肘があたった拍子にばさばさと書類が机の脇になだれ落ちた。片付かないせいもあって苛つき、思わず舌打ちをして屈みこむ。ファイルにきっちりとまとめていないせいで、机から落ちたとたん紙片は意外に散らばってしまった。

ざっと集めて端を机でそろえ、数えていくが報告書に必要な資料の束がなくなっている。がしがしと頭をかいたカカシはすこし固まってしまったような首をぐるんとまわし、天井を見上げてため息をつく。

(コーヒーでも淹れよう)

ごきごきと関節を鳴らしてから立ち上がると、机の上に置きっぱなしのカップを取り上げ、流しのほうへと歩いていった。

流しの窓に絡まるツタももう霜枯れてしまっている。山姫のふところ深い隠れ里の秋は黄に茜、錦の裾が目の前を掠めたかと思えば葉を落としきり、銀杏も桜もさむざむと鈍色をしたうす曇りの空に枝を伸ばしているだけだ。

去年の雪が降ったのはいつごろだったろうと思いながら、湯気をあげるカップをもって椅子に座った。ベッドに腰かけないのは、いま倒れこんだら明日までに提出締め切りの書類を机の上に置いてけぼりにし、惰眠を貪る自信があるからだ。寒くなればなるほど、布団は温かく恋しいものだ。

(炬燵出そうかなあ)

雨の夜は寒さに耐えかねてぶあつい布団を出したのだが、干していないから当然カビと湿気でひどく重たかった。寝ることに関しては何故だか異様にこだわるカカシはどうにも寒くてたまらず、口寄せで犬を呼び出し暖をとった。いらないことにチャクラを使うなと文句をいわれたが、三大欲求はおろそかにしてはならないのである。そのうえ呼び出してやった二匹の犬もやわらかい寝床に文句もいわず、鼾をかいていたのだから文句を言われる筋合いはない。

飲み干して冷え切ったカップを流しにつっこむとカカシは伸びをして机の前に戻った。机と壁、窓の間を覗き込んだら案の定、書類が落ちていた。机をずらしてとりだし、埃を軽くはたいた。長期任務、まかされた中隊の報告書などだから嫌なのだ。書類に同じ書式をなんども書く作業ほど面倒くさいものはない。

鉢植えの枝にひっかかった紙をとろうとすれば、窓ガラスと机の間、鉢植えの隣におかれた一升瓶に尾花をひらききって枯れたススキがあった。

いつの、と考えておだやかな月夜を思いだした。木の葉崩し以来おきた小競り合いや残した傷を埋めるのに忙殺され、片づけることもしていなかった。

宵闇にすこし青ざめた黒睛に月を映しこんでいたのを思いだした。







かつかつ、と窓をたたく小さな音に見やれば、サッシに小さな鳥が止まっている。窓を開けると、小さな煙をあげて咒符にもどるのをつかまえ、視線を落とした。







蒸したての饅頭を紙につつんでもらって受けとり、すっかり顔見知りになってしまった店主にかるく会釈をする。立ち上るあまい湯気にすこしだけ眉をしかめた。

お茶でも如何ですか、と言われるのにいいえ、また今度、と暖簾を上げて出ていくのも毎度のことだ。ガラスを風が鳴らした。

右手には花、左手には酒と供え物、足元で枝が折れるのと霜柱が折れるかすかな音がした。里の一隅にある演習場も蕭々と吹く風に枯草をなびかせ、葉を落としきリ佇む木々のむこう常緑樹のくすんだ緑が見える。晴れとも曇りともつかない布でおおわれたような空は妙な閉塞感をもたらし、マスクにおもわず指をかけたカカシは右目をぼんやりとさまよわせた。

黒御影の碑をひととおり清め、持参した酒の栓を抜く。刻まれた名に新しいものがひとつ、ふたつ、増えていた。木の葉崩しのあと、五代目火影の帰還をうけいれ数年。ようよう火影側近と重鎮たちの間でおきる軋轢がすくなくなり、里の歯車がなめらかに動きだしている。でなければカカシが自宅待機できるはずもない。

