シャボン玉が割れるように世界が切り替わる。 まやかしをほどいた途端、黒眸から靄が晴れたかと思えば瞬時に紅くなる。殴りかかってきた右手を掴む。左手も。自分の人差し指と親指が重なってしまいそうな手首の細さに睨みあげてくる真赭の直さに、ああ、まだ彼は子どもなのだっけと思う。いつも顎をそびやかしているから忘れてしまいがちだし、教えられたのは人間の体のどこをどうすれば死に至らしめることができるかと、死に至らずとも苦しみを長びかせられるかということだけだったから手加減はいまだに覚えられた気がしない。
誰にもいえない
鍛練のし過ぎで硬くなった掌の血豆がつぶれたのか無頓着にささくれた指先にひっかかったのか、指先がぬるりとすべる。でも目の前で顔を白くさせながら怒る彼はそんなことにも気がつかないようだった。 蹴りを入れようとした剥き出しの爪先を靴底で踏みにじる。息を呑む音がしたが、四肢を封じないと最近はさすがに厄介だ。たわんだ腕が振り払おうとしても彼はどうしようもなく子どもの手足しか持っていないからかなわない。進退がままならなくなって彼は詰めていた息を搾り出すように吐き出し、無理におちつけるように深呼吸をする。 「…はなせ」 「はい」 はなした瞬間横凪ぎにきた蹴りがかがんだ頭の上を掠めた。踏み込んでくるのを避け続ければ唇が白くなるほど噛みしめている。 「八つ当たり?」 「う、るせえっ」 耳の横を掠めた拳をかるくよけて肩をつかみながら懐に入り込む。軸足を払って軽くほうりだすと、数日前の水溜りがつくったぬかるみに足をとられ、彼は倒れこんだ。 「おいおい、大丈夫かー?」 いらだちのまま髪を掻きむしるように払い、平坦であろうと押し込めたせいでかえって低くなった声でうめくように吐き捨てる。 「…なんだ、あれは」 「なにって」 目をすがめれば口元が見えなくとも笑ったとしれたのだろう、とぼけるなと感情をのせきれず掠れた声がかえった。瞬くように赤と黒がいりまじっていた瞳は熾き火が消えていくように輝きを鈍くしていった。 「基礎中の基礎でしょ。幻術は術者の力量以上にかけられるがわの状態や素質に作用されるって。だからけして致命傷を与えるには至らない、サポートするがわにこそ必要だって。幻があるのならお前の中であって、俺がしたのはただそれを掬い上げただけだよ」 空中にでも浮かんだ文字をただ読み上げるよう言った男にはじかれたように顔をあげた彼は痛みをこらえるような眼差しで見つめてくる。ごめんね、と言えばはりつめていた瞼がふいに痙攣するのが見てとれて泣いてしまうのかと危ぶんだ。 (泣く?) そわりとやわらかなところを撫でておさまるかと思ったのに、いきなり漲り膨れ上がった期待に男の鼓動がひとつ跳ねる。 (泣かないでよ) だが少年はなにひとつ見落としはしないと自ら言い聞かせるように瞠目したまま、無理におさえつけるような呼吸を数度しただけだった。 (なんで気づかなかったんだろう) ごめんねと言われた瞬間、足元の土が軽い水にでもなって沈んでいくような気がした。周りの空気がどこかに吹き飛んでしまったみたいに呼吸を忘れ、目も眩むような烈しい何かが去ったあと残ったのは全身の関節の螺子を抜かれたような感覚だった。笑う男がいなければ重力にまけてしゃがみこんでいたに違いなかった。 「ちょっときつかったか」 さらりと笑う男と自分のあまりの温度差に息を吸って吐くたびに緊張でためこんでいた力がゆるんでいくのがわかる。激昂は水を浴びせられた鉄のようにたやすく固まって冷えきり、いまやまったくの別物だ。 (『俺の仲間は殺させやしないよ』?) (『死んでも守ってやる』?』) 少年が黙っているのに見当違いの心配をして気持ち悪くはないかと男の掌が伸ばされる。皮甲のままではいけないとおもったのだろうか、右手と左手のそれぞれを引き抜いたかと思うと目の前にしゃがみこむ。手の甲に指に口寄せや急所狙いの攻撃を庇ったための傷あとがいたるところおおっている手が眼にうつる。 (でもあんたは、守りたいだけでその仲間がどうなろうといいんだよな) まやかしをまやかしに掏りかえる赤目をご大層にかくして右眼を蔑ろにするから男は男自身の単純なことも見通せていない。だから自分も今まで気がつかなかった。 (あんたが、先に死ねればそれでいいんだ) 頬に跳ねた泥を男の指がゆっくりと拭うのに目を閉じる。たちの悪い熱に頭が浮かされているのだ。こんなに他人の体温が近しいのがどれぐらいぶりかなんてわからない。 「よせ」 これは失望だろうか。 だったら自分はこの男に何を期待していたというのか。 「――――よしてくれ」 声はひどく震えた。 息を吐いたのに掌の下わずかにゆるんだことで、彼がひどい緊張しているのだとわかりなぜか息をひそめた。視線をあげていいのかあげてはいけないのか分からないまま、手を滑らせれば視界の片隅でにぎられた拳が白くなっていくのに眼球がうごく。 かさついた唇が躊躇うように閉じて、綻びをのぞかせた。 「よせ」 けれど少年は男をさまたげない。さらりとした、夏地の上から膝のとがりを包む手におちていた光が斑に腕を這いのぼっていく。指先が膝の裏にはりついて息をのむ音が落ちてくる。熱を暴こうとする衝動にひきずられるのをとどめたのは、いまにも潤んで溢れそうな呟き声だった。 「―――よしてくれ」 片手で瞼の上をおおっている下、のぞいた唇が噛みしめられて震えている。すがるように握られた拳がふるえ、水を求めるよう喘ぐよう開いた唇がまた閉じた。 「水を使っといで。休憩にしよう。十五分」 わかった、とゆっくり立ち上がる背中にはりついた視線をひきはがす。 左手の指先にまつわりつくよう残った、しめった小さな熱が耳からはいのぼり頭をゆらし続けている。軽く指を幾度かまげ、ため息をついた。 (泣かないでよ) 感覚が飽和して一色にそまるのを目眩と言うのならば、サスケに触れたあの時こそだ。傾いたと気が付くまもなく落ちていた。下手に整ってるせいもあるだろう笑みがなければとたん凪いでしまう少年を揺らすのが自分であると知ったときの、頭の後ろが煮えるような高揚。 泣いたりなんかしないでよ。そんなのまるで。 (好きみたいじゃない) |
「誰にも言えない」/カカシサスケ |
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