プロペラ ぽつんと額に落ちた滴に張りつこうとする瞼を持ち上げた。 すこし意識が遠くなっていたらしかった。ブラインドを下ろした窓から差し込む光は細い。外に唯一開かれた換気扇が流れ込む風を受け、思い出したように回っていた。そのたびに白い光が壁に踊るのを、覆い被さっている肩越しに見た。 「だいじょうぶ?」 湿った髪を生ぬるい手でかきあげられて、顔を覗かれる。ぴたりと接した腹の深いところあたりから声の振動が伝わるのにすこし驚く。まだこういう近すぎる体温は慣れない。乱れた呼吸を整えることも。抜かれる時の内臓を引きずり出されるみたいな感触の不快さに、顔がゆがんだ。 間近にある眼を真正面からは覗けず、少し髭の浮いた、やはり見慣れない口元に視線をずらすと、汗が伝うのを見た。色素のない髪を張りつけた額に浮かんだ汗がゆっくりと流れ、閉ざした左瞼から睫毛を濡らし涙の道を通る。整った鼻筋をたどり、さいごに薄い唇で滴を結んだ。 (落ちる) もったいない、とぼんやり考えた慣性のままに指を伸ばす。カカシの右目が驚いている。チャクラを無駄に消費する左目は眼帯に覆われているか、閉じているかのどちらかだ。だからほとんど見たことがない。 と、指先を舐められた。眼を細めて笑われ、指先を噛まれた。いやな予感。 さっきと同じ問いかけを違う意味合いでかけられる。 「……だいじょうぶ?」 口づけられて逃げる間もなく、舌先に歯を立てられる。脆弱な粘膜に歯を立てられるのは、そのまま侵略されるみたいで噛み千切られる恐怖に背筋が震える。強ばった身体を撫でる手のひらにほだされそうになるのが悔しい。 「やめ……」 うまく力の入らない手で、肌の上をさまよう手を押える。身をよじって蹴り上げた片足首をやすやすと捕らえられて、くるんとうつ伏せに身体をひっくり返された。身を起すひまもなく、覆い被さられる。ことさらゆっくり知らしめるように、足首から膝の裏を撫でられて、体の芯を震えが這いのぼった。 後ろで喉を鳴らして嬉しそうに笑っているのが聞こえ、頭に血がのぼった。 「そのままじゃお腹壊しちゃうから、後始末するだけだよ」 「頼んで――――ァ!」 独りよがりな科白と同時に節の目立たない長い指をいきなり突っ込まれ、かき回されて内腿の筋が引きつった。かき寄せたシーツに強く左頬を押し当てて息を噛み殺す。受け入れさせられた場所はまだくすぶる熱を残して、弄くられればひとたまりもなかった。 「……ァ、……あぁ」 耳殻の後ろに熱く湿った息が落ち、甘噛みされて耳朶をすくい上げるように舐められた。ゆっくりと舌を差し込まれる一方、過敏になった襞を指で擦りあげられて、とうとう高い声をあげる。下からも耳から犯されるようで、もう訳がわからなくなる。 シーツと腹の間に挟まるのが痛くて腰を持ち上げると、笑うのがわかった。羞恥で頭が焼ききれそうだ。股の間からだらしなく涎をこぼすのも、誘い込むように焦れるように内がうごめくのも全部見られて触られている。 (くそったれ) そもそもなんでこうなったのか。 「前から思ってたんだが」 「んー?」 ぼやけた顔が離れていってピントが合う、それを奇妙な気分で見つめていた。右目の下をかたい親指の腹がなでるのに眼を細める。 「あんたそういう趣味なのか」 第一声に撫でていた方の手で口布を戻した男は思いのほか快活な笑いをもらした。 そうきたか、と笑う。 潮騒がたえまなくうちよせた波の国からあと、男は時おり少年の部屋の扉を叩いた。何しに来た、と訊けば最初はプリントの配布を忘れたとか、断水になったとか色々言ったが、そのうちに何も言わなくなった。そして少年は訊かなくなった。 この取り澄ました少年が、なんで、とか疑問を向けたり真っ赤になられたら、不用意に何を口走っていたのか判らなかった。 この行為に理由らしい理由はないからだ。 