古い集合住宅がひしめき合う一隅、坂道の脇、フェンスから零れている葉が頭をかすめたのに驚いたシカマルは顔をあげる。黄昏に色を失くしはじめた街影に沈むことなくいくつもの原色の花が灯火のように咲いていた。髪に絡んだのをほどこうとすれば棘があったのか指先に小さな痛みが走る。薔薇とはこんなにおいだろうかと考えながら指をうごかし、しばらく四苦八苦して諦めるとシカマルは髪留の組紐をほどいた。 ばらばらと落ちてきた砂粒と汐のにおい、帰ってきたばかりだというのに災難だ。首を振りふり歩き出す。 「……なにやってんのー?」 きこえた幼馴染みの声にシカマルはよう、と髪の毛を結びながら答えた。買い物帰りらしくぶらさげたビニール袋を重そうに揺らしていのは歩いてくる。 「髪の毛がひっかかったんだよ」 「ああ、伸び放題だもんねー」 剪定すればいいのに、といったいのは見あげて薔薇のつるに指を伸ばす。 「棘あるぞ」 「あったりまえじゃなーい、なにバカいってんのー」 からりと笑ったいのは蕊のあたりから淡い紅がにじむような白い花に手をのばし、花びらを辿った。だがその指はすぐに離れた。 「そうだ、あんたヒマー?」 「……みりゃわかんだろうが」 こたえたシカマルになによ八つ当たり、といってすぐにお疲れ様、と続けた。 「お茶くらいならご馳走しようかと思ったのにー」 「茶?」 「ハーブの鉢とか種、うちの店に置こうかなあっていってたのよー。だから味見ねー」 「毒見の間違いじゃねえの」 むかつく奴ねえ!とあきれ返った声をだしたいのの横を並んで歩きながらビニール袋を指差した。いののサンダルの踵がかつかつと道路にあたってたかい音をたてる。 「もつからそれ貸せよ」 「……シカマルも成長したのねー」 「どういう意味だよ」 器用に片方の眉をしかめたいのはすぐにふふん、と鼻を鳴らし、ビニール袋を押し付けた。目をほそめてシニカルに片方だけ唇をもちあげる仕草。女がする顔としては悪党すぎるやり方だ。随分むかし、いのの母親がシカマルにこぼしたことがある。ああいうところだけ男の子のまねしたがるんだから、いやになっちゃうわよねえ。 「ぶさいくなツラすんなよ」 他愛のないつもりでいった声は自分でもやりすぎたと思うぐらいきつく響いて、シカマルはしまったと心中で舌をだす。失敗した。 「……ちょっとちょっとちょっと、あんた、どういう意味よー。ほーんと昔からデリカシーってもんがこれっぽっちもない男ねー!」 「だったらこれ返すから持てよ」 おもわず脊髄で返した憎まれ口に三倍返ってくるのもいつものことだ。 「そこで言うのが最低なのよー。あんたみたいにいちいち文句つける男のほうが、どうかってのー」 「……」 「気が利かないっていうのー?」 「……めんどくせーな」 降参とばかりにため息をこぼして頭を掻けば、いのがふいに真面目にシカマル、と名前をよんだ。 「それ、言っちゃだめだからねー」 「あ?」 「めんどくせーって、彼女によー」 あたしは口癖だってしってるからいいけどー、といのは言う。 「泣いてるときとかいったらマジでほんとに最悪だからねー。ヒスって怒られるからやめときなさいよー」 「ていうか、女の泣きはずりーだろ。そもそも泣いたってどうにもなんねえだろ」 ばっかねー、といのは一言で笑い飛ばす。 「どうにもなんないから泣くんでしょ。逆よ、逆ー。そういうときにめんどくせーってのは最低だからねー」 答えがすぐ口をついてでなかった時点で、なんとなくやりこめられたのがわかってシカマルは黙りこんだ。誰にいわれたんだよ、と訊こうとしていつだったかいきなりいのが泣き出した日を思い出す。訊いたところでなにをするつもりだというのか。 数年前にクナイで乱暴に切られてから、また伸ばされた髪がほつれておちる、ほそい首筋に銀色の小さな糸がかかっているのに目をとめた。春野サクラと張りあって激昂したふりをして切ってからどれほど経っただろう。もうとっくに結べる長さになっている。 雨のような糸を伸ばし、ちいさく泳ぐようなほそい足先をうごかす生き物がいる。手を伸ばすと、空を掻く仕草にしか見えなかったのだろう。なによ、といのが首を傾げる。 「くも」 「くも?」 「ここだよ、ホレ」 「はァ!?」 指先に絡んだ糸を引っ張って見せるといのがばたばたとむやみに背中をはたくものだから足を動かした蜘蛛はすぐについついと重力なんてまるで関係ないように空をうごく。うまくまとめ切れてない襟足の髪がほつれて落ちているところ、からまった銀の糸をシカマルは見つめる。 「虫なんて全然へいきだったじゃねーか」 「六本のはよ、バカー!蜘蛛は足おおいでしょー!」 「本数の問題かよ。あー、もう、めんどくせー」 「しかもどろぼうが来るんだからー!」 「迷信だろ」 ちょっとじっとしてろよと呆れた声をだして指を動かした。花の、蜜のにおいがする。曲がり角のむこうにまだあの花は咲いているだろう。においのきつい花だ。 喉がすこし渇いたなとシカマルは思う。家に帰ったらすぐサイフをもって、いつもの公衆電話で電話をしようと思った。ノイズまじりだっていい、はやく彼女の声が聞きたくてしょうがなかった。 (早くしないと) |
「どろぼうが来るよ」/シカマルといの |
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