666 (なんか腹が痛い) ため息は誰一人拾うことなく床の上に落ちて、吹いた風にさらわれてしまう。だから少年はため息をつくことが好きではない。力の抜けた手がドアノブから落ちた。 泣くこと怒ること笑うこと、感情の発露はいつでもエネルギーを必要とするが、泣くことやため息は誰もいないところでやると、少年の場合は誰かがいたとしても、空っぽのラーメン丼を見るような気分になる。だからやらない。 往々にして少年の周りにいる人々は優しいから、泣かないことを強いことだと思ってくれて(実際それが励みにもなりはするのだが)、ただ単に無駄だと思うからしないと言うことを知らない。彼がもっとうまく言葉を使えたら、(虚しい)と言うだろう。少年は飽くなき努力家でもあったし、成果が見れないと耐え切れるだけの良質な忍耐は持ち合わせていなかった。いわゆるゴウリシュギというやつなのだ(つい先日おなじ班の女の子が言っていたのがカッコよかったので使ってみる)。 だがそんな彼でもため息をつきたくなるときはある。誰が慰めてくれなくても、自分ひとりで。 (掃除しないと) 別にそんなきれい好きじゃないんだけど、これだと眠れないし、土でざらざらしてるなんて野宿でもないのにやだし、よる寒いし。 (片づけないと) けっこう気に入ってたのにな。でももう枯れてるし、オレんちそんなでかくねえし、汚くしてるとせんせ―怒るし。 「……めんどくせー」 誰かの口癖を呟きながら見つめるベッドの上で、植木鉢が粉々になっていた。そとから何か投げたらしい、オンボロもいいところのアパートの角部屋に少年が物心ついた頃から暮らしているが、同じ建物内に同居人はいないから、誰も気がつかなかったのだろう。外から割られたガラス片が床一面に飛び散っていて、窓近くにおいてあった植物はひっくり返って、枯れてしまっていた。 キラキラ反射する悪意の欠片が飛び散った床を、何も考えずに踏んだものだから、裸足の裏が切れて血でぬるぬるする。でもすぐに痒みを残して傷跡もなく治ってしまうのをわかってるから、気にしない。別に珍しくもないから、ちっともこたえない。 土まみれのシーツをはぐって植木鉢の残骸を包む。 (腹いたい) 「ありゃりゃ、ひどいねえ、これ」 「……せんせー」 青物のにおいに少年がきょとんとする。時おり差し入れをする上司は一渡り部屋を見回して、難しそうな顔をしていた。めったに見れる顔じゃないから、ますます少年はびっくりして、びっくりしたまま、言うつもりのない言葉を言った。きっと好奇心だと思った、すごいたちの悪い。 「やっぱオレがいんの、やなんじゃないの」 芝居のセリフみたいな、どこかで聞いた覚えのある言葉を吐いた自分がちょっと誇らしかった。スポットライトは自分にだけ、唯一の観客である上司はどんな顔をしただろうと目を上げる。 ご、と鈍い音と一緒に視界がぐるんと回った。頭がくらくらする。 「これがまず俺の分」 もういちど、後頭部に衝撃。足がよろけた。ガラスを踏みつけた。痛い。 「これがサクラの分」 ぐわんと耳の後ろで音が鳴っていること、熱をもった痛みに、目の前の上司が手首を利かせて自分を叩いているのだと悟る。もう一発。 「これがサスケの分」 「……痛っ」 「これが木の葉丸くんの分」「これがイナリくん」「これがリー君」「これがネジくん」 愛着のある名前と一緒のタイミングで振る打擲は容赦なく続いて、あまりの痛さに涙が出てくる。今まで何度だって石や土塊をぶつけられてきたことはあっても、自分が大好きな人はいなかった。今目の前にいる人は別人みたいで、別人だと思い込めたらいっそましなのに、できない。 崖の上から突き落とされた時と同じぐらい、半端なく怖い。こっちのほうがいやだ。おなかが泣きたくなるほど熱くて、破れるんじゃないかと思うぐらい痛い。 「これが三代目の分」 ごんとまともに叩かれて、今度こそ涙が出た。しゃがみこんで頭を覆った。だが大人の手が手を掴んで引き剥がして、ゆがむ顔を庇うこともできない。 「これがイルカ先生の分」 「……っ」 (おなか痛い) 「これが」 「……めんなさ」 振り上げられた手がいったん止まる。 