藁や板切れ、生ゴミを浮かべた運河のうえを、塗料でごまかした船が黄土色の波を立てながら川下へと向かう。 脂で黄ばんだレースの安いカーテンがひるがえる。西に傾きはじめた日の光が、ワックスのはげかけた床板のうえで斑に揺れた。据付のラジオからは南方に発生した熱帯低気圧の情報やテロリストの爆破予告が淡々とスピーカーから枯れた音になって流れだしていた。橋の上をのったりといく市電の重い振動に、街の端近、橋の袂にできた陋巷の安普請の柱が軋みをあげる。出発ベルの音と、行き交うバスのクラクションがひときわ高くなった。 ポケットからタバコの箱が落ちた。くぐもった悲鳴が羽交い絞めにした腕の筋肉に振動を与える。さらに力をいれると、もがいた足が何度かひきつってタバコの箱を蹴り飛ばした。そして電池が外れてしまった玩具のように唐突に弛緩する。 ごとん、と足元に転がった男の傍らに膝をつきいて喉下に手を当てる。頚部の脈を確かめ、胸部の上下を確かめた。ポーチからとりだしたペンライトを構え、半開きの右瞼を押し上げて点滅させる。瞳孔が硬直したままなのをみとめ、死亡をたしかめるとナルトは立ち上がった。 高かったバスのクラクションがだんだんと低くなり遠ざかっていった。 ベッド下のトランクをさぐっていたサスケが死人のネクタイを放り投げるのを受け取り、正絹のさらりとした手ざわりをたのしむ。袖口をぬらしていた死人の唾液に顔をしかめて、彼のネクタイで乱暴にぬぐうと数本をつないで、首にひっかけた。 天井の梁にネクタイをひっかけながら、ナルトは即席のロープをひっぱって木材の強度を確かめる。ぎりぎり大丈夫そうだった。サスケはトランクの上張りをはがし指を差し込んで、紙片を取り出していた。ざっと目を通して記憶すると元の場所に戻して、トランクの鍵を閉めてナルトを見やる。 数時間後ドアベルを鳴らした男が返事がないのに不審がって入り込めば、目の前で靴の脱げかけた足が風に揺れていた。ざっと視線を走らせた痩躯の男はベッド脇にころがった革トランクをひっつかむと、まろぶようにアパートを飛びだして夕暮れの街中に消えていく。 それを音もなくつける影が一つあった。 がくん、と脱力して体重が一気に乗っかるのにつぶされかけてうめいた。 「……わりぃ」 慌てたように顔の両脇に肘をついて体を浮かし、ナルトは体をすべらせ脇にうつ伏せになった。安宿のマットレスはかび臭く、無駄に柔らかくて寝心地はよくない。しなやかな筋肉でおおわれた背が、汗ですこし光っていた。 「……いや」 お互い全力疾走をしたバカみたいに息を切らせている。エロ教師が「女はね、足にくるからほどほどにしろよ。お前ら」と言ったのを思い出した。女じゃねえと心中で毒づいて、その思考の不毛さと首筋に感じる息遣いにサスケは眉宇をひそめた。ざらついた舌の感触に震えがはしったのに舌打ちし、手さぐりで金髪を鷲づかむ。 「いった、てててデデデッ、痛え、いてえって!」 「いい加減にしろ、このウスラトンカチ。もう寝るぞ」 そう元気になられても困る。アカデミーでたてのの子供ではないのだ、自ら慰めろと言う話だった。 「だってもうサスケがアジトの一つ見つけたんだし終わりだろ。傀儡に指令やったんじゃねえの」 「当たり前だ」 「じゃあ三日はもう休みじゃん」 この街担当の傀儡とよばれる里外にひそんで情報を収集する下忍に任せてある。静観し泳がせるのは作戦にあたった部隊長の判断でもある上、どちらにしろ相手方の動きが見えなければ動きようがないのだ。中間報告書だってもう式に持たせたろ、といえばサスケは頷いた。だからといってナルトに付き合う気は毛頭ない。 「オレは明日里に帰ったら用事があるんだよ」 「用事?なんの?任務はねえだろ」 「カカシのところに行くだけだ」 「……シャリンガン?」 「まぁな」 ふぅん、と答えてからナルトはサスケの背を睨みながら少し眉をしかめた。 「どーせ遅刻するぜ?」 「だからってオレが遅刻するわけにもいかねぇだろうが」 仮にも上忍、あげくむかしの上司、しかもカカシの待機時間をわざわざ割いてもらうのだ。敬う気持ちの有無はともかくとして、上下関係にきっちりしたところのあるサスケにはできないのはわかっている。 (わかってんだけどな) この気分の味はしっている。おかえりを言うドアや、黄昏をいけば迎えてくれる明かりのついた部屋、アカデミーで卒業したとき、ほこらしげに木の葉紋のはいった額宛を回した子供たちに降りそそぐ祝辞、あたたかそうな手のひらを木陰から見ていたときと同じだった。世界には自分が入れない場所があると見つけてしまうときにさんざん噛みしめた苦い味だ。 (わかってんだけどな) わかってることと納得できることは違う。