言のような声は後悔の響きが強くなってしまった。あからさま過ぎて笑えてきてしまって笑いながらサスケに尋ねた。 「草むしりとかの任務覚えてる?」 「あんたが遅刻してきてさんざんだったな」 耳ではなくだきしめた体から振動になってサスケの声が聞こえてくる。呼吸で膨らむのにあわせながら腰をなでると、嫌がるように身じろぐのが楽しい。 「あんなのでもさ、お前らがまだるっこしいやり方やってると、我慢がきかなくてね」 手が出そうになるのずっと我慢してたんだよ、と続けた。 「教師ってのはさ、結局ある一定期間、訓練させるだけでさ、ずっと隣にいてやれるわけじゃない。だからさ、ずっと我慢してたんだよ」 「なにを」 「お前のこと甘やかすの」 息が止まりそうになった。指先が熱くなったのでばれるんじゃないかとサスケは危惧する。離れようとカカシの肩に手を置くと、なぜだかしがみつかれた。 「ちょっと待って」 「あ?」 「だから待てって」 犬に命令するようなつっけんどんな口調がめずらしくて呆気にとられたサスケは思わず呟いてしまう。 「あんた、照れて」 「……柄でもないからねえ。でもお前嬉しかったろ」 沈黙はなにより雄弁だ。ふうっと笑ったカカシは強ばったサスケの肩口に鼻をうずめて体の力を抜いた。サスケの背中が緊張しているのがわかる。でも逃げないのも知ってる。サスケは行儀のいい犬みたいに雄弁な眼差しをしている。 (あんまり付け上がらせないでよ) もう教えるものなんてあげるものなんてなんにもないよ、と言ってもいらないと黙ってすりよってくるのがいけない。自惚れをたやすく許している。あんたの教え子じゃない、と言われて壊れたのはなんだろう。 髪の毛を引っ張られるのに痛い、と小さくいえば掴んでいた手が後ろ頭をひきよせる。サスケがカカシの頬に頬を摺り寄せて小さく鼻を鳴らす。額のかたいところを押し当てて髪の毛を擦らせれば雨の冷たい匂いの後ろですこし陽だまりの香ばしい匂いがした。 急かすような指先だけ欲しがる気持ちに正直に結ばれている。 キスまではあと少し、瞼を閉じてからだ。 |
「子犬のワルツ」/カカシサスケ |
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