ドアを開けた瞬間、痩せこけた女の目の中によぎった後ろめたさに悪い予感がした。陋屋に似合わない真新しい紙幣を掻きあつめたあかぎれの多い手に落としたのはため息だけだ。襲ってくるぞ、と低いささやき声をきくまでもなく、磁石にすいつくように武器が手になじむ。

戸口にさした影に目をやれば、日雇いにでかけていた末の子供が立ちすくんでいた。もう一年か二年したら辻にたって男の袖をひかなければいけないのだそうだ。

(あの子達より年下なのにね)

悲鳴をあげかけた口をふさいで囁く。

(三つ数えたら、走ること。ふりかえらないで)

何日かだけでも、そんな日が先延ばしになるならいいだろう。
貧困にあえぐ彼女たちを救うべき大名に咎があるのであって、しょせん自分たちは尖兵だ。ひたすら一振りの刃であればいいだけで、迷いも躊躇もはいりこむ隙間はない。

小さな背中を押しながらカカシは印をきった。










円かの月













黒御影でできた碑の上に男は水筒を傾け、汚れをざっと洗い流す。
つい数時間前の雨で洗われていたとしても、習慣として身についてしまっているのだから仕方がなかった。近所の茶屋で買ってきた餡物を三つ供えた。

こんな日に来るんじゃなかったな、と思いながら足を運んでしまう、それも習慣として身についてしまっていた。人気のない道を三人で行き、それが二人になり、一人になった。名前が彫られた場所は見なくても指だけでわかってしまう。

(今日は朝来れなかったし)

何日かまえの夕暮れに手をふっていた子供たちの顔を思い出し、すこし笑う。

(会いたいなあ)












アカデミーから街に出れば、数日前よりも高いところに宵の明星が浮かんでいた。他の星はまだ見えない。

夕餉の買い物でせわしなく人が流れる商店街のなかサスケは立ち止まる。
滑り落ちそうなトタン屋根のした、夕闇を潤ませる裸電球を灯した八百屋のまえ、うずたかくつまれた箱に緑色のカボスがたくさん入っていた。1籠かって搾っておくことにし、安いエノキダケと青菜を買うと、なぜか袋の中に新聞包みのススキと萩を押しこまれた。返そうと思ったときには、人の流れに押し流されてしまって、かなわない。

せわしなく移動する女性にぶつかったり、足元あたりをちょろちょろする子供や猫を蹴らないようにしながら、通りをわたる。青銀の刃のような魚を覗きこむ。ふ、と赤っぽい白熱球の明かりがかげったのに、親父の客引きかとうんざりしながら視線をやれば知り合いだった。

「秋刀魚?」

顎を左肩にのせるようにしてしゃべる隻眼の男に重いと顔をしかめる。たしか数日かかる任務に出ているはずではなかったのか。

「帰ってたのか」
「まーね。で、今日の夕ごはん?」
「安いからな」
「そう?一尾でこの値段はちょっとね」

一尾でも腹いっぱいだ。一人暮らしのなにが困ると言って、すてる羽目にならないよう同じ食材を何日も食べなければいけないのが辛い。カカシの指差した先の値札を見れば、一尾二尾では安くない。

「五尾なら特売だってさ」
「……食えるかよ」

五食連続で食卓にならぶサンマの塩焼きやフライ、梅煮を想像してサスケはうんざりする。肩にのったカカシの頭を押しのけた。痛くもないくせに、いたた、と顎をさすったカカシはサスケのもつビニール袋に目を落とす。

「それカボス?」
「ああ」

特売ではないが、ひっくり返された段ボール箱の上、籠にならべられた鯵の干物に目をやりながらサスケは頷く。

「じゃあさ、カボス四個ちょうだい」
「は?」
「この秋刀魚いくら?」

サスケが顔を上げたときにはカカシは人工芝の上にのった籠を指差し、勘定を済ませてしまった。同じく一人暮らしなのはしっている。五尾もどうするのだ、と思っていたら男は指を四本立てた。

「二尾あげるから、カボス」

よっつな、といって男は笑い、それからまたサスケの買い物袋を覗き込んだ。

「大根は?」
「買ってねえ」
「なんで?」
「一本は多い」

一本つかいきったばかりだから、いまは食いたくないのだ。ふろふき大根、ぶり大根、紅白なます、にんじんと大根のみそ汁、鳥唐あげの霙和え、じゃこおろし、もうしばらくはいい。焼き魚に大根おろしの組み合わせと、大根の処分で四苦八苦するのをくらべれば、買わないほうに天秤が傾いた。 あー、そうか。と頷いたカカシは秋刀魚の袋を片手にサスケを見おろした。

