やみくもにひきよせた体をどう扱えばいいのか、考えあぐねた。 Over the rainbow
紙を繰る乾いた音が聞こえる。 畳に投げ出された踝が華奢で、作りものめいて白かった。 紙面に荒い刷りで記された文字を、屋敷の幼い主の黒い眸が貪欲に追っていくさまを、斜めに傾いだ視界から見あげていた。午睡をしたせいか、視界に光が入りすぎてまぶしい。 南面、僅かに開かれた障子の隙間に薄い色をした空、白い繊雲が見える。障子紙ごしにぼかされた西日に、埃がふわふわと舞っていた。畳の上には二日をかけて虫干しにされた膨大な書物、墨とかすかなカビ、日なたの匂いがする。 「……目、醒めたのか」 眼差しは紙の上を滑ったままだ。いまサスケは声変わりしたての、風邪引きのような声をしている。喉の奥に引っかかったような不器用な声になったと気がついたのは三日前、いつの間にか聞き慣れてしまって、もとの声がどんな響きをしていたか忘れた。 物覚えはいいほうだし、物持ちもいい。いちど大事と思ったら生半では離さない。でも忘れた。 好きな声だったから少し惜しい。 無造作な手足は筋ばらずに丸みを残し、白い首にはまだ喉仏は見えない。だけどたしかに声は変わった。 ふと口元が緩んだので、寝返りを打つ。うつ伏せになれば視界は正位置。枯れた畳の匂い。組んだ手の上に顎を乗せて、目だけを向けた子どもに目だけで笑う。腕で隠れた口元ももちろん笑っているのだけれど、見せなくても通じる。 「寝すぎで眠いよ」 「ダルイの間違いだろ」 「そうかも」 納得すんなよ、と呆れた科白のくせに響きがやわらかい。 もう一度、寝返り。こんどはサスケのほうへ仰向けに。無造作に投げ出されていた足が、ぶつかるのを避けてくの字に曲がる。 膝小僧の幼いジョイントが妙に可愛くて、指を伸ばした。無言で胸元まで引っ込んだ膝を追うのを諦めて、足首に触れる。大人より速く刻まれる心臓から爪先まで、ことこと血が巡っていてどこもかしこも温かい。爪は淡紅、踝にいじましくでっぱった骨をくるむ、うすい皮膚も温かかった。 未熟な足の甲を掴んで、砕くことだってできた。だから大事にゆっくり甲を撫ぜた。 最初はおとなしく撫でさせてもらうのだって一苦労だった。せいぜい任務中の接触か羽交い絞めにするぐらい。だから今、眉を顰めはしても逃げない、少し緊張していても撫でさせるままにする無頓着な鷹揚さ、それだけでも嬉しい。 (他人を触りたいと思うことは少ないのだけれど) 子供のころに無心で親に触るときを過ぎてしまえば、他人の熱に触れることは少なくなる。 湧いた渇きに手を離して目をつむれば、瞼裏に赤と緑が斑にはじけた。ベッドで寝る時の柔らかな灰色に墜落する眠りとは違う、後頭部と肩に感じる畳の固さと日なたの温みがじわりと体の輪郭を形づくっていく。 すぐに眠気はすっかり消えて、午睡の名残りは喉の渇きだけになった。 紙を繰る乾いた音が響くのに瞼を持ち上げる。 眩しさに目に映るものの輪郭が優しく曖昧だ。壁と畳に落ちたサスケの影だけがはっきりとしていた。 初秋の昼下がり、夏の圧迫さえ感じるざわめきを孕んだ深い沈黙とは違い、軽い空気の中に音もうすらいで遠くなった静けさがある。雲が高く空が遠くなった。 枯れた畳と埃の焦げたようなかわいた匂い、どこかであわあわしく咲く金木犀の香りがすんと漂って、静まりかえった屋敷を包んでいた。 茜に葉を染めだした満天星が夕風にほろほろと揺れる。庭のかたすみ、傾いだ小さな鳥居が見えた。 ここはがらんどうだ。 中に何か入れるべき、だが入れるものをなくした箱の悲しみ。畳の上はいつか片付いて、雨戸も外から閉じられて、日の光は入らない。代を重ねるうちにつやを出した床にも埃が積もる。 雨風に丹も禿げる。ともされた祭祀の火はとだえ、榊の緑も褪せた祠と同じだ。満たされることを望まない空虚だけがある。月に一度だけ、帰ってくる主を待っているから、もうずっと空のままだ。 また紙を繰る音がした。手がそのままうつむいた額に持ち上がって、黒髪をかきあげた。目にはかかっても、耳にかかるほどの長さをもたないため、さらりとすべって落ちるのを見ていた。 眼差しは紙の上。 