「これが他に『火影になる』ってお前の夢を聞いたみんなの分」 ごつん、と殴られて、少年は床にごちりと頭をぶつけた。その少年の前に上司がしゃがみこんで腕を伸ばした。びくついて四肢を縮めた少年に上司はため息をつき、右目を青い目にあわせた。もうその目がさっきみたいに怒っていないことに、少年は緊張を解いて、のろのろと体を起こす。 「……先生、怒ったのかよ?」 「怒ったよ。久しぶりに」 いつも右目を細ませてるはずの笑みがないと、とたんに顔が感情を失う人なのだとはじめて知った。でもバカなことを言ったときの、喉の奥に無理やり氷を飲み込ませられるような薄ら寒くなるような怒りの気配はなかった。そのことにほんの少し、励まされて、渇きかけた喉から言葉を搾り出す。 「オレ、言わない」 二度、まばたきをした上司は、いつものように曖昧な笑顔を取り戻した。 「言ったらみんな怒るよ」 「うん、二度と言わない」 「火影になるって言うのはお前のケンカだろ」 「うん」 「ケンカは相手が参ったって言うまでやめないのが鉄則なの。だからハッタリもハッタリっていうな」 「……カカシ先生、そんなんでいいのかよ」 「おれイルカ先生と違って先生一年生だからね。いいの」 それにハッタリじゃないんでしょ、と言った上司に、当たり前だと少年はこたえる。胸を張る。いつも通り笑って植木鉢の残骸に手を伸ばした。ため息の気配がする。 「バカを相手にするんじゃないよ」 「そもそもオレってばそんな小さい人間じゃないもんねー」 にしし、と彼は笑う。腹はまだ痛かったが、ずっとましになった。 笑おうとして笑いきれていない、カカシのそんな表情をはじめて見た。 (なあ、先生。オレ知らないわけじゃねえんだぞ) 病院に行くと血を抜かれたり電極をつけられたりする。白い部屋の白い顔をした人たちの眼差しは単調でだからこそ中に含んだ嫌悪が透かし見えた。師の眼差しはそれよりも透明ではあるものの、同じく温度がないものを含むことをわかっている。 悪意はないのだ、おそらく。そして多分、誰かを殺す瞬間にさえも、悪意はないのだ。なぜなら彼は忍なので。彼の右手に彼自身の殺意が混在することはないのだ。そして彼はそれをはきちがえることがない。 「へへ」 笑うと何を勘違いしたのか、カカシは頭を撫でてきた。そうか。この手でカカシは自分を殺すためにいるのだ。子供の死骸ひとつにだれかが祝砲をあげて、町はよろこびに沸く。犯人探しはない。きっと先生は真実を知らずに悲しみ、きっとあの子は優しい子だから泣くだろう。あいつはきっと怒るだろう。そして、殺す手で子供の頭をなでる男の中身はまったく計り知れない。 だがどんな顔をするかは知った。彼は表情を無くす。ならそれでよかった。 手を伸ばして植木鉢のかけらを拾う。 アカデミーの最初の学年で、少年は植木鉢と種を渡された。彼はそれまで社会に接触したことがなかったので、何かに名前を書くことは初めてで、名前ペンも持っていなかった。子供たちが植木鉢に名前を書き込んでいく中、一人まごついて平仮名もろくろく書けない少年の代わりに、担任は名前を書いてやった。 素焼きの欠片を拾い集めて、シーツの上に載せていく。枯れた花のほかに土も両手でなるべくすくい上げた。今までずっと一緒だったのだから、一緒でなければかわいそうだ。 お前ら知らないだろ。俺だけのだって言ったんだぞ、イルカ先生が名前かいてくれて、俺だけにしかできないって言ったんだぞ、何にも言わなくたって、硬い肉刺だらけの手のひらで頭撫でてくれたんだぞ、そんなの全部、お前ら知らないだろ。教えてやんねえぞ、ぜってぇ教えねえ。お前らなんかに、教えねえからな。ぜってぇ教えねえ。お前らなんかにわからねえもんな。 毎日欠かさず水をやっていた。宿題の日記に書かなくたって何回も花が咲くのを見た。 何色か教えない。植木鉢の欠片で手のひらが傷ついた。この手がびちょびちょに濡れるわけも、ぜったい教えない。 「野菜食えよ」 「……うぇ」 |
「666」/カカシとナルト |
チープな家族芝居を期待するナルト、応えてやるカカシ。
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