「美しい、美しいよ、アニタ! 目線をくれ、ああいい感じだよ!」

次々とフラッシュが焚かれ、シャッターを連続して切る音が瀟洒なスタジオに響く。長身のカメラマンは銀髪を掻きあげ、ふうと溜息をついた。

「オーケー、今日はここまでにしよう!」

「Hi、カカシ」

婉然と微笑んで、アニタと呼ばれたブロンドの美女がカカシの背中から手をまわして凭れかかってくる。張り出した胸を大きく開けた光る生地のドレスが官能的だ。

「ねえ…今日は何時に終るの?」
「今日は遅くなる。これから『ヴォーグ』の編集長と打ち合わせがあるんだ」
「いじわるね…、私はこんなにあなたに夢中なのに、あなたは仕事ばかり」
「わがままを言うなよ」
「私達の幸せな結婚式のことだけど、パパラッチの来ない、どこか小さな南の島で二人だけで挙げたいわ」
「君の好きなようにしてくれ、愛する人」

カカシは恋人の首筋にキスをした。抱き寄せて手を腰に回し、首筋から胸に唇を這わせてゆく。恋人が快感に喉をのけぞらせた。

「ねえ…カカシ、プライベートルームに行きましょうよ」

金髪の恋人はスタジオの隅にある白いドアに目線を送った。

「すまないね、あそこはダメだ。散らかっている」

カカシはなぜかその部屋には誰も通さなかった。恋人は不満気に拗ねてみせる。

「あなたが何を考えているのか、時々わからなくなるわ」

その時、玄関のドアベルが鳴った。

「おっと、お客さんだ」





インターフォンのモニタを見ると、ドアの向こうには鬚面の男が煙草をふかしていた。友人の報道ジャーナリストのアスマだった。

「アスマか」
「よう、久しぶりだな、カカシ」
「よく来たな。半年ぶりだ」

カカシはドアを大きく開けて招き入れた。





「しかし、お前が年上の映画女優さまと御結婚とはな。上手く口説いたもんだ」

アスマはカカシの手首に嵌まっている24金のロレックスを見ながらニヤニヤして言った。

「オレが口説いたんじゃないさ。…向こうからだ」
「まあ、いいさ。お前が立ち直ったならそれでいい。あの時はお前がもうダメになるかと思ってたぜ」
「…それを言うな、アスマ」

カカシは目を伏せた。

二年前の飛行機事故が、カカシの人生を変えた。
恋人と共に出かけた取材の旅で、乗っていた飛行機のエンジンが東南アジアの上空で火を吹き、密林へ不時着したのだった。

いまでも眼底に鮮明に焼き付いたその悲惨な光景を細部まで様々と思い浮かべることができる。乗客270名中、生存者はカカシを含めた16名に留まり、遺体が確認された死者の中に恋人のサスケはいなかった。行方不明者の数は一割に及んだ。それだけ遺体の損傷が激しかったということだ。

とても生きているまいと誰もが思った。
恋人のサスケの遺体はついに確認されず、遺品は血染めの靴が片方見つかっただけだった。事故の傷も癒えぬままに失意の中で帰国したカカシはしばらく心身症で苦しみ、毎夜酒浸りの生活を繰り返していたのだった。

「眠れなくてな…。今でもあの時の夢を見る」
「…今日はちょっと見せたいものがあって来た。こんなものを今さらどうかとも思うが、一応お前に見せておこうかと思ってな」

アスマはテーブルの上に雑誌を開いて放った。
カカシはグラビアの見開きページの写真を凝視する。東南アジアのチャイナタウンを撮影したものだ。 チャイナタウンの路地に住む人、行商人、大道芸人などが雑多でエネルギッシュな空間にひしめいている。 アスマはその中の片隅の方に小さく映っている黒い髪の少年を黙って指差した。カカシは思わず声をあげた。

「…アスマ、この写真をどこで撮った?!」
「先月末に行ったジャカルタだ」
「サスケに会ったのか?」
「いや、オレも現像するまでは気がつかなかったんだ。だが似てるとは言っても他人かも知れないんだぞ」
「何を言う。オレがサスケを見間違えるものか」











カカシは誰も入ることを許していないプライベートルームに入り、中から鍵を締めた。
壁には何十枚ものサスケのポートレートが飾られている。膝を抱えるサスケ、海で波と戯れるサスケ、犬と一緒にいるサスケ、シーツから顔を出した裸体のサスケ。全て二人で過ごしてきた日々の中で映した一瞬だ。一枚一枚をゆっくりと眺めたあと、カカシは木の箱からサスケの遺品である血染めの靴を取り出して目を瞑った。

「…サスケ、生きているんだな…!」

翌日、ジャカルタに発つ飛行機に乗るため、空港に向かうカカシの姿があった。











ジャカルタに入って三日が経った。

「ワカラナイ、ミタコトナイ」

写真を返しながら首を振る屋台のマンゴー売りに礼を言うと、カカシは額に浮かぶ汗を拭った。
連日、アスマの撮った写真を片手にチャイナタウンを探し続けているが、芳しい情報は得られていない。
頽廃、堕落、挫折、混沌。この街に吸い寄せられるように集まるのは、どこか訳ありな人間ばかりだ。しかし、この街のどこかにサスケがいるのだと思うと
脚は街の奥へ奥へと進んで行った。