新聞紙でつつまれた花を置きながら、上から何行目かにある名前をみつめた。

ざっと風が鳴った。

「カカシせんせー」
「よ、久しぶりだな」

ふりかえりもせずいいやるカカシの後ろに歩み寄る気配は数ヶ月ぶりだ。横並びになれば目の高さはほぼ同じ、大きくなったものだと思う。まだ体が出来上がるまえでうすいが、顎のあたりに漂う精悍さにとおい記憶と重なった。

「で、なにナルト。わざわざこんなところに呼びだして」
「ついでだからいいじゃん」

金髪を覆うように結んでいた額宛をほどき、首にひっかけるとカカシの横にしゃがみこんだナルトはぱしん、と手を合わせて慰霊碑に黙祷をした。

「そりゃね」
「あ、サクラちゃんから伝言」
「なに?」
「期限すぎてるんだから早くしてよセンセー!だって」
「はいはい」
「やる気あんのかよ。取り返しつかなくなってもしんねーぞ」
「んー?今日も書類を片づけてたよ」

めっずらしいな、と感心したようにぼやいたナルトはすこし赤くなった鼻をすすった。白い息にかすませながら碧眼をくるりと動かし、変わらない悪戯そうな笑みを浮かべた。

「ま、サクラちゃんが印鑑おしてくれると思うけど」
「あれは助かるよ」

里外で活動するのではなく、非常用の戦闘要員として内勤にあたっている春野サクラは決済に必要な判子の管理をいくつか任されている。ために正規の提出期限をすぎたもののうち、ごく親しい一部の者だけときおりお目こぼしで、印鑑をもらうことができた。

「なんのかんのいってサクラ甘いからね」
「サクラちゃんは今も昔もやさしーってばよ」
「はいはい」

面差しだけでなく声も良く似ている。目をほそめ探す懐かしい名前はすでに碑の半ばあたりだ。

(十七になりましたよ、先生)

桜色の髪の子も、きっと今はいない黒髪の子も、十七だ。
欠けたままでも夏と冬はめぐり、かわるのは人だけだ。有為転変は世の常、といえども無常というほど悟りきることもできない。紐で結ばれた二つの鈴はいまも写真立てをおいたサイドボードの抽斗の中、あの春は遠い。











第一報は任地で受けた。
第二報は里の便りをのせた忍犬から。
第三報は生徒の泣き顔で。

木の葉の優秀血統、最後の生き残りが里を抜けたのは満月の夜、里の境界を巡る哨戒にひっかかった侵入者を追った特別上忍のチームが負傷をおって帰還、同時に五代目じきじきの命令で奪還にうごいた中忍一人、下忍四人のチームがサスケの身柄を奪還するため動いたが、失敗に終わった。

笑っていたそうだ。
カカシが外の任務に出る際、自宅待機をすること、との連絡をしたとき七班の子供たちは普段どおりだったと忍犬は言っていた。最後に会ったとき彼はいつもどおり出迎え、すこし笑ってわかったといったのだそうだ。

そして消えた。

正直、五分五分だと思っていた。抜ける抜けないも、どっちもありうると思っていた。結局はサスケ自身の問題でしかなく、一応、説教めいたことは言い聞かせておいたけれど、説得力があるなんてこれっぽっちも思っていなかった。

信じる信じないではなく、カカシが触れられないことだった。

報せを受けとった時も、そうか、と思うだけで、個人的な感情はどこも波立たなかった。かつての自分を止める軛がなかったように、この里には少年を止められるものがなかっただけのことだ。

左眼が赤に成り代わった頃、自分は守りたいものを何ひとつ持たず自分自身ですら棄てたくてたまらなかった。

(でもお前にはナルトもいたし、サクラもいたし)

術をおしえれば朝な夕な出かけ、ずたぼろになってナルトと肩を組んで帰ってきたし、はじめて岩に風穴をあけた時には、唇のはしだけで笑ったのだ。きっとイタチが見たこともない窮屈さで、けれどちいさな健やかさで。

