プール
剥き出しの足裏を濡らしていく生ぬるい水が気持ちよかった。デッキブラシを擦る手を止めて、水色のペンキの上に蟠る自分の青い影を黒髪の少年は見る。真上から降り注ぐ陽射しが照り返し、視界に赤や緑の蛍光がちらつく。眩暈の感覚をため息と瞼を瞑ることで追い払って、またデッキブラシを動かした。 「せんせー!何でこんな依頼が忍者にくるんだってばよ」 「んー?」 「そうよ!プールの掃除なんて他の人だって出来るじゃない!」 かわるがわるデッキブラシを振り回して叫ぶ、淡い桃色と金色がまぶしい。まだ昼には何時間もあるのに、真上から叩きつける光が飽和して影が色濃い夏の日は、汗が滲むほどの重みを持つくせに奇妙に遠く思えた。濃い青をのったりと白い雲が動いている。 第七班、本日の任務はプール掃除。と言っても学校用の25mがしっかりあるものではなく、とある大衆食堂の客寄せの小さめのプールだ。人が使わない秋冬の間に風で吹き込んだ土やら木の葉やら、しっかり成長した藻やらいろいろなもので、プールの中の水はどろどろだった。青緑色で飲んだらお腹でも壊しそうな水面に、アメンボやミズカマキリがついつい泳いでいるのは楽しかったが。 今日も今日とてみているだけで暑苦しい格好のままの担当教官はプールサイドに腰をかけて本を読んでいる。くしゃりとそこだけ露わな右目を細めた。 「人手が足りないからねえ」 「何よ、それ―!!」 「まあまあ、終わって水入れたら遊んでもいいっておばちゃんが許可してくれたから」 「ホント?!」 とたんに金色の少年は飛び上がると、頑張るってばよ〜と叫んでデッキブラシを勢い良く振り回した。キラキラした水が跳ね上がるのに女の子が顔を顰める。 「ちょっと―、水がこっち飛ぶからやめてよね!バカ」 「えへへ、ごめん。でもさ、でもさ!早く終わらせて遊ぼうってば」 「……喋ってる暇があったらとっととやれ、ドベ」 ぼつり、と呟いた黒髪の少年に、むきーと少年が突っかかる。本から目を上げてぎゃいぎゃいと騒ぐ子供を見つめて、猫背の男はため息をついた。 (どうしてこう、一言多いかねえ、あの子は) いつも言葉すくなに淡々と任務をこなす子だが、今日はどこか地に足が着いていないようなたよりなげな雰囲気。逃げ水にも似た希薄な存在に思え、足元に濃く溜まった影があるにも関わらず不安を覚える。 (俺も年かね) そんなことを思いながら眺めていると、飛び掛った金色の少年の拳を、黒髪の子はひょいと避ける。ぬめる床にみごとに金色の子がひっくり返った。バナナの皮を踏んだみたい、と思ってちょっと笑いそうになる。 「くっそー!」 「ノロマ」 「うきいいい!」 (まったく。楽しそうでいいねえ) しみじみと呟いて、頭から湯気でも出しそうな金色の子を元気に叱り飛ばす女の子の背を見ていたが、何か足りない。おや、もう一人は何処へいった、と慌てて探すと横から声がかかる。 「おい、蛇口」 「じゃぐち?」 「水流す、蛇口ひねろ」 出し抜けにかかった声に、心臓がひょんと飛び跳ねた。だが顔は表面上何でもない顔を装った。柄にもなく自分が慌てた、届いた声が現実のものか感じられるまで時間がかかった。 この炎天下でも日焼けしなさそうな白い子供の手が、みどりいろのホースがとぐろを巻く水場を指差している。確かにプールの底に立つ黒髪の子がプールサイドに上がって捻るより、自分が手をのばしたほうが早い。何時もはサンダルで包まれた足が今は裸足、むきだしの小さな爪がそれこそ桜貝のようで可愛らしかった。きっとまだ薄くてやわらかい。噛んでも柔らかくちぎれるだろう。 やっぱり杞憂だ。ほんの少し、不安が薄らぐ。 「お前ねえ、仮にも上司を顎で使う気?」 「別にこれぐらいいいだろ」 フン、と鼻で笑うあたり本当に可愛くない。可愛くないがお望みどおり蛇口を捻ると、ゴポゴポ言いながら生ぬるいお湯が流れてきた。ぐるぐると銀色のノズルをひねり、勢い良くペンキ塗りのコンクリートを濡らす水が冷たくなったのを確かめてから、ホースを子供の手に乗せる。にやり、と誰が見ても人が悪いと思う笑みを浮かべながら。 「はいよ」 「〜〜〜〜〜〜っ!!!」 ぶしゅううっとかけられた水に、叫びは声にもならなかった。何時もはピンピンはねている黒髪も濡れると勢いがなくなるのか、くってりと白い肌に張り付いてる。