しかし、その日の夜のことだった。

英語とマレ−語と広東語の喧噪が入り交じって聞こえる安い酒場で、写真を手にした店の親父が眼鏡をあげて凝<視している。

「…オイ、先生よ! この子、アンタのとこにいた子じゃねえか?」

店の親父はテーブルの端に座っていた客に声をかけた。
この街にはやや不似合いな雰囲気のある白晰の青年が顔を上げる。

「人探しをしてるんだとさ。教えてやんな」

銀縁の眼鏡をかけた青年はカカシを見ると、軽く会釈をした。

「…確かに僕のところにいましたよ、但し、一年も前の話です」

青年は、僕は無免許医なんですと言って名刺を差し出した。名刺にはKabuto YAKUSHI と記されている。

「もしかしてあなたは、カカシさん、ですか?」
「そうだが、なぜオレの名を?」
「やっぱりそうですか…。彼は意識がない間、あなたの名前を何度も囈言で呼んでいましたよ…」

当時カブトの家は事故の現場近くにあったという。燃えた機体の残骸がまだあちこちで燻る中、砕けたタイルと灰の中でカブトはひとりの少年を救出した。

「無惨な有り様でした…。彼を見つけたときはすでに虫の息でしたが、その場で人口呼吸を施したら蘇生して…奇跡だと思いました」

カカシは手を組み合わせ、眼を瞑って聞いていた。

「なんとか助けたくて連れ帰りました。背中に酷い火傷を負っていましたし、骨盤は折れて、内臓破裂で体内に出血をしていて瀕死だった。一カ月ほど生死の境を彷徨いましたが、一命をとりとめました。杖に縋って歩けるようになるには半年以上かかりましたがね」
「今はどうしてる? 怪我の状態はどうなんだ?」
「左側に神経麻痺が出て、今は杖をつかないと歩けません。疼痛の後遺症があるので僕が時々彼の家へ鍼を打ちに行っています。ですが、体は随分良くなりましたよ。あとは…記憶障害です」
「…記憶障害?」
「ええ。自分の名前以外、事故から前のことは何も覚えていません。ただ、記憶はなくても潜在意識にはある…先刻も言ったでしょう、囈言で貴方を呼んだと。貴方に会えば思い出すかも知れない」
「なんてことだ…」

カカシは目を押さえて息をつく。

「会わせてくれ、どこにいるんだ?」
「…今の彼を知って後悔しませんか?」
「どういう意味だ」
「カカシさん、身体に障害のある未成年が異国の土地でひとりで生きてゆくにはそれなりに手段を選ばなければならない。僕はあの子を引き渡したくはなかったが、目をつけられた相手が悪かったと思ってください」

複雑に入り組む迷路のような裏路地には崩壊しかけた長屋や倉庫が軒を連ねており、饐えた匂いが漂っていた。そこではかつての苦力(クーリー)を彷彿とさせる最下層の労働者たちが僅かな日銭を求めて汗を流している。どこからともなく、生温かい風にのってコーランを詠唱する声が聴こえていた。

看板も表示も何も無い黒く塗った鉄のドアの脇に寂れた駅の切符売り場のような小窓があり、そこをノックするとカーテンが開いた。

「この人から紹介を受けた。バイヤーに会いたい」

そう言ってカブトから渡された名刺を差し込むと「Wait.」とマレー語訛りの英語が返り、しばらく待っていると中からドアが開けられた。

ねっとりした煙の渦が、楽器を持った古風な天女が描かれた薄暗い天井へ昇っていく。透ける生地のカーテンで幾つにも区切られた部屋のひとつには、皺だらけの老人が長椅子に寝そべり、陶然とした表情で水パイプを吸っていた。

猥雑で如何わしい雰囲気が充満しているこの場所が阿片窟であることを知るのに時間はかからなかった。

カカシは窓口にいたマレー人らしき若い男の手にチップを握らせた。男はニヤリと笑い、「バイヤー、今来る」と部屋の奥を顎でしゃくってみせた。

コツ、コツ、とゆっくり階段を降りて来る音が聴こえ、間もなく杖をついた少年が奥から現れた。カウンター脇に立っていた男に紙袋を渡している。照明が暗く、表情は見えない。男は彼のズボンのポケットに何枚かの紙幣をねじ込み、少年の耳になにか囁くとドアを開けて出て行った。
一瞬開いたドアの隙間から廊下の照明がその横顔を照らし出す。

切れ長の瞳、漆黒の髪、二年の間に頬はやや削げ、その稜線はすこし大人びているが、光りを受けたその横顔はカカシの好きなアングルだった。シエナの礼拝堂の「聖アンナ」に似ていることから、かつてそう言って幾度もシャッターを切った。紛れも無くサスケに違い無かった。夢にまで見たその姿にカカシは声を挙げそうになるのを堪え、拳を握りしめた。

