如月には夜桜の見物客でごったがえした墨田堤ぞいも葉桜にかわってからはひっそりとしたものだ。暮れ時になれば木戸がしまってしまうため足早にもどるものがおおい。そぼふる雨のなか、蓑傘だけで櫓をこぐ弥平も同様だ。

夕刻からふりだした霧ともまがう雨はしんしんと冷えてたまらない。今日かりた船代を元締めに払ったら女房に燗をつけてもらおうと弥平は舟溜まりまで急いだ。

おうい、と呼ばれたのはそのときである。今日はもう仕舞いですよう、とさけんだ弥平に土手からすべりおりた男は金なら言い値をくれてやる、と叫ばれついと櫓をとめた。

「わたしてくれ」

すこし岸辺にちかよったところで、男は先にニ朱銀をなげてきた。ばらばらと落ちた音からしていくつだろう、酒手には十分すぎるほどだ。ああさむい、と兄さん被りにした手ぬぐいで洟をすすった男はずるずると船底に座った。対岸につけると身軽に土手をかけのぼり、ひらひらと手を振った。おかしな客をひろったものだ。

家にかえってから女房に蓑傘をわたし、足湯をつかって汚れを落とす。ひゃああ、と気の抜けたような声に弥平が土間に立ち上がると、女房が真っ赤な手を見下ろしてぽかんとしている。火明りが見せるぬめぬめとした血の色にひゃあ、と弥平も腰を抜かしてひっくりかえった。懐からこぼれおちたニ朱銀も赤かった。









どんどんと外から板戸を叩かれるのに、おそい膳をひとり食べていたサスケは紙燭をとりあげ立ち上がる。

「サスケェ、あけてくれってばよう」
「ナルトか、どうした」
「イルカ先生が吉井さまにお呼ばれしちまったし、物騒だから道場に泊めてもらえってよー」

提灯をかかげ、傘をもちあげたのはサスケと同じ年頃、金髪に青い目をした少年だ。ぶるぶるっと犬の子のように頭をふって水気をとばしたナルトは提灯をもちあげるとふっと中の火を吹き消した。手ぬぐいを差し出すと真っ先に顔をふく。体をふきながらすんすんと鼻をうごめかせたナルトはメシか、と喜色満面で問い掛けてきた。

「一人ぶんぐらいならまだあるぞ」
「へへー、腹減った」

ナルトもサスケも孤児だ。ナルトの世話をしているイルカは吉井同心の下で働く与力だ。男やもめで赤の他人の世話をしている場合ではないだろうに、人が底抜けにいいのだ。しょっちゅうあっちで押し込みが起こったこっちでしくじり心中だといってはひっぱりだされるのだが、どうも子供一人だと心配になるらしい。同心に呼ばれるたびサスケが世話になっている木の葉道場にあずけるのだ。

「じっちゃんは?」
「三代目はもう離れにひっこんでる」
「そっか」

まだ温かい味噌汁とあぶった干物に漬物をそえ、冷めた麦飯に淹れたばかりの茶をかけていると、奥の階段がぎしぎしと鳴る。のそりと欄間につかえそうな長身をかがめて現れたのはひょろりとした印象の男だ。色みのない灰色の髪、傷のはしった左眼を眼帯で隠しているようすはどう贔屓目にみても博徒だが、意気がるでもなくきくずした洗いざらしの着流しにしろ、猫背にしろどうにもしまらない、眠たげな犬のようだった。