「……ウザイ、」 同じ動作を繰り返そうとする手が止まった。うつむいた顔があがる。ようやくこちらを向いた。勝手に満足してまだダルさを芯に残した上体を起こして、頬杖をついた。こくり、と小さな頭が傾げられる。眉間には皺。 「あ?」 「って思ったろ。いま」 「……ああ、髪か」 「目が悪くなるよ」 「額当てで持ち上げるからいい」 「無精もの」 「あんたに言われたくない」 「……そうだね」 「やる気ねえな」 「あるよ」 「嘘つけ」 「気が向いたら出す」 「それを無精って言うんだろ」 「あ、そっか」 「ホントにやる気ねえな」 むけられた眼差しが白いのに苦笑い。腕の反動を借りずに腹筋でおき上がる。きしりと畳が鳴る。 立ち上がって見下ろす。見あげる黒い眸が瞬きするのに笑った。 「おいで」 「あ?」 「その本もう読んだでしょ。夕飯作ってくれたら切ってやるよ、髪」 「……ここには鋏ねえぞ」 「俺の部屋にはある。今日はうちにおいで。布団も貸したげる」 躊躇ったあと立ち上がってから、また眉間に皺を寄せた。いつも通りの不機嫌そうな無表情、でも目は笑っているからこれは冗談を言う顔。 これが声変わりまでに縮まったものだ。 「……まともな髪形になるのかよ」 「まーかせなさーい」 「信用ならねえ」 安請け合いに仏頂面の声。けれど背中越しの気配が荷物を片付ける用意を始めたのに、マスクの下で小さく息をつく。 西日を受けて畳が障子が金色の輝きを帯びはじめた。 やがて家々の甍が薄墨を流したような黄昏に沈みだして、淡い明かりが点るだろう。人々がただいまを言うために家路を急ぎだす。おかえりを言う扉が、そこら中にある。 だからこんな日は、自分の所にいてほしかった。 浴室のタイルに鋼色が落ちた。 明かり取りの窓の外はうす青い闇。隣家のラジオが、鋏の音の合い間にかすかに聞こえてくる。 見た目よりも存外やわらかい髪の長さをたしかめる。 「こんなに長くちゃ、見えないでしょ。もったいない」 広がる世界。眩しい世界。幸せを噛みしめることは必ずしも幸福ではないけれど、こうして死んではいない。生きてる。 だから子供らの視界を遮るすべてのものを取り去ってやろうと思う。走ることも飛ぶことも世界は望めば限りない、自ずから由となし自ずから在る、諦めたものを感傷と知りながら小さな背中に見る。いつだって夢見がちなのは子供ではない。 でなければやりきれない。 ジャキン。 「あー……」 「………このやろう」 「はは、済まん済まん。ちゃんと整えるから」 考え事をしていたらうっかり切りすぎた。 睨まれたのに、へらりと笑って、変な表現だが丁寧になり過ぎないように整えていく。しばらく会話はなく、鋏だけが音を立てていた。 「こんなんでどう?」 「悪くない」 鏡の中の目がくるりと上がって、視線が合う。かすかに細められた。機嫌のいい猫の目だ。褒められれば(実際は褒めてないが)悪い気はしない。恭しく首周りのタオルをほどいて、髪の毛を払ってやる。シャワーのコックを捻ってタイルに水を流していると、もぞもぞと落ち着かない動きをしている。 「どうしたの?」 「……なか」 背中に痒いところがあるみたいに、手を回してもごもご動かす。眉間に皺を寄せて不機嫌そうだ。と思ったら、がばりとシャツを脱ぐのに心臓がひょんと跳ねた。 パラパラとうねる水に落ちた髪の毛に納得した。刺さったのだろう。 心臓に悪い。 顔をうつむけた。足の裏と踝のした、タイルの目をぬって温くなった水が指の間を流れていく感触がこそばゆい。 何回か息を整えて顔を上げる。赤くはなってないはずだ。 うつむいたうなじの、白さにどきりとした。少しだけつやがある場所、真円を描いた白い痕が血の道を避けた首筋をぶつぶつと巡っている。もう、古い傷だ。いずれ他の傷に隠されるかもしれない。でも残る。 信頼と過信、無謀と勇気、結果で別れる言葉の意義を考えることは無駄だ。ただ幸運だった、それだけ。誰が悪いわけでも誰が責めるわけでもないが、呵責は白い傷になって残る。疼く。みんな言い訳だ。 鏡越しに目が合った。重苦しさに後から寄りかかるようにして抱き寄せた。 もう使い終わって役立たずになった刃物が落ちる。 