雑にポケットに捩じ込まれた紙幣の数枚が床に零れ落ちている。杖の少年は屈み込んで拾おうとしていた。左手は杖に縋りながら右手をいっぱいに床に伸ばしているが、あと数センチのところで届かない。伸ばした指先が小刻みに震えているのを見てカカシはたまりかねて駆け寄った。セロファンの赤い花が貼られた10万ルピア紙幣を拾い上げ、少年の前に差し出した。

「…どうも」

紙幣を少年は無愛想に受け取る。黒い瞳と眼線が合った。二年振りの奇跡の再会に声が震える。カカシはその場に立ち尽くしていた。

「…サスケ」

だが少年は訝しそうにカカシを一瞥しただけで、視線を避けるように顔を背けた。 「聖アンナ」の横顔で。



「すまねえが長く立っていられねえんだ。掛けさせてもらうぜ」

不自由そうに椅子に座り込み、少し辛そうな表情が過る。左の足に力が入らない様子で、サンダルをつっかけた素足の先がわずかに外側に彎曲しているのをカカシは見た。

「脚が悪いんだな、事故か?」
「…詮索好きだな」

二年前に飛行機事故でなと無愛想に呟いた。

戸口近くでパイプを吸っていた老人に呼ばれ、サスケが「…ちょっと席を外すぜ」と再び杖をつきながら立ってゆく。どうやら阿片の追加らしい。サスケはアルミの盆の上に広げられた飴色の阿片を手早く練り香のように縒って丸め、老人の水パイプの先に詰め、絶妙のタイミングでライターの火をつける。その様子は手際が良く、如何にも手慣れている風だった。

暫くして戻ってきたサスケはカカシの鼻先へ水パイプを差し出した。

「…吸って行くんだろ。そこの長椅子を使え」
「いや、オレはアヘンを吸いに来たんじゃないんだ。…キミに会いたくて来た」

途端、サスケの顔に警戒の色が浮かび、挑戦的な眼で睨めつけてきた。

「貴様、何者だ。…警察か?」
「警察じゃあないよ。安心して。キミを捕えに来たんじゃない」

周囲を伺って、先程のマレー人が此方に背を向け、イヤホンを当ててラジオ放送を聴いているのを確認するとカカシは小声で囁いた。

「…昔のキミを知っている。話がしたい」

サスケの目が大きく見開かれたのをカカシは見逃さなかった。一瞬の躊躇のあと、顰めるような声で聞いて来た。 「…アンタ、オレを知ってるのか…?」
「…ああ」

カカシは静かに頷いた。

「もうすぐ仕事が終る。11時30分に閉めるから、どこかで待っててくれ」
「ここで待たせてもらってもいいか。キミが迷惑でなければだが」
「…好きにしろ」

フン、と鼻を鳴らして立ち上がる。その些細な仕種が寸部違わず昔通りで、カカシは苦笑した。









サスケは阿片窟の上の部屋を自室として使っているようだった。
手摺に体重をかけて掴まりながら不自由な脚を引き摺り、階段を昇ってゆくその後をカカシは着いて行ったが、階段の踊り場で息をついたのを攫うように壁際に押しつけた。

「…何すんだ…!」

片手でサスケの顔を上げさせ、覗き込んだ。

「きれいな眸だ。昔のままだ」

踊り場の壁に押し付けられたまま、角度を変えて何度も唇が塞がれ、舌が口腔に分け入ってくる。永遠に続くような終りのないキスに頭の芯が痺れたようになり、サスケは固く目を瞑じた。膝から力が抜けてゆき、崩れ落ちそうになったのをカカシは片手で受け止めた。金属製の杖がカランと高い音を立てて床に転がった。

「サスケ…、サスケ、オレだよ…!」

その声に、抱き締められる腕の感触に、サスケの中に呼び起こされる何かがあった。



……あの時…

かつての記憶がフラッシュバックする。
開かないラバトリーのドアを叩く音がし、その向こうで自分を呼ぶ声がしていた。下降の重力、乗客の悲鳴、吹き飛ぶ天井、宙に舞い上がるガラスの破片、押し寄せてくる煙、爆発、密林の中で炎上する旅客機の残骸…。 全てを思い出したわけではなく、突然あふれ出す記憶の波はサスケを混乱させている。

「…あの時オレを呼んだのは、アンタの声か?」
「だったら、どうする? ……サスケ」

前髪に触れる手の下で、瞳がゆらりと揺らいだ。
初めて血が通ったかのように、真っ白な肌が紅く染まってゆく。額に触れた手を頬へ滑らせれば鋭く睨める目が一瞬緩み、表情を歪ませた。

「……カカ…シ……?」

白い喉から掠れ声がこみ上げた。











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words by ロザリンド・フランチェスカッティ(Bisogno)














ROSSO

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