キスもできるのに恋じゃないというの。


















恋愛論









すこし火照った頬を覚ましていく冷気が気持ちいいが、中身もおなじく涼しくていっそ気持ちがよいくらいだ。冷蔵庫の中が空っぽだと一風呂浴びてから気がついた。カカシは緩慢に瞬きをする。めんどうくさい。

もたない物はぜんぶ任務前に使いきるようにしていたから、ビールが2缶といつ開封したのか、いつまで品質保持が有効なのか、とても気になるビン詰め缶詰めがちょぼちょぼあるぐらいで、とても夕ごはんにはならない。野菜箱にはジャガイモと玉葱、サトイモとかそんなものばかりで、メインがない。

(かといって店屋物もなあ)

最近、あまり脂っこいものを食べたくない。好みが変わったのだ(年をとったとは意地でもいわない)。仕方がない、買い物に行こう。

ビールを1缶開けてからいつもの服を着込むと下駄箱を探った。いちばん手前に置いていつもの靴に手を伸ばしてから、せいぜい買い物をするぐらいなのだからきっちりしてなくてもいいかと思い直した。なんとなく返しそびれてそのまま自分のものにしてしまったサンダルを足に突っかけてギシギシ鳴る階段を下りた。手すりにいつのまにかつけていた手のにおいをかいで、苦笑する。錆くさい。年をとったかね、とマスクの下で自嘲。まだ白い息を吐き出した。

遠く淡い春の訪いは朝に夕に現れる。霜柱が目立たなくなること、桜の花芽がふくらんで雀の声がわずかに聞こえること、たそがれにしのびよる冷気の切っ先がやわいで、空の際が霞んで金色に潤む。素足でサンダル履きは少し寒かったが、むきだしで夕の空気に触れる感触はわるくなかった。ほんのすこし、春が近づいてきているのだ。

最寄のスーパーがある通りに差し掛かってから、暮れ方でいちばんにぎわう時なのに子供や猫の影が伸びるだけで閑散としているのに気がつく。そういえば今日は定休日だった。人が少ないのもあたりまえ、きっと特売日をぶつけてきている向こうの商店街に客は集まっているだろう。明日の買い物と今日の分、面倒だったら適当にどこかの暖簾をくぐればいい。遠出(といっても通りを三つだけ)なら遠出らしくゆっくりと夕べの散歩を満喫することにした。

トタン屋根がすべり落ちそうな八百屋で叩き売りの青菜を買わされてから、白菜とネギを買い込み、鍋にしようと決心する。材料を切るだけだから、すぐにできる。しかもおつゆを残しておけば明日の朝におじやができる。

ついでに買い換えたかった薬缶を目にとめて金物屋で買い、商店街の端にある古書肆を覗きこんだ。ななめに差し込む西日と、みどりじみた蛍光灯の灯りがあっても、丈高い本棚にみっしりと書物が詰まり、箱には巻物が積みあがった店内は特有の翳りがある。埃と日焼けした紙、年経たやわらかいインクのにおいが漂っていた。店主は奥にでもいるのか、オレンジ色の白熱球がタイプライターに似た旧型のレジを照らし、ラジオニュースがちいさくカーテンの向こうから流れている。

ぐるりと本棚をまわり、足もとに伸びた影に、他に客がいたのかと驚いた。気配も何もないと思っていた。三段の脚立に腰をかけて文字を追う横顔が視線に気づいたのか、こちらを見る。

よお、と片手を上げたのが、さいしょ誰だかわからなかった。ガラス戸を背にしているから逆光になってよく見えない。本を片手に脚立から降り立つ仕草は軽く音もなかった。一歩、二歩と彼から近づく距離を半ば呆然と視界にとらえる。

「サスケ?」

ひさしぶりだな、と白い色がこぼれたのが鮮やかだった。

管轄を離れ、自分の手から彼らが離れてからは、部署の違いでほとんど会わなかった。ときおり見かけるほか会話を交わすこともなく、こんな近距離になるのはほぼ三年ぶり。

たかが三年、されど三年、いまやあまり差異のない目線の中、あんたは全然変わらないなと外見と違和のない低い声で言う。遠くから見かけた時に、背が高くなったとかは気がついても、自分の表情すらごまかせない距離だと何もかもがあらわで困る。