でもサスケが師事できるのはカカシしかいないのも、カカシがサスケにしか教えられない、教えるべき事があるのも、わかっている。だから何か厭なのだ。 「しか」、という科白がつくのが面白くない。 「じゃあさ、明日さ、手合わせしねえ?」 「カカシのが終わったらな」 むむむっと眉間や鼻に皺をよせたナルトは、サスケの首筋に噛みついた。呪印があった場所だ。 いつだってナルトの視線の先にサスケがいて、サスケの視線の先には誰かがいる。 ごつ、と押しのけられて、ベッドヘッドに後頭部を打ちつけた。スタンドががちゃんと落ちる音がけたたましくひびく。 「いでッ」 「やめろっつってんだろーがナルト。今日は入れんな、痕もつけるなっつったろ」 「男はえろくてナンボだって言ってたぞ。ピロートークも大事だって」 お菓子でも取り上げられたガキのような面をして、ナルトがぼそぼそと呟く。つい先日、いきなり声がでなくなって声変わりしたナルトの声は、やすりのように粗い乾いた声になっていた。まだ耳が慣れず、違和感がぬぐえない。 「誰が」 「キバ」 「いつ話してたんだ、んなこと」 「メシ食ってるとき」 たしかエロビデオ上映会をしようといったのもキバだといっていたのを思い出し、サスケは盛大に溜め息をついた。あのあとこいつがいきなり盛ったのだ。あれよあれよというまに流されてこんな事態になってるのだから、まったくもって世の中よくわからない。そしてそれをこばまない自分もだ。 「あのバカが」 「ひでーの」 「つうか、そんなんするな、気色悪ィ」 「そんなんって?」 「やってナニ話すんだよ」 比喩でなく吐きすてたサスケにナルトはすこし斜め上に視線を泳がせ、上体をのろりと起こした。手を伸ばし枕もとにあったテイッシュの箱を取る。ぬるついた手指を拭き取ってから、箱が空だとナルトがぼやくのにサスケも体を起こした。 「便所ので十分だ」 「ごわごわすんじゃねえ?」 拭き取る感触にこだわってどうする、とサスケは眉をしかめて体をベッドから起こす。 そしてそのままこけた。 「〜〜〜〜ッ!」 「なにやってんだ?」 「……」 膝ががくがくと笑ったのに驚いた拍子に、ぬぎちらかした服を踏んづけてすべったのだ。尻餅をついたサスケは憮然と体を起こして、下ばきに足を通した。替えの下着は買ったほうがいいだろうか。カーテンをひいたまま部屋の窓を開けて夜風をいれれば、工場で働く日雇い労働者をのせたトラックの明かりが揺れながら眼下の町に遠ざかっていくのが見えた。そしてふたたび目的地に向かう。 「……で、何でついてきやがんだ」 「シャワー入りにきただけだっつうの」 ユニットバスの安っぽいビニールカーテン越しに会話する。トイレットペーパーをガラガラまわしながらサスケは後始末してから用を足し、便器のフタを閉めるとその上に腰掛けた。ちょっと尻が冷えるが仕方がない。がさり、と鳴った違和感にポケットに手を突っ込めば、自分のでもナルトの銘柄でもないタバコの赤いパッケージが出てきた。ナルトの服とまちがえたようだ。 昔はためらったものだが、今はもうそういうのもない。いつか問い掛けたとき、慣れるよ、といいやった男の顔を思い出してサスケは眉をひそめた。箱の隅を指で叩いて一本引き出すとフィルターを加え、ライターを探る。 日ごろそんなに吸うわけではなかったが、吸えないわけでもなかった。肺の下のほうまで煙がしみるようなイメージ、くらりと頭の裏あたりに白く起こる目眩に、きつい銘柄だなと思った。 「あとでオレも入るからとっととしろ」 「……え?」 シャワーの音にさえぎられて聞こえなかったのか、ナルトが聞き返してくるのに、サスケはタバコを持たない手でカーテンを開けて顔を突っ込んだ。 「とっとと出ろ」 「わわっ、開けんなよ、寒いだろ」 「だったらとっとと出ろ」 「あ、あー!そういうのオウボウッつうんだぞ!ジンケン侵害!」 ぎゃあぎゃあと喚くのにサスケは漢字で言えるようになれ、と思う。と、目を落として、思わず注視する。気がついたナルトもつられて視線をずらし、思わずぎゃあと悲鳴をあげてしゃがみこんで隠した。 「見てんじゃねェッつうの!」 「……たってんのか」 「〜〜〜うるせぇ、悪いか!」 こいつにデリカシーってもんはないのか、と頭の上から降るシャワーを受けながらナルトは思い、あたまをガシガシとかき回して唸った。だいたい、小便の音に反応するなんてどうかしている。欲情はいつだって唐突で、体だけがいつも先走り、心ばかりが戸惑ってしまう。しかも先走ったものを受け取る相手がいたりするのだから、もう、なし崩しだった。 柔らかでまるっこい二の腕や、磨かれた爪、ふっくらといつも潤った唇も、花みたいな香りがする肌もない。