階段
















いまだ西の空に残月が白いころ、上司の遅刻最短記録に三人はギョッとするだけの心の余裕もなかった。ホルダーのなかの刃は使いなじんだものだが、どれもきちんと手入れをされていた。新しいものだと手に馴染みがないため失敗する、だからいつも使っているものにしろ、という指示があったからだ。

どこへ、といぶかしむ少女に男はいつものように右目だけで笑って見せ、幾年も人が通ったために真ん中のへこんだ石段をひょいひょいと上がっていく。それを追う三人はどこまで昇るのだろうと思った。

なおく伸びて空をせばめる竹藪の間、かろうじて残った参道の奥にある社は、緑青が苔のようにまつわっている鳥居には不釣合いなほど小さく緑にのみこまれそうだ。祠がすこし構えを立派にしたような代物で、由来をしるした碑もかたむき、手水舎の水は藻が生えていた。だが不思議とお神酒徳利の白い色は埃じみてもいず、榊も青々としており、通う者は皆無ではないのだと知れた。

お参り?と尋ねた金髪の少年に上司は首を振り、こっちに来いと祠の横手に回る。

どれか一個取れ。なるべく古いのがいい。

社の横手、かつては丹青に塗られ五色の彩雲を纏っていただろう、ボロボロに腐食し彫金もはげかけた竜が宝珠をもつ腕に色さまざまのお守りが下がっている。なぜ、と端的に尋ねる黒髪の少年に男は短く答えた。



帰ってきた奴だけがここに結びなおすから。























「慣れるよ。いずれ」

そんなものだよ、と扁平な声が出た。
サスケが少しうろたえると、サスケがうろたえたことに、大仰にカカシは肩を揺らした。じり、と足が後ろに下がろうとして、サスケは踏みとどまった。ベッドに腰掛けるカカシの表情からうろたえた色は拭い去られたようになくなって、かわりに水に浮かぶ油膜めいて乖離した曖昧な笑みが浮かんでいた。

「そんなに困った顔しないでよ」

冗談だよ、とカカシは言った。何一つ破綻ない、完璧に塗りこめたアルカイックスマイル。

「やさしいね」

傷に触れさせまいとする婉曲した拒絶に俯いたサスケは笑った。顔を持ち上げて、カカシにゆがんだ顔を見せた。眉をしかめて唇のはしを持ち上げる、顔の筋肉が表情との連携に慣れていない、随分へたくそな笑顔だと思う。棘さす痛みを知っていながら引き抜こうとしない、後ろ向きな笑顔だった。

変なところばかり敏い。

もうちょっとずるくなってくれればいいのにと思った。せめて自分と同じぐらい、笑い顔が上手になればいいのにと思った。簡単に、無知からあるいは優しさで、他人は目を瞑って騙されてくれるのに。だけれど、大事な場所が自分とちがうこの子だから好きになったのだった。嘘さえつけない。

どうか。
(俺だってしょうがなくて泣きたくなることもあるよ)
どうか痛みに慣れたという顔をしないでほしい。

泣きたいなら声を呑まず、涙をかくさず、自分じゃなくたっていい誰かに、棘さす傷が痛いのだといってくれたら、抱きしめたって文句がないのに、いつも言わない。その小さな矜りを、守るべきか知らないふりをするか、どっちにすればいいのか迷うのだ。いつだってこの子に触ることには後悔がある。傷つけることは痛い。

(俺はおまえに何ができるの)

サスケは他人に期待しないのではない。自分に期待しないのだ。他人から寄せられる何かを、受け取る手のひらを自分は持っていないのだと思っている。なにかを自分があげることもないのだと思っている。だから握りこぶしにしてしまう。

「カカシ」

こんなとき読唇術なんて身に付けるもんじゃないと思う。はじめてイタチに怒りを覚えた。

『ごめん』

こんなかなしい生き物、見たことがない。
ふい、とサスケは夜に姿を消した。

「謝らないでよ」
お前の言葉なんかじゃ傷つかないよ。傷ついたって、嫌いになんかならないよ。

ひとりごとは夜の空気をむなしく揺らしただけだった。なんてバカなのだ。おまえは最短距離を走りたいんだろ。

(勝ち負けにこだわるわけじゃないけれど)

