正午の町はつよい陽射しにうちたおされ静まりかえっていた。ときおり横切る鳥の影がしろく焼けた桟橋をとおりすぎていく。片足を引きずった犬がよたつきながら日陰に逃げこむのが見える。軒下にさげた鳥篭のした、スノコ縁から水面のうえに裸足をぶらつかせマッチをすった老人はひとすじ青海原が空ととけあうあたりにまで伸びた橋をみやり、ぽかりとひとつ煙草をふかした。 「暑いですねえ、タズナさん」 「風があるじゃろうが。吸うか?」 皺びた指が紙煙草をもちあげるのに板戸に手をかけた男はいや、と頭を下げた。 たしかに隻眼の男が生国で味わうむし暑さとは違う、引き汐に白い砂を洗う翠藍の海のせいだろうか、ゆるい風であってもどこかからりと乾いて潮の匂いもむせかえるほどではない。 「起きても大丈夫なんか?」 「まあ、怪我もそんなひどくはないですしね。あいつら、どこに行きました?」 「女の子はツナミと一緒に市場じゃろう。男どもは知らんよ」 「包交しないといかん奴がいないんですけどね」 ああ、いたぞい、とタズナは流木のような腕を持ち上げ芭蕉布の団扇をさしむけた。 橋の袂にほどちかいあたり、紺色のシャツをきた小さな人影がある。 「夕方から一雨くるぞ」 「どうも」 蝶々のキス 平日なら建設に忙しい現場だが、今日は休日でひっそりとしたものだった。橋脚のちかくはマングローブがむきだしの根を波に現われ、かすかな風に枝を揺らしている。片手に脱いだサンダルをもって浅瀬にたったサスケは力強くうねる幹や葉の裏に波うっては這う光を眺めていた。木陰はすずしかったし、足首のすこし上ぐらいひたす海水も気持ちがいい。 傷痕はすこし熱をもって腫れて痒いような疼きをもち、首周りや腕、四肢のほとんどを覆う包帯も暑くて仕方がなかった。髪の間から流れた汗がこめかみをつたう感覚も気に入らなくて額宛も腕にむすびつけてしまったほどだ。 青いビニールシートをかけられた橋脚のしたはまるでトンネルのようだ。目の前が白く飽和するほどの光に反比例した暗がりがおおきく口をあけているのに覗き込めば、すずしい風が耳の横や首筋を通り抜けていく。水もすこしながれこんでいるのか、足の裏で砂がやわらかく流れていくのもわかった。 「そこらへんは深くなってるからよしなさいね」 一歩ふみだしたところでかかった声に視線をのろりとあげれば、橋の上、手すりに肘をついた男がいる。 「お前なんかじゃ背も届かないよ」 「溺れねえよ」 睨みあげても適当にいなされるだけだ。 「包帯換えるからあがっといで」 サンダルの紐を口にくわえたサスケは橋桁で鉄材が交差する部分に両手をかけ、登りだした。お、とカカシが目を瞬く。握力もまだ十分にもどっていないため、木登り特訓の成果でつじつまあわせをしたのだ。砂粒をつけた裸足が焼けた石組みに触れたのに、サスケが足をはじかれたように持ち上げた。おとしたサンダルに火傷しそうになった足を突っ込む仕草がすこし焦っていたのをみて、カカシが吹きだす。睨むと右側の眉毛がきように跳ね上がる。 「なんかおもしろいもんでもあった?」 「べつに」 素っ気無い言葉にあっそう、とカカシは呟いてぺたりとサンダルを鳴らして歩き出し、サスケもすこしはなれて後ろを歩く。高台になると少しだけ風が強い。 ゆるい風に極端に色素のない髪が遊ぶ。ガラスの糸みたいだと思った。 後ろをふりむけば、橋は九割りがたできあがっているようだ。 タズナの家に帰るとでかけてしまったのか、風通しのよい家はがらんとしていた。まったく無用心にも程がある、とあきれ返るが、波の国はそもそも鍵というものが存在しないらしい。舫われていたエンジンつきの小船がなくなっているから、おおかた釣りにでも出たのだろう。 予想外の長逗留のせいでよく使うものの位置や間取りにも慣れてしまった。カカシが救急箱を用意している間にサスケは土間においてある盥に水をはり、タオルを用意する。怪我のせいで風呂に入れないため、包帯交換と一緒に体を拭くのだった。 「だいぶ治ってきたね」 腕をあげて、というと腕をもちあげる。貝殻骨から筋肉が連動し肋骨がひらくさまがわかる。まだうすいはだかの肩は尖っていて筋肉も薄いが、肘のあたりや手首の骨はもう乱暴な成長の兆しが見え出していてサクラとは明らかに形が違う。だがどうしようもなく子供の体でしかなかった。揺れる簾から差し込み黒髪をすこし茶色くみせる光はだんだんと翳りはじめていた。