I'm not old enough to sing the blues
二週間ぶりに訪れたアパートはずいぶんと片付いていた。 スプリングがはみ出しそうなベッドに腰掛けたサスケは裸足の足をぶらぶら、楽器の音と一緒のタイミングでゆすっている。詰め込みすぎてゆがんだ段ボ−ルや紐でくくられた雑誌、埃の匂いがして、片づけている途中の宙ぶらりんな部屋の汚れ方だった。 ガムテープでそこらじゅうを補強されたダンボール箱がサスケの足もとにひっくり返っていた。木作りのおもちゃ、竹ひごと和紙でできたプロペラ飛行機、割り箸ゴム鉄砲、紙粘土の人形、古ぼけたクレヨンの絵、リコーダー、ピアニカはプラスチックが日に焼けて象牙色の鍵盤に指垢がついている。ダンボールにうっすら書いてある油性マジックの名前書きの横に、画鋲で金紙作りのメダルがついていた。 顎のあたりを覆うような小さな手のひらがひらひら動いて、鼻から抜けるように間延びしたふしぎな音がする。吸っても吐いても音がする。幾連なりの音は互いに連鎖せず、メロディにはならない。ひとくさり音が崩れるように落ちるだけで、雑音ではなかったが音楽でもなかった。 呼吸の速さで銀色の音は鳴っていた。 路地から静かな黒い目を見つけたとき、罪悪感はふしぎとなかった。 目があったときにいつものように笑う。 痒みを訴えるかさぶたに爪を立てて覗くつるりとなめらかな肉から視線を離せないような。血の匂いを嗅ぎわけた動物が風上にある獲物をさぐるような。胸をつき上げてきたのはひどく乱暴で獰猛な塊だった。飢えにも似ている。 どれだけの深さで自分は爪痕をつけられるのか、見てみたい。 つまるところ悪趣味が露呈した瞬間でしかなかったわけだ。 が、自分本位な予想はきれいに百八十度ま反対、裏切られる。 通りを隔てた向かい、こちらが立つ路地をサスケが見ていた。色彩豊かな提灯は不鮮明な影を落とし、表情を見極めることはできなかった。どういう仕組みかはわからないが、自分に向けられた視線や呼び声を人間はうまく気がつくものだ。だから見ているのはわかった。 くるりとそのまま踵を返し、雑踏の中に小さな団扇紋は埋もれることもなく残像を残しもしないで消えてしまう。 (なんだ) ひょうしぬけした口からつまらない、と正直に漏らすと、口紅がずれた女が泣きそうな声をあげたので、なだめるのに苦労した。 オレンジ色の豆球の明かりが横向きで寝る女の肩の線をつるりとふちどっていた。あの子の肩は生毛がふわふわ頼りなくはえていた。 久しぶりの女の肌はやわらかくたしかで、すぐになじんでうっとりするようだった。 たしか、というのは可笑しいのだけれどそうとしか云えない。下に敷いた体が細く、骨もたやすく折れそうなことには変わりないのだけれど、あの子は仰け反らなくても肋が浮いていたとか、肩甲骨をおおう肉がうすかったとか、細い首筋はもうすこし骨ばっている感じだったとか、そんなことばかりに気がついた。あの子はとても小さい。足も手も、どれも未来を無防備に信じきった未完成のはずだったのに頼りなかった。 この女じゃ駄目な理由は何だ。答えはどこにもないのに、唇を舐めると、脂っぽい口紅にまじった香料の味がぼんやりまつわって、カカシは渋い顔をした。 フローリングにだらしなく伸びた影に音がやんだ。振子のように同じ時間で揺れていた足首が一瞬だけ躊躇して、また揺れ出した。 「サスケ」 抱き寄せると、水につっこまれた猫のようにサスケは容赦なく暴れた。髪の毛をつかまれて叩かれて、それでもしめつけるように抱きしめていると、やがて振り上げた拳をほどいた。安堵して顔をのぞきこもうとしたカカシに、潤んだ声でかぼそく「もういやだ」といった。耳に滑り込んだ言葉に、鳥肌がたちそうになった。寒かった。 「いやだ」 みじかく返した言葉はひどく強い響きになった。