だが少年は少年のまま、目つきの鋭い淡々とした目を向けている。そういうのは悪くないと思う。なんだろう、緊張感、緊迫感、喉笛にナイフを切れるか切れないかぎりぎり押し当てられるような。 「趣味っていうか、射程距離?」 「節操なしだな」 「否定はしないよ」 「あんたはいつもそうだ」 「うん、そうだね。サスケはこういうの、やだ?いやならやめる。二度としない。ここにも来ない」 事務報告をするような平坦で変わりない声に少年の眉根が寄った。わずかに翳った眼の色。表情の動かし方は眉を寄せるか唇を引き結ぶか、それでもだいぶ見分けられるようになったと男は思う。 これも悪くない。 「……」 「黙っていてもよくわかんないよ。言いたきゃ言いな」 少年が気まずさに何となく持ち上げた指で唇をこすると、さっきまでのやわい感触は拭われてしまった。冬至を過ぎて夕暮れも間延びするようになった。男の体で切り取られた赤光の影は少年の身体をおおい、わずかに冷やしていた。工場の終業を知らせるサイレンが聞こえてくる。 膝の上に見るわけでもなく広げていた巻物の紐を指でもてあそんだ。 (あんたにとっては、選択肢にげみちを与えられるほどどうでもいいことなのか) 「……あんたはなにも否定しないけど認めもしないな」 「答えになってないけど、どうだろうね」 「煙に巻くな」 「ごめんね」 「そんなの訊いてるんじゃない」 「うん、ごめん」 「だから、」 すい、と手が上がり、言い募ろうとする口元を紙一枚の距離で覆われた。右目が困ったように笑う。こんな笑い方も、つい最近まで知らなかったものだから、胸の柔らかいところがさわりと鳴った。手のひらの温みを触れない唇が感じて、そのはかない温度が泣きたくなるほど悔しかった。温度なら伝わるのに。 「だからね、俺そういうのがうまくできない。なんでとか訊かれても答えられない」 触れ方は判る。言葉より前に肉がある、体がある。だから触れる。 「ごまかさないままで、なに言えばいいのかとか、どうすればいいとか、よくわからない」 うすい布一枚で、いびつな鏡であるはずの他人と向き合うのを代弁させた。詰まるところ、自分を直視することから逃げていると気がついたのはいつごろだろう。 「だからってみんなこっちに押しつけるな」 「でもそういうのしか出来ないよ。しようと思わないし、あとで無理強いしたとか言われたくないから、ぜんぶお前に選ばせる」 「……ずるい」 「知ってるよ。それでどうする?」 ずるさを知りながら、この子が選ぶことも知っている。腕の中から逃げないのは何でだろうなんて尋ねる、自分は相当なものだ。 (何でもお前の望むとおりでいいって、いっけん優しいけどほんとはすごく酷いよね) 逃げないのを知っていて腕を広げて待つ。ぜんぶお前次第だと笑って、どこかに逃げ道になる理由を作った。ずるいと誰が言おうが構わない。たとえ少年が言ってもカカシはぜんぶ笑ってやれる。 「……あんたはずるい」 「うん」 甘い後悔に唇をかむ、聡い少年が選択を迫る方も命がけだって判ってないから。 (どれを選ぶ?) 逃げ道が必要なのは、理由は誰のものだったのか。 あぐらをかく男の前に少年は膝立ちになる。右目だけで見上げる男の顔を覗きこむと、耳の後に手を伸ばし、ゆっくりと布をひき下ろした。通った鼻筋と薄い唇を見慣れずに目をそらすと、抱き寄せられる。頭の後ろを探る男の手が動きやすいよう首を傾けながら、同じように額当ての結び目を探した。 きつい結び目に爪を立てたが、ふと指から力を抜いた。 「いいの?」 「興味ない」 ふうん、と男はかわいた相槌を返し、ゆっくりとシャツの中に手を滑らせた。 眼帯が取れても左眼がつぶられたままなのに安堵する。それに気がついてひどく泣きたくなった。サスケはきしむ腕を上げて顔を覆う。 