わたし、ありがとうなんて、言って欲しくなんかなかった、と桃色の髪の少女は泣いていた。 ごめん、失敗しちまったけど、ぜったい連れ戻すから、ときっぱり言い切って泣いた少女を慰めた少年が、誰もいなくなった病室で肩を震わせていた。

初夏とはちがう、秋めいてうすい昼下がりの光に、葉ずれの音がざわざわと鳴っていた。 幹にしばりつけられた少年が睨みつけてくるのを見おろしていた。

『復讐なんて止めろ』

仇敵の心臓を止めた瞬間に知るだろう、冥い道ゆきの果てにあるのは夜明けでも成就でもない、道なき永劫だ。ただそれだけのために牙を爪を研いだならなおさら、明けない夜に立ちすくむ。

同じ闇は深くいまだカカシの中で澱のようによどみ背後に寄りそっている。だったら、その牙と爪を大事なものを掴んだまま守るためだけにして欲しい。立ち止まった時も立ちすくんだ時もいつでも、守ってるつもりだったものが自分の足を心臓を動かした。碑に刻まれた名前が一つふえ二つふえしても記憶の中おだやかに笑うそれだけで、自分はまだ生きていられている。

(誰もお前を許しはしないだろうけど、責めもしないんだよ)

冷たい屍は何も言わない。罪も罰も死に人のものではなくすべて生き人のものだ。手向けの花も涙も置いていかれた生き人のためだけにある。似たような話はいくつも見てきた。だがどの話もまぎれもなく悲劇で痛みは少年の中でリアルだ。自分の傷が寒い雨の夜に疼くように、欠けた眼窩の虚がいつまでも埋まらないのと同じくリアルなのだ。

(運が悪いといってしまえばただそれだけの)

おしつけられたどうしようもない理不尽だ。里一番の理不尽を背負わされた少年をカカシは見おろす。

「それで、なんの用事でわざわざ呼び出したの」
「今月末、発つ」

短い言葉にカカシは目を見開いた。

「ようやく上が折れたんだ」
「綱手のばあちゃん、オレに甘いもん」

にいっと屈託なく笑う顔にカカシはまあねと相槌を打った。基本的に自来也もナルトには甘い。だが人々がナルトに優しいのはひたすらナルトが気持ちのいい強い奴だからだ。

「メンバーは」
「まだ決まってない」
「生半可な連中じゃ太刀打ちできないよ」

派遣された討手が数度、返り討ちにあってほうほうの態で帰参したのはカカシも漏れ聞いている。いつ召集がかかるかとカカシも心がまえをしていたが、存外、五代目は情に脆いらしい。

「死ぬなよ」
「死なねえって」

ナルトはくしゃりと笑い、膝を叩いて立ち上がった。

「でもオレ、あいつ連れ戻すから」

言い切ったナルトにカカシは、ま、おまえならできるだろ、と返した。いって自分でも乾いた声だと他人事のように思う。意味もない確信ならある。今は違う額宛をいただく彼を裏切り者とは呼ばずまっすぐに、つれもどすという、ナルトならきっと、とおもう。

ナルトは火のようだ。他人の背中を押し伸ばされた手を掴んでひっぱり上げ、どこまでも走っていく。いるだけで感銘をおこす人間だ。

(さむい)

じゃあとナルトは肩越しに腕を上げ、姿を消した。慰霊碑の前に立ち尽くす。遠くから投げかかる冬の光は薄氷すらとかせず、体の芯で凝った冷たさは消えない。

(さむい思いをしていやしないだろうか)
『みんな殺してやろうか』

めったに見れなかった笑顔も、呪詛めいた怒りの声も思い出せなかった。









――うちはサスケ帰還。
その報がもたらされたのはいまだ雪白のした梅の蕾もかたくなな頃だった。











「長い冬」/カカシサスケ





連作、その一。
「夕べの星、円かの月」と同じ先生。
カカシ先生のあの緊縛説教は、
経験ゆえかなと(四代目でも親友さんでも)。

BGM「ただ春を待つ」/spitz




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