腕の中でサスケが頭を振るのを感じた。迷いのない動きにいっそうしめつけると、苦しそうな声で、でもひとかけらの躊躇もなかった。それに恐怖した。 「もうやめる」 「いやだ」 「やめる、もういやだ」 「やめるなんていわないで」 「なんで」 「いやだよ」 「なんでだ」 「すきだ」 吐き出して、つかえが取れた。だってもうそれしかやり方がわからないのだ。信じてと言えなくても、やり方がない。 「すきだから、いやだ。やめるなんていわないで、俺、お前しかいやだ」 サスケは答えない。沈黙が耐えきれなくて、溢れた言葉を頭でかみくだきもしないままだだ漏れにする。 「もうしない。あやまる。許してくれるまであやまる。だからいやだ。俺、いやだよ」 やめるなんていわないで、と言ったときに、思い切り左の頬に拳がめり込んだ。ほお骨ががくっと上がる感じ。避けなかった。サスケは殴った自分の拳が少し切れているのをぽかんと見て、殴られたカカシの頬が赤いのをぼんやり見て、ぐちゃりと表情を崩した。これまでに見たことがないほど顔を赤くして、目を怒らせた。喘ぐように息を吸い込んだ。 「すきだって言葉一つなんかで」 ぎちりと噛んだ唇になきそうだ。そうだ、いつだってこの子は痛々しく叫んでいたのに、自分は聞き入れなかった。子供と言う名前をした思考する人間じゃない生き物だと思っていた。言葉が違うと思っていた。聴いてくれる人のない言葉は、かわいそうだ。 「そんなんで、オレをどうとでもできるって思ってんのか」 すごい勘違いをしていた。怒りそうな顔と一緒なのが泣きそうな顔だと知っていたのに、大事なことを分かっていなかった。ひしゃげた声が震えて低いのは堪えているからだって事も知っているのに、わかっていなかった。 「ばかにすんな!」 やめるなんていわないで、ともういちど言うと、ごつりともういちど殴られた。床に頭を打ちつけて、目の前に赤い光が散らばった。あんたはひどい、とサスケはしゃくりあげながら泣いた。はじめて聞く、まるきり子供の泣き声に、カカシはじわりと痛みはじめた顔をゆがめた。 額を床に押し当てたまま、サンダルで不恰好に矯正されてしまう、爪がつぶれた小指を見ていた。自分の足もそうやって爪がつぶれた。爪が食い込んでつぶれた場所が腫れ上がって化膿し、結局、火で炙った針をつっこんで膿をかきだした。骨の形もゆがんだ。あの時は痛かった。 だってお前いつか、俺のこと捨てるでしょう。里のため、血のため、イタチのため、左目のおかげで舞台に引きずりあげられても、選択肢のひとつにもなれないのって酷くないかな。 ないものねだりが自分は上手だ。 ダンボールにへばりついたちゃちな一等賞ももらえない。 そんな紙切れも捨てないくせにお前は俺を捨てるって言うの。 切れた唇で風にも飛ばされてしまう雑音を吐くより、ほんとうは息詰まるほどの優しさでサスケのまだ直い指を撫でたかった。フローリングを濡らすしょっぱい雨に笑いたかったのか、泣きたかったのか、わからない。 横滑りした思考、ガス交換の残り滓を吐き出して、カカシはうめいた。 「だって、すきなんだよ」 ごつ、とサスケの手から銀色の楽器が落ちた。ベッドの上でかけ落ちたものを型どおりにはめ込んでいったら、どんな歌ができたのか。とても知りたい。サスケの呼吸の連続が何を作ったのか知りたい。メロディはなくて、そして不協和音にもなりきれないままだとわかっていても自分からは離せなかった。 息するはやさで今日も恋に落ちて。 つまるところ、まだ自分は。 |
「I'm not old enough to sing the blues」/カカシサスケ |
だけど靴には穴があいているよ。
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