汐も満ちだし耳になじんだ潮騒が近づいた気がする。 (静かだ) 静かなのはいけない。いろいろなことを考えすぎたり、いろいろなことを見つけすぎたりする。少年の体を拭き終えたタオルを盥になげこみ、カカシは包帯と薬剤を救急箱から取り出した。 「散歩してどうよ、体は動いた?」 「……あまり」 「ま、ずっとぶっ倒れてたんだからしょーがない。ただ一言ぐらいいってきな」 「……」 「返事」 「わかった」 「明日から工事場いっていいよ」 肩越しに振り返って問いかけるような黒眸に右目だけで笑った。 「あそこまで歩けるんならこき使われておいで」 クール、といわれる割りに頭より先に体が動くタイプらしい。頭もそこそこだが、体を動かすほうがやはり性にあってるのだろう、隣の寝床で幾晩か過ごすうち苛立つと爪を噛むくせがあることまで知ってしまった。ああやはり戦場行きのこども切符を3枚、自分が手ずから切ってやっただなんて、まったく不似合いで厄介な荷物を背負ったものだと後悔した。 つるりと青みがかった白目、黒いガラスみたいな瞳をしていると思う。 簾が風にあおられ板戸に端をぶつける音がしたのに視線の糸が切れた。水面に反射したひかりが床や壁を這い登り波が引くように掻き消える。いつのまにか雲が重く垂れ込めだし、彼方は雨か水平線はかすんで灰色になっていた。 ガラスのような目は荒々しい灰色にそまり波立つ海を瞬きもせずみつめていた。 死人の魂は海の生き物になって日が沈むほうから還ってくるのだという夜伽話をおもいだし、男はすこし乱暴に包帯をはさみで切った。 「ただし濡らすなよ」 「ああ、わかってる」 「ほんとにー?」 「しつけえな」 うつむいた首筋にいくつも赤黒い点がある。傷口のまわりがすこし隆起しているのは腫れているからだろうか。化膿しているものはいちいち膿腫に針で穴をあけ薬をぬらなければいけないから厄介だった。 人間の急所の場所はひとつ残らず覚えている。殺さずに苦痛だけを長引かせる方法も知っている。六歳から二十年こっち片足どころか両手両足をつっこんできたようなものだ。だからどれだけ際どかったのかもわかった。生と死は薄紙いちまいひるがえせば変わってしまうものだということは、いやになるほど知っているのだ。 「死ななくてよかったな」 白々しいセリフは砂のように舌にまとわりついた。 「まあな」 「サスケ、こっちむいて。顎あげて」 あおむいた顎の線はまだどうもなめらかだ。指先で感じる鼓動はたしかで手から熱がはいずってくるのは気のせいだ。どうかしている。世界は隔絶して、まるで箱舟のなかのようだ。静かなのはやはりよくない。サスケの視線が左眼のあたりを撫でているのがわかる。見せる前と見せた後、あからさますぎて笑うこともなんだかできないぐらいだ。いまさら紙煙草をもらっておけばよかったとおもった。 傷口を丁寧にガーゼでおおい、包帯で罪悪感ごと手際よく隠していく。 ざん、と生ぬるい風が海面をかきみだし、勢いよく振り出した雨の屋根に当たる音がしじまを消しつぶした。 着替えてからもどるとどうも男は転寝をしているようだ。窓際にあぐらをかき、例によって例の本をひらいているが一向にページをめくる気配がない。気配をけしたまま近寄ってみる。通り雨はすぎてすこし傾いた日差しがほそく簾ごしにさしこみ、男の髪の毛のうえで散らばっている。 「イタズラはやーめーてー」 「……」 人を食った声にのばした指先が止まる。むっと少年は顔をしかめた。閉じたままの右瞼の下で眼球がうごいているのがわかる。けれどみたいのはこちらではなかった。 「……見せろ」 「だめ」 一笑に付されて終わる。 「それは、だめ」 男は黒いガラス玉のような目を見返して思う。その目が見はるかす先を思う。 寝物語にでもなりそうな、おそらくやさしい他愛もない話を思う。 ソーダ水のような子供の落書きのような、蝶々のキスのような罪のない。 だれ一人かたわらを許すでなく日の没ちる先を見つめる背中を思った。 むきになったように額当てをおろそうと向かってくる幼い手をとらえてひっぱる。 (でも) 黒髪が目の前で踊る。口元をおおうマスクをおろし、相手の目を手で隠しひらりと瞼をとじた。 (そこはとても冥いよ) |
「蝶々のキス」/カカシサスケ |
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