かえりごと その爪先だけを見ていた。男の足が夕日に長く伸びた自分の影を踏んでいた。凪いだ声にのしかかられて眼差しも動かすことができなかった。 「何であんなこと言ったの」 何でってそんなの、理由なんかあるかよ。なんかよくわかんねえんだ、何であんないちいち泣きそうになるの、笑うの、喋るの。しらねえよ。指図なんかすんな。何でいちいち、いちいちオレの行動がそんなご大層なもんなのか。 わからない。からみついて、うざい。 『できないなら出るな!』 「おまえね、言葉が足りないってわかってる?あんな言い方したら何も言えないじゃない」 ゆがんだ碧色の目。 なんでああなるんだ。わけわかんねえ。 「お前はサクラがお前のこと好きなの知ってるだろ」 「そんなの」 「うん、それはサクラのものだからオレは何もいえないしお前もできないよ。サクラがお前に答えを訊いたときだけ、お前が答えてやればいいだけのことだ。だけどそれと別のことだろ」 俺が怒るよりナルトが言うよりサクラには辛いだろ。 「俺にはわかったっていえるし、ナルトにはうるさい、とかナルトの言うとおりね、って言える。でもお前に言われたら何も言えないだろ。それはわかる?」 つま先に目を当てたままうなずく。 「わかってるならいいよ。でも謝れって言ってるんじゃない。そんなの楽すぎるだろ」 やたら情けない気分で目を見開いてないと歯を食いしばらないとどうにかなりそうだった。できることなら耳を塞いでもうわかったから止めてくれといいたかった。壁に石を握ったこぶしを叩きつけられる、頭から揺さぶられる、うすく硬い殻を手のひらで砕かれるような気がした。 男のつま先が動いた。しゃがみこまれて顔を覗かれる。自分の影になって、日は暮れかけていたからなおさら顔は見えなかった。だがその表情に乏しい右目が片時も自分を離さないのがわかる。 お前だってわかってるでしょ。 「お前が悪かったわけじゃないし、サクラが悪かったわけじゃない。いい悪いじゃなくて思いやりだろ、そういうの。違う?」 サクラが体力ないのは当たり前だ。ナルトだって今は小さいけどいずれサクラを追い抜く。技の型が覚えられなくたってそんなの人それぞれだし、それは悪いことじゃなくてしょうがないことだ。サクラがそれで悩んでるのも知ってる。 みんな知ってた。 「そうだろ」 『できないなら出るな!』 片付いた任務で点呼を取るためにあつまった木立が開けた場所、終了を言い渡そうと木の上から降りようとしたときだった。カカシは目を見開く。 打ち据えた声に少女の肩がびくりと揺れて、強ばった。 『サスケ!そんな言い方はねぇだろ!サクラちゃんだって』 『うるせぇ、ドベは口塞いでろ』 『……ごめんなさい』 少女を見た少年の面がひび割れて、その隙間をかすかな後悔と狼狽がよぎった。だがすぐにいつものように凪ぐ。眉根を寄せた不機嫌な色にすべて埋もれるのをつぶさに見ていた。 『……先生も、みんなごめんなさい』 『ん、怪我はない?』 『大丈夫です』 『じゃいいよ、今日は解散。明日もいつも通りだから』 さようなら、と見上げる碧色の目が妙にきれいに見開かれていて、眦にぬぐった痕があった。無言を欲しがる毅い瞳にカカシは言葉を飲み込んだ。 『ほら、解散だ。明日遅れるなよ』 隣に立ったナルトが少年の袖を引っ張る。小突かれて、少年が袖を振り払った。表面張力だけで保っていた沈黙はあっという間につくりものみたいな日常的な殴りあいになった。 泣きそうな顔に見えた。 「べつにサクラ泣かせたいわけじゃなかっただろ」 頷く。 幼い子供の言葉数が少ないのは感情の種類が少ないことで、大人の言葉数が少ないことは明確に示された距離の前に立ち尽くしているか、言うべきことがありすぎるかだ。少年を幼い子供と言うには身長は伸びすぎていたし、大人と言うには視野が狭かった。余裕もない。大人も子供も腕の数が同じでも抽斗は少ないのだ。 (『できないなら出るな。危ないだろうが』?) 大丈夫です、と答えたとき、ほんの少しだけ少年が安堵をにじませたのをサクラは知らない。 