キッチンドランカー












買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れておくのを忘れた。

せいぜい二時間程度の放置で腐るような陽気ではないが、風呂上りに飲むのにはありがたくない。だが飲むのは習慣だ。飲まないと落ち着かない。据わりがわるい。

夜中にみしみし骨が軋む、右膝にもサポーターを当てている。ギチギチと体の芯が確実に成っていくのは多少の痛みがあっても悪い気分ではなかった。

一日いちにち体が昨日を置いていく。時が経つことは前進と同じことでなければいけない。だからサスケは欠かさず飲む。

氷はあるだろうか。

髪から滴が床に落ちる。

シンクのカゴからグラスをとると、冷凍庫を開けた。さあっと流れ落ちた冷気が一瞬気持ちがいい。足で踏み台を引き寄せると冷凍庫の一番上、製氷皿を取り出した。思い出したように作ってそのまま使わなかったらしい、きれいな氷ができていた。

バキバキと軽くひねって氷を二個グラスに落とし込むと残りは戻した。

踏み台を降りて冷凍庫のドアを閉める。

(同い年なのよ)

母の手はけしてきれいな手ではなかった。骨格こそ女のものだったが生業に添って硬い手のひらで、年をとっていたわけでもないのに赤みが強く、指も節が目立ってさらりと乾いていた。

皿洗いを終えて布巾でふかれた、その指が部屋のなかを指差した。

(炊飯器がお前でしょ、冷蔵庫は)



ぬるい牛乳に二個の氷はあっという間に丸くなって浮かんだ。グラスを一気に呷ってから、まだ喉が渇いた。牛乳は濃くて厭だ。水道水もぬるくて厭だった。

だから冷凍庫をふたたび開けた。

踏み台を引き寄せるのがいやで、そのまま製氷器に手を伸ばした。踵を持ち上げて背伸びをする。製氷皿に指かかすめる。五秒と持たない爪先立ちをして右手を伸ばす。体重に耐え切れない足の親指がつぶされるみたいな痛み、だが堪えた。

震える指先に引っかかったのを一気に引っ張った。

(あ)

傾いた製氷皿は重力のままに落下した。傾いてねじれて、白い氷の塊がおちるのをコマ送りで見ていた。





赤い炊飯器は五合まで炊ける、そろそろ十三年目になる。冷蔵庫は、踏み台がないとサスケは冷凍庫に届かない。

(同い年なのよ、生まれるたびに壊れるんだもの、おかしいでしょう)

あれから何年が。





かつ、と床の上を氷の塊が滑り、冷蔵庫の底に当たって跳ね返り、爪先にぶつかった。

場違いなため息が鼓膜を叩いた。

「……危なかった〜」

なんだそれ。なんだ。これ。
なんだこいつ。

「・・・・・・カカシ」
「なにやってんの、思わず手が出ちゃったよー」

床寸前で製氷皿をうけとめた姿勢そのまま、しゃがみこんだ闖入者がはい、とトレイをさし出す。

「氷使うんでしょ、ほら」
……なんなのよ。

いつも表情をあまり動かさない子だが、今日はまた極めつけだ。ただ物言わぬ黒い目でカカシを穴の開くほど見つめてくるだけで何も言わない。最初の頃に比べればだいぶ表情から感情が読めるようになったが、今日はなんだかわからない。

思わずにしろなんにしろ、一瞬でも、本気で走ってトレイをキャッチしたカカシは首をかしげる。

一生懸命手を伸ばしているのを見て危なっかしいな、と思ったのだ。そしたら案の定だ。言い過ぎかもしれないが、気分は九回裏二死走者一、三塁逆転サヨナラタイムリーの場面、三塁ランナーがバックホームにスライディングするようなものだった。

まあ、れっきとした不法侵入で、褒めてくれとは言わないが、なんだかもうちょっと反応があってくれた方が嬉しい。いや、別に期待したわけではないが。

ひとり暮らしの家には大きすぎる冷蔵庫で、ドアが開いてる冷凍庫の中にはたいしたものはなかった。お茶の葉っぱが冷やしてあるだけで、いかにも空っぽなのが寒々しかった。なんだか年季が入っている。

四、五人用だろうか。

何とはなしにむかついたカカシは主の了承も取らずに、そこらへんにあったグラスにトレイから氷を落とし込んで、ずいっとサスケの手に押しつけた。落としそうになる指を上からつつむようにしてしっかり持たせる。

不法侵入という言葉はなんだかいやな響きだった。冷蔵庫の大きさには目をつぶってやってもいいが、閉めだしを食らうみたいな言葉はいただけない。そう、いただけない。

(……なんなんだかね)

わけのわからないことを考えている自覚はあった。あったがカカシは右目もつぶって考えないことにする。答えなんか出ないだろうし、出たところで厄介だ。知らんふりがいちばん。

「落ちても三秒ルールって言うけどね、落ちないほうがいいでしょ」

侵入者のわけのわからない理屈をどこか遠く聞いていた。すっとぼけた上司に押し付けられたグラスが手の温かさにゆっくり曇っていく。指先が冷えて、喉の渇きは忘れて冷たさだけ感じていた。床に落ちた氷も爪先の熱で溶けていく。

なんなんだ、あんた。
とんちんかんな科白を我が物顔で他人んちの台所で吐いて、あんたアタマいたいんじゃねえの。戸締りはしたはずだ。どこから入ってきたんだよ、なんかまるでわいたみたいだ。虫かよアンタ。ウスラトンカチだ。

カカシの眉根がぐっと寄った。右目が見下ろしてくる。

「……なに笑ってんの?」







コマ送り、重力に引っ張られるトレイを見ながら過ぎった。
赤い炊飯器は五合まで炊ける、そろそろ十三年目。冷蔵庫は。
毎日牛乳を飲んだ。背伸びして、爪先だって、痛むほど肩をめいっぱい伸ばしてもやっぱり。

(やっぱり届かない?)









(ウスラトンカチがひとりだ)
「サスケ、なに笑ってんの」

すねたみたいな大人気ない言葉の響きに噛み殺す。理由はぜったい教えてやらない。
男の手のひらから自分の手のひらへ、踏み台を出させなかったちっぽけな矜り。

だからサスケは笑う。


















カカシサスケ(イタチ)/キッチンドランカー




「台所の飲兵衛」→「台所のバカども」
同い年なのはうちの今は使っていない冷蔵庫と兄です(笑)。
なんとなく、兄弟ってこんなのかなあ、と考えました。
やっぱりカカサスが好きです。



 

 

 

 

back