「お、ナルトか」
「カカシ先生」
「あんた……かえってたのか」
「あのねー、かえっても気がつかなかったのはお前でしょうが。おもとさん困ってたよ」

通いでした働きをしてくれている近所の女房の名を聞いてサスケは眉をしかめる。

「ちゃんと呼んだときにでてきな」
「わかった」

同居人とはたして言ってよいものか、はたけカカシというこの男、一月ほど姿を消しては戻り、また二月、かとおもえば三日ほどで戻ってくるときもある。

「あんたは?」
「オレ?もう飯はいんないよ」

食ったよもう、というカカシにサスケは頭を振る。

「いや、今度はどんぐらいになる」
「あー、うん、一ヶ月ぐらいお世話になるかね」
「じゃあおもとさんにそういっとく」
「ん、頼んだ」

一ヶ月の滞在、と聞いて目を輝かせたのはナルトだ。

「んじゃさ、んじゃさ、先生、修行つけてくれってばよ!」
「え〜、オレ三ヶ月ぶりにかえったからへろへろなんだけど」
「だってよう、じっちゃん忙しいし、イルカ先生もやっとうは早いッつってちっとも教えてくんねえし、先生ひまだろ?」
「失礼なこというね、おまえ」
「どうせ日がな一日あぶな絵見てるだけだろうが」

フン、とサスケにまで言われてカカシはやれやれとため息をつく。

「はいはい、三代目からお許しいただいたらね」

おっしゃー、修行!と叫んだナルトは茶漬けをがしがしとかきこんだ。

すこしくたびれた感じのイルカがナルトを迎えに来たのは二更になろうという時分、いい加減泊まれというのに固辞するところにカカシが顔をだし、思わぬ再会にあっさり落ちた。通り一遍、再会の挨拶をしてから長く江戸を留守にしていたカカシに近況を教えるものになる。

「巾着切りですか?」
「はあ、まあ。これが怖いやつでして、浅草寺の仲見世にも出たりすんですがこう、袂んところをずばっとやるんですよ、カカシさん」
「物騒ですねえ」
「こないだの潅仏会なんてあれですよ、小間物屋のご隠居がお孫さんと花御堂にならんでたらやられましてね、とっさによけたのがいけなかったのか、腕ンとこをすっぱりと」
「へえ」
「それちげえよ、イルカ先生。タズナのじいちゃんだよ」
「あれ、棟梁だったっけか」
「イナリが言ってたってばよ」
「日陰ものにどうこういうのもあれですがね、同じ盗みにしろむかしに比べて品ってもんがかけてますね。ふるい連中は殺しも犯しも気づかせもしないってのが流儀でしたが」

ため息をついたイルカに湯のみをもったカカシは肩をすくめる。

「盗みは盗みでしょうし殺しも殺しですよ。大坂のほうなんざ暁って賊が街道沿いを荒らしてますよ」
「暁?」
「勝手に呼んでるだけですがね、こう、扇がひとつ空になった蔵においてあるんだそうで、そこに一文字、暁と残ってる」
「はあ、それで暁と」
「そう」
「なんにせよろくな時世じゃありませんね」

そのとおりです、とカカシはうなずいた。







明けて翌朝、イルカとナルトを送りだしたカカシの目の前、どさり、と投げ出された煤だらけの袷を見てカカシは眉根をよせる。

「どういうことだ」

飯を炊こうとしたら出てきた、とサスケに言われつめが甘かったかとカカシは内心渋面をつくった。

「どうもこうも」
「燃やすんならもっとまともなとこで燃やすんだな」

血の匂いがする、とサスケに言い当てられてカカシもぎくりとする。だが面にださないのが食えないところだ。

「あんたの血か」
「……まあ、それもある」

言った瞬間、サスケの顔が強ばったのにカカシはおや、と眼を瞬いた。どうした、と尋ねようとしたところでサスケはもう朝の支度を整えていたのだろう、風呂敷をもって土間に座る。昼の内は三代目がしている手習いを近隣の子供にまじってうけているのだ。

「べつにひどいやつじゃないよ。今日ツナデさまんとこに行くし」
「訊いてねえよ、別に」
「うん、まあ、なんとなく」

言ってみただけだよ、と付け加えてもかえってきたのはフン、とかわいくない返事だ。
戸締りはちゃんとしろよ、と元服前の子供にいわれてしまうのもなんだかこそばゆい。三代目が起居する離れにいった背中をみおくったカカシは、一ヶ月、ねえ、となにやらゆるむ口元をおさえて他人事のように呟いた。






















「序」/カカシサスケ





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