「……カカシ」 ふるえる呼びかけに、枕にうずめていた顔をあげた。 差異は首が痛くなるほどではない。負けず嫌いな少年はいつでも顎をそびやかして見上げるから。もしくは睨みあげるから。十五センチ分、首を下向けると十五センチ分視線を上げる。 だから距離が近くなるほど、首が痛くなる。 交差した細い腕に少年自身の目は覆われて、薄い唇がなにか、言おうとして躊躇っていた。力任せに腕を解かせることはしない。かわりに手を伸ばして細い指を握りこむと怯えるように震えたのがわかった。 何が怖い。 「なに?」 布に肉に骨に守られたその奥、おりかさなったもの数え上げていくものの多さはそのまま後ろめたさだった。 「オレ、」 手のひらであまるぐらいのおっぱいもないし、くびれる腰もない、冷えてふかふかした太ももだってないし、ふんわりした香りもしない。腕の中のやせた身体は骨が無理やりに中から肉を引き伸ばしたよう、肋のういた胸があるだけ。 皮をはがされたみたいに神経過敏で、傷つく痛みにいつも身構えている。執拗な骨の成長はひどく貪欲でひたむきで、少年の在りようをそのまま表しているみたいだった。爪を磨き牙を研ぎ、みしみし咀嚼するたびに伸びて肉がついていかなくて裂ける。 喉元で殺した科白はなんだろう。自分ですらわからない。ねえ。 「オレやっぱり」 そんなに好きだったの。 いつかきっと、この理由が息の根をとめるのだ。背中から足もとから、ゆっくりと凍てた針が肌を傷つけ肉を貫いて骨が腐り動けなくなる。足が動かず、指も動かせず、呼吸することだけにぜんぶを傾ける。 傍に座るのが辛くなって、沈黙をむやみと埋めたくなって、視線が渇いて、おはようもさようならもありがとうも言えなくなる。他人と関わらないことは耳を塞いで目を塞いで口を塞いでしまえばすぐに出来る。あまりに簡単だ。 お互いがお互いを特別じゃないとわかっていた。 心の隙間は別の形のなにかでも綺麗に埋まることを知っていた。幸福の色がちがくなるだけで、満たされることには変わりなかった。浅ましかろうが愚かだろうが、生きて歩くからだ。忘却が不可避なら忘却は必せられているのだ。 そのことが嬉しくもあり、悲しくもある。もしも、なんて言葉は言えなかった。いえなくても胸の中ではいつも唱えている。 君みたいな奴なんて百人ぐらいいるんだきっと。そこら中に転がってるはずなんだ。 いちいち首が痛くならなくても目を合わせることができる奴がいるはずなんだ。 長い沈黙の後に、ため息と衣擦れに消えそうな声が返る。聞こえても聞こえなくても、紛れることを前提にした声だった。 「嘘ぐらい覚えな」 こういうところがカカシはひどい。答えが返ろうが返るまいが、まったく変わらない。 かさついた唇を噛むと、うすい皮が破れて血の味が口内に広がった。やわらかな声音で押しつけられた答えをどこに逃がせばいいのか。 罵る言葉はそのまま、サスケに返った。 自分もひどい。顔も見れない。 サスケは瞳を隠す腕をどかさない。その手をカカシが握っている。 繋いだ手を自分からはほどけなかった。 握り返す指先が飢えている、今はそれだけでいいと思った。 (はじまるのに理由はないのに終わる時はいつだって理由があるの) マニキュアを塗った爪に息を吹きかけながらいつかの女が言った科白に、カカシは唇を歪めた。眼を瞑ってちいさな喉仏を噛むと、ほそい嗚咽がきこえた。泣きたいのはこっちだ。 もっともらしい理由がありでもしなければ、とても納得できないほどなのだといえば、なにか変わるのだろうか。 (ひどいのは、ずるいのは誰) 換気扇がカラカラと回って、白い光が部屋に躍った。 |
「プロペラ」/カカシサスケ |
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