(違うよ。アカデミーで習わなかった?) 首を締めるときっていうのはね、と喉元にいくら緩衝になる片手をはさんでいるとはいえ首元をしめあげられながらも男は声一つもかえない。遊びではないのは男の首筋にくいこむ紐を見てもわかるし、交差しながら震える少年の腕でもわかった。 (筋肉にも強いの弱いのって言うのがあってさ、このやり方もありなんだけど、よくはないのよ) かろうじて窒息から男を守っていた片手が引き抜かれ、自然と紐が引きしぼられる。驚いた少年の躊躇は短かったが、十分だった。交差した少年の腕の間、男の両手が差し込まれ、ぱん、と呆気なくはじく。 (腕っていうのは中に閉じるよりそとに引っ張る筋肉のほうが強いから、こうなる) 拘束をほどかれたのに少年は舌打ちした。右目を細めた男は言葉をついでいった。 (体格差があっても、筋肉のつくりなんてどんなやつも一緒だからね、紐なんかで首を締める場合は、いったん交差させた紐を引っ張るほうが、相手に逃げられにくい。で、) 刃物をつかう場合だけど、と後ろからさした影に振り仰ぐように少年が面をあおむける。息のかかるような距離にすこし顔をしかめながら握りこまれた手を見下ろした。柄にさらしをまかれた、いかにも使い込まれなじみのいいクナイを手のひらに握らされる。 (後ろから一撃で狙うんならここ) ひたりとすこし冷たい指がうつむいた首筋にある、頚椎のでっぱりを撫でた。 (前の場合はね、お前の持ち方だとひっかかるな) (?) (肋骨。動物の体ってうまくできてるもんでね) 大事なところはみんな守ってあるんだよ、と付け加えた男はクナイを握る少年の手をすこしひねった。丹念に研ぎこまれ血曇りも見えない刃にうつった太陽がひらめき、目の前を白くかすませる。 (刃を横に寝かさないと、肋骨にひっかかるってこともあるから) 男のあいた手のひらが少年の胸におしあてられ、人差し指が痛むほどに押した。まぶしいのだと鼻にしわを寄せきつく瞼を閉じれば、視界にへばりついた太陽の残像が赤く映った。 (ここが心臓)
甘き死よ、来たれ
side K どん、とその瞬間はまるで背中とみぞおちを同時に蹴り上げられるような衝撃だ。痛みは心臓から全身にめぐる血の流れと同じ速さで脳髄あたりまで上ってくる。筋を断ち切って肉にすべりこむ無機質な鋼。 こめかみや指先、体の末端あたりに子蛇がはいずるような脈動がある。ぷつりと髪の間にはしった冷えた感触に、ああくるぞと構えれば、案の定しずくになった汗が流れて瞬きをわすれた右目に入った。しみる。鼻の脇をとおりさらにおおきな流れになった汗が唇の端でたまったのを舐めても塩気がない。だいぶ、水気を失っているようだ。 「――ゥ――」 けだものじみてひしゃげた奇声をあげる。とたん喉のあたりにこみあがった鉄くさい臭いに、痙攣する腹を力をいれておさえこんだ。それでも喉を逆流してきた血が口の端から数滴こぼれ、幾度か激しく咳き込んだ。左、そう、左腹のあたり、せめて心臓を貫いてくれたらあっというまに天国に蹴りいれてくれただろうに、しくじっている。及第点はとてもやれない。 人殺しとそうでないものと、そんなわずかの差だ。 左目だけでみる世界は荒野に揺らぎたつ陽炎のように輪郭が判然としない。ありとあらゆるものがもつチャクラが炎のようにゆらめきその流れが水の対流のように光の屈折度を変えて流れているのがうっすらと見える。木々はやわらかな黄色、動物は朱金の色、腐りかけで熱をもった、おそらくその屍骸を糧にする微生物などは蛍光に近い緑や青に光っている。 燃えたつような色は朱金というより緋色にちかい。その炎が自分の目の前でゆらゆらと揺れている。砂金のように光をこぼすなんて輝かしい、いのちの色だ。むだに体力を食うばかりだが、こんなものが一生さいごにお目にかかれるなら案外わるくないとひとごとのように男は思う。 まだ細い手ごとクナイをつかんだまま、なぜだか唇の端が上がってくる。汗でしろい膜がはりついたようにおぼつかない右目をあければ、二つと一つ巴の赤目が驚愕に血走っていた。ふっとシャッターの入れ替わりのようにその赤目が生来の色を戻す。