眉根によった皺も今は綺麗に消えて、黒い眼も引き結ばれていた唇もぽかんとまんまる。唖然呆然といった態の少年に莫迦みたいに楽しくなってもう一回、ホースを波打たせて水をかけた。植木には水が必要、そしてたまに喋りかけてやるのも必要。じょろじょろと丁寧にかけながら、カカシはたっぷりと気持ちをこめた。 「大きくなれよ」 きりきりと眦がつりあがって怒鳴る形に口が開く。そのことに男は安堵する。 「なにしやがンだ!」 「だって涼しいでしょ」 あ、先生、またサスケ贔屓かよ!とナルトが叫ぶのにカカシはにやりと笑う。 「ほーら」 「ぎゃあ!」 ぶしょしょしょっと空をのたうった水に金色の子が冷てえ!と悲鳴交じりの歓声をあげた。調子に乗ってホースの口を勢い良く上に向けると水のアーチが出来る。太陽の光をあびた水がプリズムになって小さな虹ができるのに、目を丸くした子供達がきゃあきゃあと騒ぎながらデッキブラシでがしゅがしゅと底を擦る。 (まったく可愛い) にへら、と頬がゆるみそうになるのを口布が隠すのが都合がいい。いい加減暑さで自分の脳味噌も茹って浮かれきっているらしい。安っぽい水色のペンキもキュートに見えてきた。水遊びをするとき特有の、奇妙にふわふわした気分だ。 「この分ならお昼前に終わりそうだからな。午後は遊ぶぞー?」 当たり前!と拳を突き上げる金色の男の子と、ふんと面白くなさそうにそのくせ口元がちょっと楽しそうな黒髪の男の子。うんうん、若いっていいねえ、と妙な感慨に浸った。 しばらく読書を楽しんでから顔を上げると、サクラが手を止めて見ている。つられて見た。 「ゲ、ゲン、ゴロウだっけか?」 「ちげーよ、タガメだ」 「んじゃ、これ!」 「ヤゴだ」 「あ、それ知ってんぞ、これアリジゴクになんだろ」 「ちげーよ。ヤゴはトンボだ。アリジゴクはウスバカゲロウの幼虫だろ、何でアリ食うのに水ん中いるんだよ」 プールの水深がある場所にたまったよどみにはまだ昆虫が残っているらしい、意外になかよく頭をつきあわせてしゃがみこみ、デッキブラシと手のひらで水中をすくい上げていた。ボウフラもいるぞ、などと意地悪を言う気にはならなかった。 「きゃ」 藻に足をとられたのか、転びかけたサクラを支えたカカシはあらま、と見つめ、服の裾をびしょ濡れにしてしまったサクラはきりきりと眉をつりあげた。カカシはとっさに額当てで隠れていない右耳を押さえる。 「ナルト!虫遊びしてサスケ君の邪魔してんじゃないわよ!」 「えええ〜?!ひどい、えこひいきだ、ひでえよ〜、サクラちゃん」 「……フン」 デッキブラシを振り上げるのに、悲しい条件反射で頭をかばって及び腰になったナルト、思い出したように立ち上がってその辺をガシガシとこすりだすサスケにカカシはどうしても笑ってしまう。 (やっぱりサスケには突っ込まないんだなあ) 「カカシ先生もよ!日焼け止め塗っても日焼けしないわけじゃないのよ!早く終わらせたいの!もー、髪の毛、汚れちゃったじゃない!」 「……はい」 不条理だと思ってももう口では敵わない。お姫様には逆らう勇者はいなかった。 「お冷や、こちらにおいておきますね」 「ああ、どうもありがとうございます」 ささやくような声と一緒に、花茣蓙のそばにおかれたグラスにカカシは頭を下げた。簾ごしに差し込む日はもうわずかに夕べの色が混じっていた。夏至をすぎてしまえば、だんだんと日が短くなって、やたらと夕日が目につく。 夏は夕暮れのにおいがする。いつでも。 「よく寝てますねえ」 「遊びつかれたんでしょう」 依頼人である食堂を管理するふっくらとした笑窪がお世辞抜きに可愛らしい初老の女性は、バスタオルを腹にだけかけて畳敷きの座敷の上で寝ている三人の子供に少し笑う。水遊びをした後は、なぜだか体の芯にぼやけたような疲れがわだかまってとても眠たくなる、どうせそんなところだろう。 「起きたら、スイカが冷えてますから声かけてください。はしりだからまだおいしいですよ」 「どうも」 冷やし飴もありますから、と言い置いて、厨房の暖簾に入っていくのに甘いものがあまり得手ではないカカシはあいまいに頷いた。 食堂は土間から靴を脱いで座敷に上がる店構えになっていて、壁際には座布団がつみあげられている。基本的にお冷やも座布団もセルフサービス、食券式の簡易なものだった。