ナルトと同じ筋肉とかさついたうすい唇、汗じみた臭いしかしないし、一週間も放っておけばうっすら髭だって生える男だ。でもたしかに発情装置が反応してしまうのだ。やけつくような血が全身を巡って、どうしようもなくなる。 (何でオレだけ) サスケで抜いたことは何度もある。 でもサスケは?自分で抜いたことなんかあるんだろうか。 だまって呆れたように見ていたサスケはため息をつくと、バスタブとトイレの中間部にある洗面台でタバコを押しつぶし、排水溝に押し込んだ。 「って、サスケ!?」 「いちいち喚くな。してやるっつってんだ」 膝をつきながらカランを捻るきゅっとした音が響いたかと思うと生ぬるい雨がやむ。すこし顔を赤くしたサスケがバスタブをまたいで膝をつきながらぼそぼそと吐き捨てた。思わずナルトは頷いてしまって、そして慌てた。 「う、わ、…うわッ、やっぱやめろってば」 「黙れよ、うるせえな」 「〜〜ぅっ、……ぅ」 頭の上からふっ、ふっと短い息づきがおち、そのたびにナルトの腹筋に力が入るのがわかる。手を置いた膝の筋肉も引きつって、水ではないのでうすく湿っている。おなじ男だからどういうのが好きか、というのは朧げながらわかる。さらに深くふくみながらすこし楽しいかもしれないと思った。サスケが嫌がってもナルトがしたがるのがなんとなくわかる。ついでにどんな面してるか見てやろうとしたら、慌てたように目を覆われた。 「……なんだよ」 「まッ、まともに顔なんて見れねえって」 「お前な、さんざん……」 ナルトの手を引き剥がそうとしてサスケははた、と我にかえる。「さんざん」、それでなんだ。いま自分で何を言おうとした。 「やんのと、やられんのじゃ、マジでちげーんだって。うっわ、死ぬほど恥ずかしい」 ―――言いやがった、このやろう。ナルトの手の平と自分の皮膚の間の温度がはっきりと上がる。狭い風呂んなかで男二人で、向かい合って赤面してるってどんだけマヌケな図だ。 「サスケ」 「……うるせえ」 「顔、赤いし」 妙に嬉しい声に、顔はあげないと決心する。ナルトはおそらく満面の笑みだ。だまれ、と悪態をつこうとしてサスケは声を途切れさせた。ナルトの手が太股の間にさしこまれ、いつのまにか立ち上がっていたのを無造作に掴んだからだった。驚いて腰を引こうとする、ぬるりと背筋をはいのぼった感覚に息を詰めた。ナルトは左手をのばし親指の付け根で頬にかかっていたサスケの髪を耳の後ろにかける。バスタブのふちを掴む手の甲に筋がぐっと浮いた。 「……ふ」 ナルトは何も言わない。サスケに触れるとき呆れるほど、なぜか口数が極端に少なくなる。だれがナルトは単純バカだといったのだろう。騒々しい声も目を引く行動も、ナルトが誰かの耳目を集めるために行うから、わかりやすく見えるだけだ。饒舌が明快なだけにナルトの沈黙は泥のように重く、何も見えない。まるで何かの裂け目のようだ。切りたった崖下の闇を怖れながら、後ろに下がることも目を離すことも出来ない感覚に似ている。 「ッ……、ァ」 うつむいた視界の端、思わず洩らした声にナルトが唇の端を吊り上げるのが見えた。頬から耳を何度も手の平が撫ぜる。 「サスケ、顔上げろよ」 サスケは答えないでかぶりを振る。中指に弱いところを何度も行き来されて、答えるどころじゃない。太腿がひきつれば、すこしあせばんだ硬い手のひらが撫で回した。その手つきがいつかよりずっと慣れきっていた。 手の甲がサスケの頬を軽く叩き、無言のまま一緒にしようとうながす。 「……くそ」 ナルトの手首を掴んで、バスタブの底に押しつける。ずる、とナルトの体が濡れたバスタブにすべり、二人してもつれ込むように倒れこんだ。肩と肘を打ったらしいナルトがいってえと悲鳴をあげる。サスケも膝を強打してびりびりと痺れるが、お構いなしだ。ナルトの唇に噛みつけば、タバコの名残が苦かったのかナルトの眉がしかめられた。 「てめえ……」 「サスケだって止めなかっだろ」 今度こそ足がぬか崩れになって立たなくなり、かすれ声で唸るサスケに、実にすっきりした顔でタバコで一服していたナルトが笑う。かわいいと言おうものなら殴られるのは学習済みなので、ナルトは黙っている。いままで知らなかったが、そうか、油でも軟膏でも潤滑が足りないからひどくサスケは痛かったのだった。うつぶせたサスケの黒髪にかくれた耳朶が赤くなったが禁句は言わなかった。 だが調子をこいて、「オレさあ、お前でするけど、お前、オレで抜いたりすんの」と尋ねて殴られるのは10秒後だ。 |
「ピストルオペラ」/ナルトサスケ |
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