犬のような目だと云う。
あんたの犬でいいと云う。
嘘だろうとかるく云う。
彼はながい恋をしている。
彼はずるい恋をしている。














猫の恋













あんまりね、特定の奴をかまうのは褒められたことじゃないんだよ、とキスをしたのと同じ唇で言った。言葉は現実に空気を震わせ、カカシの意図したとおりにサスケに届いた。

顔をはなしたサスケの黒い、すこし白目の青みがかった眸が縁日に売られるひよこめいてみごとに濡れている。だが涙ではない。勝手な期待だ。かけらなりと自分がこの子供を傷つけられるんじゃないかという浅はかな心算があった。

そうか、と静かな諦めに満ちた声に安堵が落ちた。そうだな、と言い聞かせるようにいう。聞き分けのいい子供だ。それは期待通りだとおもい、それからどうして頷くんだ、と苦々しさをかみつぶした。もちろんそんなことを喚く権利も勇気もポケットをひっくり返しても持ち合わせがなかったから、マスクの必要もない均等な笑顔が皮膚一枚にはりついた。

また来ていいか、と訊ねるのにもちろんだと頷いた。

ふ、とサスケの眦がたわみ、口角がすこし持ちあがった。眉間に皺のない見たこともない穏やかな笑顔がひらめいた。依然として目の色は同じく冴えた色だった。暗いものを呑みこんだ目だ。

「おまえが好きな時、いつでもおいで」

うつむいてサスケはまた小さく笑った。
それからカカシの部屋にサスケは来なくなった。
一度もだ。

















あまったるい猫の鳴き声でサスケは夢から醒めた。
だが見ていたことは絵空事ではなく、むかし実際あったことだ。

カーテンの隙間からもれる朝の光に瞬きをした。冬のままだった布団がおもいのほか暑かったらしい、寝汗でぬるんだシャツを脱ぎ捨てると、すこし冷えてサスケはぶるりと上体をふるわせた。いろいろ気持ち悪いが時間がない。顔を洗い濡れたタオルで体をふいてから、卸したてのハイネックのアンダーとすっかり色の馴染んだ緑のベストに手を伸ばした。

テーブルにゆうべ清書しおえたままだった書類を番号順にまとめて封筒にいれる。薬缶に火をかけるついで封蝋をあぶってとじると内ポケットに滑りこませた。

簡単な朝食をとり、たまったゴミを捨てる。つがいの時期なのだろう、鴉がうるさい。巣を守るために気が立っていて、ゴミ捨てするのも襲われないかとひやひやする。朝霧はまだはれない。花散らしの雨にすっかりしろっぽくなった桜が川べりをおおっている。用水路の碧色を埋め尽くす淡いろの花びらを横目にサスケは慣れた道を行く。

受付に書類を提出したあと、控え室に向かった。見慣れた猫背の背中が横切る。 返しそびれた巻物はきっといまも本棚のどこかだ。呼びかけた。

「カカシ」
「よ」
「あんたか。めずらしく早いな」
「ははは」

男の左目のように目に見える傷はどこにもついてない、だから痛みなんてちっともない。







ああ、あれが、と言うのにカカシはゆるりと頭を巡らせた。同僚の視線の先、控え室の手前の廊下で誰かと話している横顔があった。数ヶ月前まではいかにも着られている感じだったベストがちゃんと馴染んでいる。

「カカシさんの教え子ですっけね」

自来也さまの秘蔵っ子と二人して、とうわさするのにまあねと頷いた。視界に入るのがいやで背をかがめて横をとおりすぎたのに、あちらからカカシ、と呼びかけてきた。

「よ」
「あんたか」

めずらしくはやいな、といったのに笑った。煙草の煙が充満して、控え室の明りがほんのすこしかすんでいる。軽くむせるのが聞こえて、カカシはレバーに手を伸ばした。

「なんだそれ」
「火災用の開閉器」

ホントは非常用なんだけどね、といってレバーをぐるぐる回すと、滑車を通してワイヤーが窓をひっぱり外の空気のにおいが入ってくる。だんだんと重くなってくるが、すこし風が通ればいいだけの話だ。いい時分でカカシは手を離し灰皿に主もなく残って煙をあげていた煙草をつまんで消した。

「サスケ、吸うの?」
「いや」
「だろうね」

だったらなんで訊くんだよ、といわんばかりの目に笑う。口数のすくなさに反比例してサスケの眼差しはほんとうに饒舌だ。

「あんたは?」
「禁煙中」

かれこれ六年前、おまえらが十二の時からだよなんてことは教えない。カカシの饒舌は泡のように意味がない。サスケと正反対だ。

しばらくして鳴った呼び出しのアナウンスにサスケが立ち上がる。じゃあな、と行ってきえた背中をぼんやり目で追った。じっと当てられる意外そうな眼差しにカカシはなんなのよ、と尋ねる。面白そうに同僚は呟いた。