「うちでメシでも食べる?」
「正直に言え」

お見通しだとサスケが錆びた右目を見あげれば、予想のとおりカカシは悪びれもせずに頷いた。交渉はほぼ成立しかけている。

「秋刀魚二尾と大根おろしでカボス四個、悪くないだろ」

なんだか最近サスケの扱い方が少しわかってきたと思いながら、カカシは歩きだす。五メートルぐらいはなれてついてくるのにすこし笑った。なんだか犬みたいだ。尻尾をふったりしないし、足元にまつわりつくこともないが、きちんと後ろをついてくる。

ナルト、サクラ、そしてサスケの三人を三代目じきじきの指名で任されたときは、どうなることかと思ったが、いいチームになりそうだと思う。三人とも未熟なのは当たり前であっても、サクラは器用さと頭の良さが楽しみであるし、ナルトはいくらでも成長できる力も目標も持った子だ。まだやる気と力が伴っていないうえ、サスケと引き比べて悔しい思いをすることが多いだろうがバネにするだろうとカカシは確信しているから安心だ。

現時点で一番できるぶん、個人プレーに走りがちになるかと危惧したサスケも視野をひろくしようとして、他二人のフォローにまわっていることがわかる。 カカシが一回目の演習で教えこんだことを忘れていない証拠だし、命令にはきちんと従う。納得できない場合であっても、説明すれば理解して何も言わずに実行する。そんなところもなんだか頭の良い犬のようだ。

そう考えると、とっつきにくいかと思っていた無表情のどこかにも、もしかしたら犬の尻尾のように感情のバロメーターがあるのかもしれないと思考が楽観的になる。犬はなんせ得意だし、好きだ。

(サスケのおかげで夕ごはんは秋刀魚だしね)

カカシはすこし浮かれ気分で後ろの足音をきいていた。



猫背の影をふむように歩き、ゆるい勾配のある坂道をくだれば、道脇の槿むくげがおそい淡紫の花をつけていた。白い花は末枯れて茶色くなっている。いちめんのススキが尾花をゆるやかに波うたせ、セイタカアワダチソウが終わりの花をつけているのが蛍火のようだ。街灯が眠そうに瞬きながらともりだせば、絵に描いたような初秋の夕べだった。

どうどうと秋雨で嵩をました川の音が夜の底から沸きあがる橋の上、カカシが東の空を仰いだ。

「月だねえ」

濃紺の空ににじんだ蜂蜜色のやさしい望月だった。ちぎれた雲が高いところで青く照らされている。すこし扁平なぐらいふとった月だ。新聞づづみのススキと萩が売られていたのを思い出し、今日は中秋の名月かとサスケは納得した。

雲がかかってぼやけているのがまだいい。冴えていたらきっと空なんて見れないだろうし、眠りが訪れないこともわかっていた。数年前の月夜からサスケはまだ逃げられない。今日の夜も長そうだ。

「きれいだな、ぐらい言いなよ。情緒がない」

しずみかけたサスケをカカシの声が引き戻した。

「……そんなん別にいらねえ」
「秋はいいよ」

おかまいなしに言葉をつぐのに、すこし安心する。サスケはこの男の声は商店街のスピーカーのようなものだと思うことにする。聞いても聞かなくてもいいようなことで、サスケの答えをけして必要としていない。とりあえずナルトほどうっとうしくもないしサクラよりは楽だった。

「女の子が栗やイモくってふくふくするよ。薄着じゃないのが残念だけど」
「変態」
「バカだねえ。愛と勇気とスケベ心は人生のスパイスだぞ」

ガキにはわかるまいとろくでなしの口調で笑うのに、サスケも口元をゆがめた。 カカシの手も眼差しも均等で、子供でいて許されるのだった。いつかしら、それに不満をあまり持たない自分がいて、こみあげたおかしさに少しだけ表情がうごいた、そんな感じだ。

七班に組まされてから一番最初に鼻っぱしをおられ、こみ上げたのは屈辱と、怒りと。越えたあとにのこったのは自分はまだ到底、目指すものから程遠いということだった。でも今はそれで充分といえる。焦る気持ちがないわけではないが、嘘ではなかった。