優しいことと上手に優しくできることは違う。 「おまえね、ほんとに言葉が足りないんだよ」 不機嫌な表面のままガチガチに強ばっていた少年の顔が後ろめたさでいっぱいになっているのをカカシは見あげた。右手を出すのをやめた。見開かれた黒い眸のふちに後悔があって、自分が撫でたら毀れてしまうのがわかった。 少年はそれを許さないし、自分もいやだ。 カカシはゆっくりと腰をあげる。 (『泣かせたかったわけじゃない』) サクラの体が具合悪いのはわかっていた。ふらついてるのもわかっていたし、頑張っているのも知っていた。サスケは唇をかむ。けれどカカシは何も言わなかったし、ナルトは少しわかっていなかった。 サクラの顔がちらついて、ことごとくがつい先刻の顔なのにぐちゃぐちゃになりそうだった。 何であんな深刻に受け止めるのか。ちょっとした注意になればそれだけで十分だった、誰にでもサスケは同じ口調だ。だから平気だと思っていた。 唇を噛んだ。瞼は閉じたくなかった。夕暮れにカカシの爪先だけ見ていた。 この爪先がなかったらきっと家でも森でもどこでもいい、誰もいないところでしゃがみこむに決まっていた。体を丸めて肘を組んで膝を抱えて顔を伏せる。喉が震えても、声はぜったいに出さない。誰にも見られたくなかったしそんな自分も御免だ。 「だからああいう役回りは俺がするよ」 頷く。 頷くことしかできない自分がいやだった。恥じた。サスケが頷くことを笑って許すこの男もいやだった。いっそ殴られた方がよかった。子供が声をあげて泣くのは誰かが振り向いてくれるからだ。だから殴られた方がずっとましだった。 「そもそも俺の監督責任なわけだし」 「……それは違うだろ」 漏らした言葉に返ってきた男の声は冷えていた。 「おまえ馬鹿だって言われたいの。謝れって言ってるんじゃないって言ったでしょ。甘ったれるな」 「……」 「謝るとそれだけで何かした気になるだろ、相手がなんか言うと謝ってるのに、って思うだろ、楽だろ。だから謝れないって辛いだろ。叱られるのも一緒だ。おまえだって殴られた方がマシだって思うだろ。だからみんなが叱ってくれるのはガキの時だけだ」 喉元で何かが引っ込んだ。熱をもっていた目頭がいつも通りになった。前髪を掻き分け、額当てにサスケは強く右手を押し当てた。滑らかな金属の冷たさ。 「甘えるな。そんな楽なことさせてやらないよ」 「……悪かった」 「そう、今のがお説教だ、わかってればいい」 もうここはアカデミーじゃないのだ。 胸をなまぬるさでひたしたものは自尊心とよく似ていた。涙でも量れなかった。 優しい子がむりをするとこうやってぼろが出る。 寄せられた好意に何を返せばいいのか、よくわかっていない子だ。 「サクラは気にするような子じゃないよ。だから明日はいつも通りだ、わかった?」 「ああ」 「謝る必要もないし、サクラも困る。だからおはようって言ってやれ」 「……わかった」 「よし。以上終わり」 ようやくサスケが顔をあげた。黒瑪瑙みたいな目には不思議と後ろめたさはなかった。何でそうなったかはわからないがともかく安心した。 カカシは長い長いため息をつく。うつむいて左目を隠す額当ての結び目のあたりに指を当てる。猫背で肩を落として、情けない格好をしている自覚はあったが取り繕う気はない。 「あんまり慣れないことさせないでよ。いちおう先生なんだけどさ、こんなまともな先生役なんて俺が」 「……遅刻」 「ははは」 ようやくいつものとんがってぶすくれた口調になって安心した。今度は安心して右手を伸ばした。ごわついた髪を撫でる。 「あんまり慣れないことさせないでよ」 (ぜったいころさせやしないよ) 海の音が遠くなってもあの日の言葉を嘘だと詰ってくれない。 だから男は謝ることができない。 |
「かえりごと」/カカシサスケ |
ううん、暗いですね。
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