「ずいぶん、過保護なんですね。知らなかったなァ」
「そう?」

自覚なんてなかったし、他人に指摘されたくも知りたくもなかった。

(考えたくもないのに)











卸したての衣装と装備をひとつひとつ確かめる。クナイにさらしを巻きながら、サスケは光をあてて目を眇めるとぬらりと光る。ひたり、と裏返しても薄刃は青光りして曇りもない。

しめらせた研ぎ石をしまい、サスケは打ち直しに出すつもりの刀剣類を鞘に納める。鞘のない刃物はろくなことにならないと教えられた気がする。

どんどん、とドアを叩く乱暴な音に腰をあげてドアを開ける。夕暮れの影が玄関から廊下まで伸び、男の影からサスケは視線を上げた。

「あんたか」

数年ぶりにサスケの部屋を訪れた男の右目がサスケの背後、かけられた暗色の装束をみやって錆びつく。

「暗部に配属希望、出したんだって?」

聞いたのか、と思ったより平静な声が出た。この男を思うことが日常のようにサスケの心臓の横にあったからかもしれない。

「今日了承がでた。辞令まちだ」
「やめておけ」

サスケは数年ぶりに間近にみるカカシを見あげた。ぜんぜん変わってない。猫背も眠そうな目も、嘘みたいにいつも凪いだ声もなにひとつ変わっていない。

カカシはいつでも正しい。けっこう教師には向いてるんじゃないかと思う。 サクラが落ちこんでればやさしいし、ナルトが暴走しそうになれば先回りするし、オレが質問をすればいちいち丁寧に答える。三人のバランスが崩れそうになったら手をだしてもう一度つなぎなおし、頭を叩く。路の先は教えなくても、路が見えるようになってる、そんな教え方ばかりだ。

でも一つだけまちがった。

情なのか憐れみなのかは知らない、たとえオレが重くても突き放しきれなかったことだ。

『特定のね、奴をあまり構うのはほめられたことじゃないんだよ』

だったらまた来ていいかなんて尋ねた俺にいつでも来ていいなんて一瞬でも甘い顔をしたら駄目だったのだ。魂にきちんととどめをさしてやらなければ駄目なのだ。殺してやらなければ何をしても駄目なのだ。

自惚れではなく、可愛がられているのだろうし甘やかされているのだろうと思う。嫌われているとは思わない。ただ自分の心の重みとつりあわないだけだ。

耐えがたいほどに痛いだけであって、だが言っても詮無いことだ。溺れるものは藁をも掴むのだ。いくつもの死地をぬけて知らないカカシではなかっただろうに、そのただ一度をまちがった。

それからカカシはずっとサスケの思いに目隠しをしている。
答えは言葉にされないからこそわかった。

(しょうがないって、わかってる)
(わかってるけど、あんたはやめろともいわなかったから)

傷ついたサスケはいつもちいさく笑うのだ。

(鞘なしの刃物はろくなことにならない?)
「オレはもうあんたの教え子じゃない」



ろくなことにならない?
まったくその通りだ。











知らせを聞いた瞬間、ふざけるなと思って駆け出し気が付けばドアを叩いていた。 顎も頬もすこしそげ出していたし、視線をさげる必要もないほど身長も伸びていたが、体もまだ出来上がってなかった。

もうあんたの教え子じゃない、と突き放されて、あの時サスケはこんな気分だったのだろうかと思った。だがぜんぶ過去だ。

そりゃそうだ、とカカシは頷く。

「でも、いちおう先輩として忠告するよ。お前は向いてない」
「上層部はそうは思わなかった」
「暗部になんかいってどうする?」

火影がじきじきに指揮をとるって意味がわかっているか、とカカシは重ねる。

「今日隣でわらってた同僚を、何の疑問もなく明日殺せってことだぞ。葬式で泣く連中の横で、俺がそいつを殺したんだってずっと思う、そんなところだぞ」
「それをオレに言うのか」
「イタチを殺す練習のつもりか?だったらなおさら止めとけ。それは侮辱だ」