冷やし中華はじめました、の札がかかっている。 南に面している入り口、おおきなガラス戸には準備中の札が掛けられ、簾にはヘチマのつるがとげっぽい葉と黄色い花、重そうな実をぶら下げていた。 本から枝折りを抜き取りながら、背後に声を投げる。 「いつから狸寝入り?」 「……いま起きた」 寝起きのかすれ声にカカシが右目だけを動かすと、サスケはまだ目がしょぼつくのか眉間のあたりを親指で押さえながら視線を動かしていた。まだ寝息をたてているサクラとナルトにはばかって、なるべく小さな声で喋る。 「どうしたの?」 「いま、何時だ」 「だいたい、四時ぐらいだと思うけど。三十分も寝てないよ。あと一時間でみんな起こすから寝てな」 「いや、いい」 濡れ髪はもう暑気に乾いてしまったのか、妙な寝癖になって、そこらじゅうにはねている。肩からずり落ちるやたら襟ぐりの大きいシャツを直している、サスケの目つきはすこしむくんで三割増で悪かった。寝ぼけてるなあ、と思いながらカカシが笑うと、サスケがなんだとばかりに眉をしかめるので慌ててサクラとナルトのタオルを掛けなおしてやる。 「かわいい寝顔だね」 「変態くせえ」 「畳のあとついてるよ」 「……」 自分の頬をカカシが指で示すと、がしがしと手の甲で頬をこするのにカカシはくつくつと喉を鳴らして笑った。友人にあまりいい笑い方じゃない、と言われたことがあるのだが、癖なのだからしょうがない。 こすりすぎたのか、サスケの頬が夕べの光のせいだけではなく赤くなっている。もう一度、しょうがない、と誰にともなく声には出さず言い訳をして、笑う。 借り物のバスタオルをきっちりと畳んだサスケは畳を踏んでカカシの横までやってきた。 「プールの水は?」 「もう溜まってるんじゃない?」 「そうか」 見てくる、と呟いたサスケはいつもはさらしで巻かれている裸足にサンダルを突っかけて出て行ってしまった。あらら、つれない、と置いてけぼりを食らわされたカカシは本に目を落として笑い、また呟いた。 「お前らは起きたならなーんで言わないかね」 「……内緒話だったんじゃねえの?」 「何だそれは。おまえらが起きるから遠慮してただけだぞ」 そういえば、ナルトは最近、サスケばっかり贔屓だ、と口にするようになっていた。写輪眼がらみでしょうがないとはいえ、チームワークを考えればあまり褒められたことじゃない。カカシは呆れたように眉尻を下げ、ため息をついた。 ごろんごろんと二度、寝返りをうったナルトの頭が、ちょうどカカシの右手あたりに来る。黒いタンクトップから剥き出しの肩に赤い日焼け痕ができていた。 「ならいいけどさ」 「どうしたの、ナルト」 くるりと青い目がカカシの右目を見つめてくる。強い目だと思う。サスケもまた人を射貫くようなまっすぐな目をしているが、ナルトの目は深い色をしている。何もかも有るがままをのみこむような色で、時おりたじろぎそうになることもしばしばだ。よく似ている、と思う。 「べつに。なんでもないってば」 わかりやすいと思って一番、複雑なのがこのナルトだ。想像もつかない場所を生きてきた人間のことを、自分の持つ尺度で測りきれるはずはないのだと知っている。 「じゃあ先生、サスケ、どこ行ったんだ?」 「プールにいると思うよ。水が溜まったか見てくるってさ。スイカがあるって言ってたから呼んで来い」 上半身をおこして土間に裸足をおろしたナルトはカカシを心底驚いた顔で見あげる。 「オレでいいの?」 「だってサクラ寝てるだろ。喧嘩するなよ」 あいつがむかつくんだってば、とサンダルに足を突っ込みながら口を尖らしたナルトにカカシが笑うと、ナルトも少し笑った。 「――先生がそんならそれでいいけど」 「ん?」 「んじゃ、サスケ呼びに行ってくるってばよ」 「ん?」 本から目を上げたときにはもうナルトの背は駆けだしてしまって揺れる黄色い花の向こうだ。 「――ん?」 カカシはお冷やを一口含んで飲み下し、ぬるさに眉根をしかめる。グラスをみおろしてから、マスクをおろすと一気に飲み干した。すうすうと穏やかに眠るサクラは言わずもがな。贔屓って、もしかするとサスケがずるい、という事だけではなくて。 (……まさか、だよね) これは思わぬ伏兵登場なのだろうか。 |
「プール」/???サスケ |
七班のつもりが、蓋を開ければ |