自分はどんな色をしてその瞳にうつっているのだろう。赤だろうか、緑だろうか。 なぜ、と声もなしに問いかける少年に右目をあけた男は笑った。うつくしい炎を見ているのも好きだが、いまは一瞬だって少年の表情を見落としたくなかった。生まれたときから自分についてる目で見たかった。 滝壷にとびこむときいちめんの青空に身をなげだす一瞬のため大地をけるときのように躍るこの胸はなんだ。 泣かないでよ、といえば泣いてねえよと返った。はは、と笑い声が漏れた。血の臭いにあまりにそぐわない、炭酸水の気泡めいてすぐ消えるからりとかわいた声だった。 side S (これは現実なんかじゃない) 瞬き一つだ、破幻の目に色をかえてとっととこのばかげた芝居を幕引きにしなければ。笑えもしない茶番なんて最低だ。この男の冗談はいつだって笑えない。 ぱたぱたと血が男の口から落ちる。鉄臭さや内臓の臭いまでこの幻は完璧だ。死にゆくものの顔色が案外、きれいなとこまでそっくりで厭になる。 柄にへばりついたままの両手を上から包みこみ、左手の小指から引きはがしてくれた。べたつく感覚に血糊というのはあながち間違いでもないのだと見当違いの感心をしていた。喉をけずりながら吐き出すとがった呼気に言葉もままならなかった。自分史上最高格好わるいのはわかっていた。 右手の小指を肉刺と鍛錬で硬くなった指がつかみ、ゆっくりと解いていく。ようやくに凶器は解放され、土の上にどさりと落ちたが、人間一人分の体重にすらならない。人間一人の重みには到底たらないのだ。震える手の中にまだぬるい金属の塊を押しこまれる。 (これは現実なんかじゃない) なかないでよ、と男が笑う。 そうだ、そのときオレはともすれば涙をこぼしてしまいそうだった。鼻の奥がつんとなり、唇が引きつる感覚、なつかしい。泣きそうなとき、こらえるときはこんな感じだったが、思い出したくなんて当然なかった。無理にでも閉じていた唇をひらけば、口汚く罵ってしまいそうだった。どうして、と頑是無い子供のように(そのときオレは子供だったが、到底認められないほども幼かったのだ)、取り乱してわめき足踏みをしてしまいたかった。 無表情がやぶれなかったのはただ単に、それ以上惨めにはなりたくなかったからだ。表面張力だけでこらえていた。だってオレにはわがままを言える相手なんてもういない。あの家は夕暮れの向こうたそがれに明かりはともらない。だったら涙にどれだけ重みがあるだろう、ほほを濡らしてしんまで冷え冷えとするだけじゃないか。 そこじゃないよ、と笑った男が傷のすこし左上を指し示すのに頭を振った。 その感触の軽さを想像できるだろうか。手のひらに張りついた感覚の忘れやすさを。 人体の構造は実に巧く出来ているもので、四足であれば本来かくれるはずの腹部をのぞき、体幹部にある臓器はほぼ肋骨に守られている。よって一撃で即死させる急所となりうるのは、延髄、および頚部の血管、心臓となるが、心臓の場合は肋骨に邪魔をされることがおおい。であるからして心臓を狙うときは、寝かせた刃を鳩尾からわずか右にねじ上げるのだ。相手にとっては左。 最初はかたいがなれるにしたがって妙にはまるときが有る。筋と筋の間をうまく刃がすりぬける感覚だ。肉をさばくときと大差ないが食用の肉のように数日を置かないで新鮮な分、若干こちらのほうが刃に引っかかるし脂肪が多い感じがするだけだ。 なんて軽さだ。 泣きそうになった。泣かないでよと笑われ、泣いてねえよと返した。 あんたはなにひとつ守りたい大事なものなんて持っていやしないじゃないか。 じゃなきゃどうしてそんなたやすく傷つける。 守るなんていいながらいたずらに刃の前に身を置いてみせるのだって、そうだ。背中だけを見せて視界をふさぎ、笑う男の大事なところには、生きてる誰ひとり入れやしないのだ。男自身でさえもそうだ。男の絶望の淵はあんまり深い。 なんて呪わしい軽さだ。 きっと悪夢になる。 |
「甘き死よ、来たれ」/カカシサスケ |
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