アブラカタブラ 霙みぞれまじりの雨音は夜半になって鳴り止んだ。 もぐりこんだベッドの布団はしめりけが有ってみょうに重たい。湯冷めしていたからだから布団に熱を吸いとられて、サスケは小さくくしゃみをした。 寒い。 風呂上りにうっかり新しい巻物を手にとったのがいけなかった。もとから何かやりだすと視野がせまくなる性質だから濡れた髪もそのまま、薄着でまるまる読みきってしまい、もう時計の針はてっぺんで重なろうとしている。もうひとつくしゃみをして、二時間前の自分を呪ってみるが、体が温まるはずもない。 ストーブなんてない。と言うか、正確には使えない。灯油を買うだけの余裕がないからだ。アカデミーに就学中はあった助成金も、卒業して収入を得てからは里の懐事情にあわせて減額されてしまった。だから、むしろ前のほうが財布の紐はゆるくできたぐらいだ。独身アパートの備えつけストーブはワンルームの隅っこで寂しく埃をかぶっている。 手や足の先がやたらと冷たい。なるべく身体を丸めようともぞもぞするが、布団は冷えたままで肩の隙間から冷気がはいりこむし、冷えきった指をすり合わせてもちっとも温まる気がしない。眠るどころの話ではなかった。でも今さら布団の外に出る気もしない。……サスケはジレンマに陥った。 お湯でも沸かして何か温かい飲み物でも作ろうか。だが雨樋を伝い屋根を叩く水音が聞こえないと、耳につくのは時計の音ばかり。青い光が寒々と横たわる部屋の中、氷点下にちがいない空気に寝巻き一枚で出るのには根性がいる。任務や修行なら話は別だが、布団の中ぐらいは休んでもいいだろうと思う。もやもやと眠気はあるのに寒くて眠れないせいで、誰にともなく不機嫌ないいわけじみた思考をめぐらせていると、またくしゃみが出た。 (――――貧乏が憎い) 鼻水をすすり上げながらサスケは本気で思った。 お湯でも沸かして何か飲んでから寝ようと、毛布をずるずるひっぱりだしてベッドから出る。このベッドもところどころスプリングがはみ出ているのをゴムテープの愛嬌でごまかしている、よく言えば年代物だ。ひたりと床板についた足の裏から熱を取られて、きゅっと指をちぢこめた。 冬は嫌いだ。だからといって夏が嫌いじゃないわけではない。築ウン十年のアパートは、アスファルトにまともに炙られて金魚鉢の金魚が茹で上がる。扇風機も意味がない。 毛布に包まったまま、がしゃんと薬缶を火にかけてから、窓から差し込む夜明かりだけで手探りに急須と茶筒を取り出す。みょうに軽い手ごたえしかしなかった。 (きれてる) む、と眉を寄せて冷凍庫をのぞき込むが、茶葉の予備もなかった。チィと舌打ちするが急須は急須であって魔法のランプではないから、なにも出てこない。 そして、断固として白湯はいやだ。ますます貧乏な気分になる。あまり嗜好品に手を出さないから茶以外の飲み物は牛乳しかないが、それも風呂上りにきっちり飲みきってしまった。 なんにもない。サスケは落ち込んだ。 仕方なく取り出した湯呑茶碗に片栗粉をぶちこんだ。流しの横に淡黄色の柚子(サクラが家に沢山なったといってくれたものだ)があったので、皮も入れる。甘いものは好かないから砂糖は少なめに、お湯が沸くのを火の傍で待つ。微々たるものではあるが火のそばのほうがマシだし、薬缶の口からうすく上がる湯気が目の前をやわらかく霞ませてあたたかい。 本人の自覚なしで、ほんのすこし、表情がほころんだところで、ひょうと冷気が足元を撫でた。外と水のにおい。暗がりに慣れていたところにいきなり光が飛び込んで、目がちかちかした。 「俺にもちょうだい」 目の前にかざされて蜜色に部屋を明らめるカンテラの向こうで、おなじみの男が立っている。 「勝手にはいんな」 「勝手に開いたんだよ」 ちょいちょい、と人差し指を曲げて見せるのにサスケは呆れた顔をする。ピッキングおかまいなしのカカシは五センチ足らずの上がり框に水晶飾りのような滴をつけたカンテラを置き、屈んでサンダルの留め金をはずしていた。 