川からはなれ街あいを行けば行くほど、虫の声が耳につくのは同じ夕べをむかえた人の声にまぎれそうだからだろうか。風はもう夏のように土や緑のにおいはなく、すこし冴えだしてやわらかい。音もなく秋がきているのが分かる。

夕闇に歩く男の背中を見る。
すっかり道のりもおぼえてしまった。
西の方、いままで歩いてきた先、橋の向こうをかえりみれば、いつのまにか宵の明星は見えなくなってしまっていた。















ちゃぶ台にサンマと小鉢が幾つか並び、差し向かいで飯を食べる。

そういえば、と気がついて数日前もらったプリントに書き込まれた書名を確かめる。何冊かなかったのだ。あるか、と聞けばあるかもしれないとカカシは立ち上がった。本棚をさがしてくれている間に、サスケはアカデミーから借りてきた本を広げ、貸し出しカードを見ていた。

「ないみたい」
「そうか。わるい」
「いんや」

カカシはサスケの向かいに胡座をかいた。

「ちょっと貸して」

さしだせばカカシは暗器をあつかうように慣れている、けれど慎重なてつきで受けとり、表紙や目次を目をほそめて見おろした。

「これ、貸し出しカードにオレの名前なかった?」

サスケが頷くと、じゃあ、やっぱコレか。とカカシは呟いた。

「古くなったなあ」

声は懐かしがる響きとおもしろがる響きの両方を伝えた。頁をめくり、カードを引き抜いたカカシは、あ、サクラだ、と言い、それから三度ほど瞬きをしてからサスケに視線を当てた。

「おまえこれ連続二回も読んだの?そんなに面白い?」
「オレじゃない」
「どういうこと」

ナルトが、と言ったらカカシが水をかけられた犬か猫のように硬直して、いきなり姿勢を正すものだから、サスケのほうがギョッとした。サスケが言葉を続けようとすると、ひらひらと手をふった。

「いい、いい、言わなくていいや」
「?」
「ナルトのことだから延滞してて、どうせサクラに頼んだんだけど、サクラもまだ借りてたんだろ」

サスケは一息に言い当てられて呆けた。
何日かまえ、あのあと、サスケがカードを貸してナルトに本を渡し、それから今日、もう一週間ぶん借りてきたのだ。

カカシは目を眇めていつものとおり、喉を鳴らして笑った。

「保証人にはなるなよ。名前だけなんてアレほとんど嘘だぞ」

またろくでもない冗談を、とサスケが眉宇をしかめれば、ぽつんと声が落ちた。

「どいつもこいつも考えることは一緒だね」

湯呑みからたちのぼる湯気のせいでサスケの視界はすこし朦朧として、カードをおそるおそる撫でるカカシの顔はやわらかく遠くにじんでいた。読んだことがないのか、と訊ねれば答えは無言のままに返った。



ちょっと読んでいい、とカカシが言えばサスケはかまわないと頭をひとつこくりと上下させた。いつもは簡潔すぎて困るサスケの沈黙がありがたかった。

事実に因果をさがすのは人間だけだ。わかっていても、よりによって今日この日に、と思うとすこしカカシは笑わずにいられなかった。プレゼントはまるで天から花束が降ってきたように思いがけなくて、しずかな喜びがひろがる。縁というのはおもしろい。

後片付けをしようとして、買い物袋からでてきた新聞包みのススキと萩を見て目を丸くするカカシに、もらったんだ、とサスケがぼそぼそと言うのに笑った。まあその通りなのだろうが、いちいちオレの柄じゃないんだとばかりに言うところが何となく面白い。

慌てる顔見たさに、じつはよりによって人生何度目かの誕生日なんだよ、の言葉が喉元まででかかったが、やめた。それこそ柄でもない。

花瓶代わりの空いた一升瓶に挿したススキと萩は窓際においてもベランダにおいても決まらず、サスケの批評は呆れきった一瞥だけで終わった。







後日、返却手続きをしていたサスケは、カードの文字が「うちは」から「うずまき」に書きかえられているのに気がついたが、知らぬふりをした。十五年前の名前は、男の字ではなさそうなことだけはわかった。

そんなこんなでアカデミーの図書室、おくまった書架の古びた本の中ひと知らず記されたカードには十五年前の子供と三人の子供たちの名前がちゃんと残っている。
















「円かの月」/カカシサスケ





満月は11日でしたが。
とりとめもなく秋色に。
お誕生日おめでとう、おめでとう先生。




「夕べの星」へ













back