過渡期特有のそげた頬骨の線やかわらず細いがそれでもわずかに精悍さの漂う顎のあたりに眼が慣れず、けれど、皮肉のにじむ笑顔がようやく記憶との距離を埋める。それでもなお、よく似た他人と話しているような印象はぬぐいがたかった。

「なんでここに?」
「絶版の奴が欲しかったから」

あいかわらず問いかけに簡潔明瞭な答えを返す。あんたこそ、と聞かれて買い物袋を持ち上げると、すこしサスケは驚いて、また笑った。男やもめの所帯じみているのがおかしいらしい。

「エロ本かと思ったぜ」
「それだけじゃないよ」

答えてからまったく否定になってないことに気がつく。困ったように笑う、曖昧なはじめてみるその表情に肋骨の下がきゅうっとなった。みょうに熱っぽいそれは、どこか苦い。つられて笑い、口を滑らせた。

「なんか……おまえかわったね」

西日が翳り、豆腐屋のまのびした声が響いた。

「……あんたにいわれると思わなかったな」

自分ではそう思わないんだけど、とどこか投げやりにも感じる無愛想な口調でいう。だがこの元教え子が口調ほどに他人を突き放すわけでないのをよく知っている。そういう大事な芯みたいな場所は、何年経っても変わらないものだ。

「それでお目当てのは見つかったの?」
「いや、同じ作者のは見つかったんだけどな、肝心なのがなくて」
「どれ?」

差し出された本の作者を見て気がついた。確かにこの作者のはもう絶版になっている。

「あー、これね。めったにないな」
「やっぱりそうか?アカデミーにもねえんだ」

家にある。
云いかけて躊躇した。投げそこねた言葉を胸で噛み砕いて、なんに対する躊躇だ、と問い掛けた。つまるところ自分は、このサスケに近寄りたいのか、近寄りたくないのか。

だが結局、そうか、と呟いたきり形の良い眉をひそめたおなじみの表情にまた口を滑らせる羽目になった。

「もしかしたら、オレ持ってるかもよ。探せば見つかる」
「ほんとうか?」
「うん、もう読んでないし、あったらあげるよ」

何なら来る?と誘いかけて、今度こそ言葉を呑みこんだ。たかが三年、されど三年。会ってすぐにわからなかったように、彼の周りには自分と違う時間が流れている。しかもまだ自分の心臓は再会に驚いていて、口布の存在をこれほどありがたいと思ったこともない。

口も滑るだろうし、まだうまく素顔をさらして取り繕える気はしなかった。同じぐらいの強さで、素顔を見せたいとも思ったが、見栄はりな臆病が先に立った。なんに対する虚栄かはわからない。けれどなにか、自分は急ぎすぎているから。

「暇があったら知らせて。それまでには見つけておくから」
「悪いな」
「ついでに飲もう。もう飲めるでしょ」

下戸だぞ、と唇を尖らせる、思いのほか幼い仕草に笑った。結局サスケは立ち読みしていた本を購入し、つられて何となくカカシも適当な本を買った。じゃあまた、とお互いに言い交わして背中を向ける。数歩歩いて振り返ると、おなじく振り返ったらしいサスケが手を振ってくる。振り返す。たそがれの街に遠ざかる、記憶より広い背に、手をおろしてから気がついた。

彼は再会してから別れるまでの数分、ずっと穏やかに笑っていたのだった。無表情でも眉宇をひそめるでもなく、笑っていた。あの見るものの心臓を否応なく緊張させるような、一種いたいたしい空気はどこにもなかった。

またなにかが疼いた。はじめて見る、とおもったが、もしかしたらそれは、自分が見落としていた彼の表情だったのかもしれないと思った。小さな疼きは、なんに対するかはわからないまま、曖昧で形をなさずいつまでも波紋をなげかけた。停滞した空気が否応なしに動き出す予感に足踏みをしている。

「返しそびれちゃったなァ」

自分でも驚くほど、漏らした声音には後悔の響きが強かった。















目当ての本はすぐに見つかった。適当に本を放り込んでいる箱をひっくり返せば一発だった。もしかしたら、同じ作者の違うのもいるかな、と一応まとめてみる。連絡を心待ちにしているような、自分がおかしい。