それらすべてひとつのもの。
けっきょく、サスケがイタチを追うのはそれしかないからだ。


過去の証拠、係累、幸福の記憶、原点、拠りどころとすべきすべてのものが、自分のほかにたった一つのカテゴリでくくることができる。たとえば砂漠の中にたった一つだけ泉があったら、その水を飲まない奴なんているのだろうか。選択肢をつぶしていって手のひらには最後の一個、大して欲しくないものだってもったいなく思えるのに、それが過去のすべてならなおさら、手放しがたくなるに決まっている。だって捨てたらすべて消えてなくなってしまうのだ。一つにして絶対、そんなものを誰が忘れられるだろう。



『夢なんて言葉で終らせるつもりはないが』
『野望はある』



本当は自慢しているのではなくて、そうでもしないと足元が揺らぐからではないのではないのか。宣言することで、果たすべきことにして、自分に義務を負わせているのではないのか。それは、裏を返すと負わせなければ果たせないということになりはしないか。自ら知っているということになりはしないか。

憎しみと愛は背中あわせなのだそうだ。

君が鼻で笑って今まで後ろに放り捨ててきちゃった、神さまへ御願い事を言う権利、全部もってきてあげようか。願うことは欲しいってことでしょう、食べたいってことでしょう、いきたいってことでしょう。

御正月、七夕様、流れ星、道ばたの神社、お寺、さんたくるすにでうす、まるや、願い事を言わなくなった時から君が背中を向けてしまった、古ぼけた神さまたちみんなみんな君の前に放り投げて訊きたい。

それとも、ちがうのかな。ことば惜しみかな。言葉を出すことは何かを零して亡くして嘘にしてしまうのかな。大事な願い事を紙きれごときに書くなんてこと、しない?だったら君は願い事に意味があるなんて思ってるのかな。ねえ、どうなのかな。

虚しくても許される神頼みなんだから、有り得ないことをたくさん書いてみせてよ。虚しいことは判りきってるから、これ以上虚しくなることもないでしょう。それが叶わないなんて誰が笑えるの。

立ち竦んで動けない自分だって、死ぬまで失速したくないのだ。おまえの加速度はどのくらい。

(勝ち負けにこだわるわけじゃないけれど)

負けが見える勝負と言うのはいやなものだ。










「行かなくていいの?」
「必要ないからね」

タバコの紫煙がただよう控え室のテレビ画面から目をそらしもせずに、隻眼の男は同輩に声を返す。

「もういい加減おんぶに抱っこでもないからね。スリーマンセルも卒業。めでたいだろ」

死なない方法は叩き込んである。人事を尽くしたあとは天命を待つだけだ。

「アスマなんかこっそり船着場まで行ってたわよ」
「面に似合わず細かいところまで面倒見いい奴だからね。紅こそ、行かなくていいの」
「……来るなって釘さされたのよ、あいつ等に。行けるわけがない」
「寂しい?」
「あんたがそれ訊く?」
「オレ?寂しくなんかないよ、別に」
「強がり」
「強がりじゃないよ、だって変わんないだろ、なにも」
「変わるわよ」
「変わらないよ。たとえあいつ等が変わっても、オレは変わらない」



(なるべく古いのにしなさい)
(なぜ)




かつて同じ問いかけを投げたあの人はただ笑ってお帰りとだけいった。

テレビの中央、港についた船の桟橋を民衆に出迎えられて降りる男のからだがぐらりと傾ぎ、落ちた。同刻、声明文が通信社に投げ込まれ、来月に予定されていた同盟調印は反故になるだろう。すくなくともむこう3年、同盟の締結はなくなる。














いたましい悲鳴が聞こえる前に笑ったカカシはモニタのスイッチに指を伸ばした。
















「階段」/(四代目)とカカシサスケ










WORKS「夢の国」の下敷きに
このカカシがいました。
文自体はこちらが先でした。
→「002:階段」










TRY !

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