玄関横に台所がある部屋のつくりだから、サスケはカカシを横目にみる。手甲から出た指先が赤く、爪の色が紫なのに免じて、同じ湯呑茶碗をとりだして薬缶に水を足した。 「なに作ってるの」 「葛湯」 「甘いのだめじゃなかったっけ」 「気分だ」 「ふうん。俺のも砂糖あんまり入れないでね」 後ろからの声に、匙加減がわからずゴソリと入れそうになっていた手を止める。半分に減らすと、そうそう、と返事が聞こえた。手元を明るくしてくれるつもりなのか、カカシはがしゃん、と流し台の上にカンテラをおいた。 「ひゃ」 いきなり首筋に冷たい滴が落ちて、サスケは砂糖入れを落としそうになった。後ろを振り仰ぐと、光を映して今は金色の髪先に水の粒がいくつか光っている。笑われた。 「変な声」 「とっとと拭け、濡れる」 「タオルどこ」 薬缶のもち手にかけていたタオルを渡すと、カカシはゆるそうな目元を和ませた。笑う。 「あー、……ぬくいー」 薬缶の下でちょろちょろ燃えるガス以外、火の気も何もない部屋で何を言うのかと面食らった。吐く息が白いのは屋内も屋外も変わらないが、風がないだけマシなのかもしれない。 「外、雨か?」 「なに言ってんの、雪だよ、ほら」 マスクで隠れなかった右目のあたりを拭きながら、カカシは髪の毛をつまんで見せる。ぽとりと落ちた物を思わず手のひらで受け取ると、氷の粒だった。手のひらでじわりと溶ける。 雨音が聞こえなくなったのは、氷雨が雪に変わったからだったらしい。 ようやくマヌケな音を立てて沸騰した薬缶から湯を注ぎながら、飲んだら帰れと言った。ふんわりとオレンジ色の光をにじませる湯気と一緒に柚子のにおいがした。頬をなでる暖かさに、眠気がもどってくる。飲んだらとっとと眠ろう。目の前の男もだが、明日も任務がある。 「やだ」 けろりとのたまう敵に白い目を向けながら湯呑茶碗を渡す。 「帰れ」 「えー」 「帰れよ」 「やだよ」 「なんで」 湯呑を持った手の指にカンテラをひっかけたカカシは、すたすたと部屋の奥、ベッドのあるほうへと進んでいく。ゆらゆらと灯かりが揺れるたびに、冷えきった壁の影も絵本のおばけのようにゆらゆら揺れた。おい、ととっさに追いかけた背中は歩きながら器用にベストを脱ぐ。 「オヤスミ―」 「おい、寝ッころがって飲むな!」 「じゃあ起きるよ」 ご近所に配慮して小さな声で怒鳴ってからしまったと思う。これじゃ帰らなくてもいいといってるのと同じだ。もそもそ布団ごとベッドに起き上がって顔だけ出した様子は何とか虫のよう、カカシは右目だけで笑い、口布を首もとまで下ろした。 「それならいいんでしょ」 大儀そうに両手で抱える湯呑茶碗、つけた口元が嬉しそうに笑っているのに血がのぼる。ごつ、とこぶしを入れると抵抗なくがくりと銀鼠の頭が折れた。そのまま動かない。 「おい」 やっぱり動かない。お世辞にも気は長くないから、焦れたサスケは飲みかけの湯呑を床におく。ぎしりと片膝をベッドに乗せて覗き込むと、ぐいっと腕を引かれた。驚く間もなく怒る間もなく、一体どうされたのかベッドに腰掛けさせられていて、ぱすぱすとやる気もなさそうに頭を撫でられた。あたたかい湯呑を手渡される。 「寒いからね」 「うちに暖房はない」 短い即答にそういう意味じゃなくて、とカカシは笑う。 「人気のない家は寒いでしょ」 甘さをおさえたはずの葛湯はそれでも甘くて、サスケもカカシも半分以上残した。体が中から温まって、うっすら漂う柚子の香りにうとうとしながら、頭の隅っこで湯呑茶碗を出しっぱなしだとこびりついて洗うときに大変だと思う。 かしゃん、とガラスが擦れる小さな音がして、ふいとカンテラの明りが消えた。 せまくるしいベッドのなかで、ぺたりとカカシの足がサスケの足にくっつく。つめたい。だがもう眠くてどうでもいい。ほうっておくうちに、ことんと眠りに落ちた。 雪白のまぶしい朝に起きれば客の姿はなく、シンクのカゴに二つの湯呑茶碗が逆さに置かれているだけだった。 |
「アブラカタブラ」/カカシサスケ |
チチンプイ。 |