件のサンダルは下駄箱のいちばん手前に納まっている。



任務がえりにアカデミーで時間を潰していると、詰め所から出てくるサスケを見た。かけられる声に会釈を返しているなんて、昔からはとても想像できなかった。礼儀正しいところはあったけれど、けれど自分はあんた呼ばわりだったな、と思い出す。こちらから手をあげると、ほんの少し、唇の端に笑みがにじむのを見た。

もう17になったのか、と近づいてくるのに妙な感慨が胸をひたす。忍服をきっちりと着こなしているあたりはらしく、すれちがう女の子の目が集まるのも変わらない。ナルトのように鮮やかな色彩やあふれるものが眼を惹きつけるのとは違う、一見しずかなそれでも人目を引く空気があるのだと思う。人当たりもやわらかくなった。これでは周りが放っておかないだろう。

「本、あったよ。この後あいてるなら、取りにおいで」

すこし驚いた風のサスケは忘れていたのか何度か瞬きをし、腑におちたというように頷いた。意外にテンポがずれ、のんきでボケているのも知っている。

「行っていいのかよ?」
「いいって云ってるだろ。酒もっておいで」
「下戸だぞ」
「若いうちは下戸でいいんだよ」
「じゃあ、行く」
「用事とかはないの?」

サスケは笑った。「ねえよ、別に」

適当にビールと酒を数種買い込み、買い物をする。本を貰うのだから、と妙な律儀さを見せたサスケは代金を持って、なんだかそれが教え子の給料からだと思うと、背骨のあたりがこそばゆくて仕方がない。玄関でサンダルの留め金を外したサスケは、一瞬だけチラリとそのサンダルを見た。それだけだった。

本を渡した後、紙に記された文字を貪欲に追う様子にあいかわらず熱心だな、と感心する。買い換えたばかりの薬缶でお茶のお代わりを淹れていると、部屋がもう薄暗くなりだしたのに気がついた。電気をつけるとサスケが顔をあげる。

「悪い」
「いや、ゆっくり読んでな。気にしなくていいから」

生真面目なサスケは首を振り、しおりをはさむと台所に立った。

危なげない手つきで料理をし、要領がいいのか出来上がりの頃には流しもまな板も片付いている。せいぜい梅きゅうや奴、鰆の焼き物と具が多めの味噌汁、といういたってシンプルなものだったが、味はどれも悪くなかった。

昔より、ほんのすこし話しやすくなったサスケとの会話は、アルコールも手伝って泡のようにゆるく浮かんではじけ、しぜん、近況に向く。下忍を今は受け持っていないから、元同僚の教え子のあたりも気になり、話はその辺りから始まって、元七班までに行くのをもったいぶるような感じだった。もどかしいようで楽しみな会話に、サスケも口数が多くなる。

「ナルト?あんな奴と組まされてたまるか」
「なんで?」
「だいたいやることが大味すぎんだ。後始末の方が任務より手間取るなんて本末転倒だ」
「よく組まされるんじゃないの」

問い掛けるとフン、とまんざらでもなさそうに鼻で笑う。いわゆる仲が悪そうで仲がいいのだ。男の子の対抗心はわかりやすい。

「サクラは?」

少し間があった。また口をすべらせたらしい。

伏せた長い睫毛の下でまなざしが揺れる。表情はかわりないけれど淡く色づいたのは酒のせいでも灯りのせいでもない。彼のまなざしはとてもまっすぐで雄弁だった。訊くんじゃなかった。

チィ、と唸るような声。

「……性格悪いぞ」

ああ、これはサスケだ。

ことんと落ちるように思ったとたん、頭をしびれさせる熱く苦い塊をどうしようもなくなって、キスをした。グラスを取り上げる手を掴み、引き寄せる。

唇と歯をぶつけ合うような、力任せなもので、腕の中のサスケが僅かに強ばるのを感じた。顔の皮膚に触れる湿った温かさに、確かにサスケの体が呼吸があるのは紛れもないと感じて、目眩がした。指の隙間をかたい黒髪がすべっていく、それが名残惜しい。離れたらどうなるのかが怖くて、ただ目をあけた。

焦点が合わない世界で静謐な黒い光が瞬きもせずに自分を見ていた。硬いけれど滑りやすい黒髪、まだ細さを残す頤、青年とも少年とも云えない間にある、中途半端な体の細さ。

「ごめん、酔っぱらった」

ゆっくりとサスケから離れ、笑ってみせた。サスケはなにかを諦めるように目を閉じて、口を開いた。

「……あんたこの間、オレが変わったっていったな」
「云ったけど、おねがい。俺の前でのろけないでね」

先を制した。弱点を抉るのは上手でもあんまり打たれ強くないから、とどめは刺されたくない。これはお祝いを云うべきなのかな。規定値のように笑えればいい。表情をかぶることは造作ないから、苦笑はできたはずだ。きっとサスケも笑ってながすだろう。だがサスケは首を振った。