「……強くなろうね」 「あたりまえだ」 (ああ、やっぱり) 笑った。やっぱり優しい。だから傷の疼きに知らない振りをした。細い顎を持ち上げて、黒眸を上から覗き込む。はりついた髪を取ってやろうと指を伸ばすと瞼が下りた。まっすぐ下向いた睫毛は伏せた時に、きつい眼差しをけぶらせる、それが好きだった。 仰向いて、たどる指のくすぐったさに耐えて震える瞼。部屋ごとすっぽり覆う雨にも似た水音が外界を遮断して、湯気が立ち込める。外からは何も聞こえない閉塞。ここはがらんどうではない。息苦しさに切ったばかりの髪に顔を埋めた。 「おい、なに」 「ちょっとだけ、このまま」 息苦しく温かい。息苦しさに離そうと思いながら、腕の力はゆるまなかった。 欠損を埋めていく。傷痕にいまさら落ちた血肉をおしあてたところで戻らないのはわかっている。けれど体の隙間で暖まった息苦しさに満たされていく、空隙がたしかにある。錯覚でもよかった。 体温、自分のよりはやい鼓動、はやい呼吸、ほそく骨ばった体、羽根でも生えそうな肩甲骨、やわらかい皮膚、昂然と大地を踏みしめる足、その踝。まだ幼く、色も持たないカルス。 その淋しい背中で寂びた空虚に耐えた。この子はそれを誇っていい。 (いつか) いつか、時が来る。 声が変わり四肢が伸びて心臓が自分と同じ速さで刻む、眼差しが同じ高さになったら見えるのは背中だけの気がした。隣には立てない。だから、息苦しさも温かさも無くして触れられもしない背中だけが、自分の網膜に? 足の裏を濡らす湯が冷えながら肌を温めていく。だがいつか冷める。そうやって物事は熱を失っていく。失いたくなかろうがなんだろうが、そういうものだ。 (できない) 目を閉じた。あと一歩しかない。 境界は結局のところ、点の集まりでしかない線であって、幅なんてあってないようなものだ。超えられないほど深いと思うのは、躊躇いがそう見せるだけで、越えたいと思えば越えられる。しょせん幅もない線だけだからだ。紙の表裏と同じ、世界が色を変えてもすべては一瞬。 だから足踏みをして越えられないと思うのはただきっと、諦められるとおもっているからだ。もしくは、諦めの理由を相手がくれるのをまっているだけだ。 だから、やみくもにひきよせた体をどう扱えばいいのか、考えあぐねた。 (この期に及んで?) 「カカシ?」 この期に及んで。途惑う体が頭と別方向に働いて、腕の中で沈黙にもがきだした体を離さない。往生際が悪い。始末に終えない。 (お前が言ってくれないと) きっと落ちる。判りきっている。負ける。それも判っている。みんな投げ出すかもしれない。知っている。 ほんとうに独りがさびしいのは誰かなんて。 だから負けるのは判っていた。ほんとうに、往生際が悪い。 「ほんとうに」 ふと漏れたのはため息、見あげる不安げな黒眸、揺れている、でも逃げない。ただ、見極めるためにこちらの答えをまっている。 沈黙が得意な子だから体のいい言い訳もくれない。臆病だから手を伸ばしもしない、でもそのことに胡座をかいていた自分は何も言えない。 うつむいた首筋を晒すことの意味を気がついて知らない振りをしていた。そして手の中から逃げないのを知っている。今も逃げない。だからいつでも離せるなんて勘違いしていた。いま離せないのに。 まっすぐ目を覗き込んだ。ぐるぐる戸惑っている、同じ目をした自分が映っているのを、正面から見る。 足の裏のタイルの上を生ぬるい水が流れていた。混じる鋼色がくるくる回って流れていく。水の中に沈んで流れて、海にたどり着くかもわからない。もうかえりみられない死骸だ。 この子の中で流れてしまいたくはなかった。 ほんとうに。 (どうしようもないね) 「……おまえが、」 落下感。浮遊感。加速する。同時に感じた。上下はわからない。もう境界を越えてしまった。引き帰せない。でも引き帰さない。みんな今さらだ。答えはとうに出ていた。 水音だけが響く。 「おまえが好きだよ」 窓の外にはもう、夜がきていた。 |
「虹をこえて」/カカシサスケ |
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