人間には過ぎる時を独り延々と重ねた男は、見えないのかととろりと甘い声でいった。

黙したまま眼だけを動かした少年は鼻の下にういた汗を無造作にぬぐった。笑わないと不機嫌にみえるのはまだ大人になりきらない白い面にできすぎた目鼻立ちがのっているから。十分に伸びしろをのこした成獣になりかけ、縄のようにしなやかな筋肉をつけた脇の下から肘まで汗が落ちていく。息苦しいほどの暑さに仰向いて息をついて動かしていた手を止める。

びっと刃をふるって水滴を払い、薄布で水気をきる。岩の隙間からこぼれる細い光りにためつ眇めつしてから、柄を差し出した。ふん、と鼻を鳴らした男は、少年の手から受け取ると緋い眼の前にかざす。

「いいんじゃないのか。俺のも頼みたいくらいだ」

いう癖に男が刃物の手入れを他人に譲るはずがないということは良く知っていた。忍のつかう武器は己の手になじむのが一番、いつでも彼の暗器は血曇りも見当たらないくらいに研がれている。

そうして次のクナイを手に取った少年がまた黙々と砥石に刃をすべらせるのを男は退屈そうにみている。いつだって男は倦んでいる。いまも大儀そうに袋に手をつっこんでは、ヒマワリの種を口に放り込み殻をそこらにはきちらかしていた。行儀の悪いその様にもいい加減、慣れた。

「なんだ。欲しいのか」

首をふるとなんだと落胆して、また種をかじりだす。不意に顔をしかめるとべっと吐き出した。

「まあ旨いもんかっていったらわからないが、昔はうまかったんだ」

どうも虫がいたらしい。かみくだかれた甲虫のものらしい足があった。眉をひそめた少年に男はわらう。

「なにを食ってもこっち、砂を噛んでるのと一緒でな。もう鈍い」

五官が失われるのと寿命にはなにかかかわりがあるのだろうか。一族のなかでも特異な眼によって失われる光があるのと同じように。

万華鏡写輪眼を開いてから既に数年、視界が暗く狭くなりだしているらしい。らしいというのは自覚が薄かったからだ。

人間の頭は精密だが不思議な大雑把さも備えていて、忍のように五官を鍛えてるとかってに補ってしまうところもある。なんら支障なく日々過ごしていたから見落としていたのだ。話には目の前の男に聞いていたからとうとう始まったかと思っただけだった。

美しいものや失いがたいものは全て見た。もうすでに自分の終末は定まっていて、夢見るように少年は待っている。たった一人を待っている。

はやく来い、と思いながら刃を吸い付く砥石に滑らせる。ただ諾々と死を受け入れるなど有り得ないし赦されない。自分はなによりあれの捨て石になるべきなのだ。他の死は全て無為だ。

木の葉が中忍試験をおおっぴらにやってるぞ、ときこえた声に少年は顔をあげる。

「それが?」
「大蛇丸が画策しているらしい。あいつも木の葉に含むところがあるからな」
「動くのか」
「ちょうど祭のどさくさに九尾も引っ張ってこい」

柳眉をしかめた少年の、気のすすまない様子に男は言葉を繋げる。

「唾をつけられたらしいな、あれが」

ここに、と男は左の首筋を押さえる。笑ったのは気配で知れた。

「前からあいつはお前にご執心だったからなア」
「……」
「質の悪い女みたいに気を持たせるような真似するからだ、イタチ」

叱る声音に黙って立ち上がり背中をむける。猶予はない。

「鬼鮫とは松葉峠で落合う手筈だ。せいぜいがんばれ」

明らかに面白がるだけの相手に見透かされた苛立ちと、あれに近付くにはあまりに尚早なことへの不満に足早に仮寝の宿にした洞からでた。滴る夏の光と蝉雨がいっせいに降って来る、蒸された草と土のにおいが息づまるほどだった。

あれはこんな暑い日に生まれ落ちたのだ。覚えているのはかすかな血のにおいと猫の子供のようなたよりない声。

眩むこの眼にまだ猶予があるのなら、と少年は願う。

(はやく)

まだ光が赦されているのなら、紛れもなく自分の死神の顔を焼き付けたいと願っている。

(はやく来い)

この世の誰よりも強く待っている。















たちの悪い女みたいな真似だ。

許せなんて云われてやさしくされたらどれだけ歯噛みして恨んでいたって綻んでしまい憎まれ口を叩くのがせいぜい、まして相手が冥府に転がりこんでしまえば手の出しようはないし悲しいのが哀れさに変わって絆されてしまうのがおち。だいたいがみんなみんな相手に心底好かれてるなんて、自惚れがあってできることだ。許せ、なんて言葉はそういうもの。

(連れてってやりゃあ良かったのに)

人外に近しくなってから久しく胸に湧いた、わずかばかりの憐憫に多少なりと血がつながっているのがある故なのかはわからない。

そもそもの初め、血みたいに赤かったあの満月の夜、まだ雛のうちに攫ってしまって同じだけの業を背負わせてやればよかったのだ。憎むのも恨むのもそもそも相手が好きだったから、情の深さに比例する。ちょっと空気の抜きどころを変えてやればあっというまに愛しさに変わってしまう、執着の裏表だ。

(鈍かったんだなあ、お前)

疲れて死んだように眠る子供は年相応に可愛かった。あんまり死んだ男に振り回されてばかりなのが憐れで健気でいじらしかった。

兄がわざわざ誂えてやったおくるみ代わりの里も振り捨て、蛇に頭を下げて身に宿したくせに不殺の誓いはたった一人のため律儀に守ってきた、まるきり清童か処女だかを捧げる健気さだ。心中の赤い紐を持たなかっただけでしかなくてもその心算は誰の眼にも明らかだった。

死んだ男も子供に対して底抜けに甘かった。

甘すぎて子供のほかの人間にとっては鬼になって最後は命もやるほどだった。けれど子供の情の強さをはかりきれてなかったのがいけない。子供はなにせ弱いので、自分を好いてくれる相手にはことさら敏い。どれだけ嘘偽りといっても、体にしみついたものは消せない。

人間の足を手に入れた人魚は、王子がふりむいてくれないなら泡になってしまうから王子の首を掻き切らないといけなかった。子供はあらゆる呪いを雪ぐために人でなしになって、人でなしの兄を殺さなければいけなかった。子供がかわいそうだったのは首をかききった後に、兄の心を知ってしまったこと。雪いだ呪いは全部子供に返っていって、子供にのこったのは自分が人でなしということだけ。

鬼をつくるのなんてすぐだ。地獄の鼻先で扉を閉じられてびっくりしているところをくすぐってやるだけでいい。

鬼はそもそも執着が過ぎてしまった人間のなれの果て。人よりも鋭い牙も、人よりも長い爪も、角も、獣の徴をもつくせに指は五本、目も二つであくまでも畸形の人間でしかない。

血かなと男は思う。どうにも自分の一族は情が濃すぎていけない。
血だなと男は呟く。始まるのも滅ぼすのもこの血に宿った性なのだ。

弟の墓前に弔う花を決めたのはもうずいぶんと遠い、昔のこと。まだ男が人間だった頃の話だ。



「白夜と悪魔/鳴神」/イタチ



ブログより転載。
2008年サスケお誕生日。
再編集、結合。
→「009:かみなり」








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