「ちがう。そもそもそんなんじゃねえし。――――昔はこんなことできなかったよ、オレ」

背中に腕が、数年前よりたくましくなった腕が、それでも幾分か細い腕がまわって、なにか脆いものを壊さないようゆっくりと抱きしめてくるのに、息が止まりそうだった。サスケの呼吸がカカシの肩を温めた、それに我慢ができず、しがみついた。しめあげられて苦しいのか、サスケが息を吐く。次に聞こえた、囁くような震える声に、カカシは眉を寄せた。

「オレ、あんたのこと好きだったよ」
「……知ってたよ」

知ってた。あの時だって、知っていた。ゆっくりと腕をほどくと、サスケも体を離し、目を伏せた。カカシも目を伏せた。

「オレ、あん時そんなこともわからなかったから」

やわらかい響きに、カカシが目を上げる。サスケは淋しそうに笑った。誰もさわれない淋しさだった。

サスケがカカシを見る目はやさしく、そのやさしい色がほんとうに、いとおしいものを懐かしむ目だと気がついた。辛いことも悲しいことも幸せだったことも思い出を振りかえる目はいつだって、勘違いをしたくなるほど優しいのだ。

サスケはごめんもありがとうも何も云わず、音もなく立ち上がった。

帰るな、と夜に向かって開かれたドアが閉じた後、カカシはしばらくその姿勢のままだった。

笑いそうになって一人きりでそんなのおかしいかなと抑える、だがけっきょく部屋には自分ひとりだから、と抑えるのをやめて笑って、それから独りよがりな甘えを許した。両手で目をおおった。好きでいてくれたのを知っていた。その君が笑うから、また隣に来てくれるかなと、都合のいい夢を描いた。

「……よなあ、ほんと」

このサンダル、明日になったら捨てよう。

「ほんと、やンなるよなぁ……」

捨てたくないとはいえなかった。














来客の気配にナルトがドアをあけるとサスケが立っていた。かつての師によく似ている、と一番いわれる彼が気配を隠さず、しかもナルトの部屋を直接たずねるなんて珍しいこともあるものだ。ラーメンのお誘いなら断らないが、その前に一言、いってやりたいことがある。

「サクラちゃん、心配してたぞ」

今じゃもう、ろくすっぽ嫉妬もないが、それでも折に触れてムカつくことに変わりない。だがサスケは答えず、変だな、とナルトが眉をひそめてから、いつのも端正な顔がとてもひどい色をしていることに気がついた。アパートの蛍光灯が薄暗いとかの問題ではない。

カカシと会ってた、とサスケは短く言った。驚いたナルトが何か言う前に、ずるずるとしゃがみこみうつむいた。顔は見えなかったけれど小さく笑っているようで肩が揺れていた。

「……元気だったかよ?」
「元気そうだった」
「……よかったな」
「部屋とか、ぜんぜん変わってねえ」

くしゃりとサスケは前髪を掴み、吐き捨てるような、堪えるような口調で声をしぼった。

「オレ、期待してたんだ」

ナルトが答えられないでいると、また肩が揺れた。顔をおおう手のすき間からサスケらしくない、あまりにも小さく、か細い声がこぼれた。

「……よな」

針の音ひとつ逃さない耳が捉えた言葉をを聞き返すタイミングを失ったまま、ナルトは立ち尽くし、何を言っていいかわからないまま、軋む口を開く。しょうがないことだとしても、とても哀しく淋しい言葉だったからだ。

「そんなこと云うなよ」

答えは返らず、コンクリートにぽつりと泪が落ちた。
















「恋愛論」/カカシサスケ









BGMはくるりの「東京」(←myカカサスソング)。

「きみがすてきだったこと わすれてしまったこと」が
「きみがすてきだったこと」と「(きみが)忘れてしまったこと」なのか、
「きみがすてきだったこと」を「(自分が)忘れてしまったこと」、なのか。
わからなくてうずうずします。



→075:「ひとでなしの恋」










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