十二のサスケは簡単に挑発にのった。だがもう時は流れている。サスケのととのった顔は凪いだままで微塵も動かない。眼差しも揺れない。

「それでもオレは行く」
「ナルトも見殺しにできなかったくせに?」
「ひどいこと言うな」
「事実だろ」
「そうだな」
「サクラやナルトには言ったのか」
「……」

カカシがため息をついた。

「後ろめたいぐらいなら、行くな。そんな甘いところじゃない」

命令形が、なによりため息が呆れた響きがサスケの反発を誘った。

「あんた、オレがなにひとつ考えてないとでも思ってんじゃないのか」
「なにそれ。反抗期?」

面倒くさそうに三文字の中に押しこめられ、サスケは呆れた。

「……なに言い出すんだ、あんた」
「俺の説教なんてきく気がない?そんなつまんない理由ならなおさらやめとけ」

それがつまらない、と一蹴されたからなのか、サスケの意見なんてどうでもいいというような口ぶりだったからか。かっと頭に血が上って、握った拳が血の色を失うのがわかった。なろうことならこいつをぶん殴ってやりたい。でも殴ったぐらいでは通じないし、この男を殴れる自信なんてない。サスケは堪える。

「……オレの話をきけよ」
「お前は暗部を知らないだろ。でも暗部にいったろくでもない奴のことはしってるだろ」

詰まったサスケにカカシは駄目押しのようにやめとけ、と言った。忠告でもなんでもない、傲慢な命令そのものだった。

「……あんただって、矛盾してるじゃねえか」
「どういうこと」
「オレは確かに暗部なんていったことがない、だからそこには反論できない。でもそんなに言うんなら、暗部なんてもの自体やめろって消しちまえって上層部に噛み付けばいいだろ。けっきょく必要悪だって認めてるくせに自分の身の回りだけは片付いてねえと、思い通りじゃねえとあんたは厭なんだ」
「……言うね」
「事実だろ」

ひたと見据えたままでサスケは口を開く。まるで、とあえぐ様にサスケは言葉を継ごうとし、一瞬ためらう。

「まるで、オレのためみたいなこといって」

あんたはずるい、とむしょうに泣きたくなってサスケはしゃがみこんだ。期待したがるこの恋が厭だ。いつまでも十二のガキじゃない。

「オレだって考えてる。……それは、それはオレがあんたが好きなこととはまったく別のことだろ」

うぬぼれんな、と吐き捨てた。こんなみじめな告白があるだろうか。まったく、子供じみていていやになった。きっと呆れたにちがいない。

髪の毛をカカシの手が撫でた。甘やかされるのが厭で振り払おうとすると手をつかまれた。意外と、単純だったんだ、とカカシは独りごちた。

「ごめん、サスケ。ひどいこと言った」
「……」そうだ、最低だ。
「ちょっと、じゃないね。ごまかしてた。ちゃんと言うよ」
「……うるせえよ」
「行かないでよ。俺は、お前にあんなところ行かないで欲しいって思ってるよ」
「できない」

知ってる、とカカシは呟く。かつて身を置いた場所だ、下知があれば何時いかなるときも里のために刃をぬきはらう生業だ。

「じゃあ帰ってきなよ、ちゃんと。それぐらい、できるだろ」
「…あたりまえだ。なめんな」

はは、とカカシは笑ったようだった。沈黙のあいだ、カカシの頭を撫でる手は止まらない。しばらくしてぽつんと床に声が落ちた。

「ねえ、ほんとにいいの?」
「……なにがだよ」
「俺で」

声が震えそうになった。

「……うるせえよ、オレの勝手だ」

文句いうな。またカカシが笑う声が間近に振ってきた。手が震えてる、とカカシが右目で笑った。いつだってみっともないのはサスケだ。こんなときもマスクを外さないのがむかつく。

あんただろ、とにらみつけて手を伸ばせば、拍子抜けするほどあっさりと許される。マスクをずり下ろした左手の薬指、心臓に一番ちかいところを甘噛みされて震えた。手のひらから伝わる熱が泣きたくなるほどたまらない。思わず呟けば、笑ったカカシが前髪を引っ張る。

「もっとちゃんと言って」
「……クソ」

引き寄せる腕のままカカシが顔をよせてやれば、噛みつくような勢いのくせに、柔らかな感触。せかすように口をたどる舌に唇をあければ、物欲しげ慣れたように入ってくる。あの犬のように押しつけるだけで、戸惑いもいとおしかったぎこちないキスはもう二度とできない。

(ほんとにろくなこと教えてないね)

背中あわせに後悔はいつだってある。きっと肌もキスも声も色あせても焼きついて忘れられないのが辛くていつか泣く。だがそれは今日ではない。言葉でしか伝わらないし言葉でも伝わらない、祈りのような切実さで溢れるこれはなんだ。皮膚いちまいがもどかしくてたまらない。

「オレも言うから、言って」

ずるい、とサスケが詰る。ずるいことをしてもいいと思ったいつかの自分にカカシはいま後悔している。なんであの時、突き放したりしたのかがわかるような気がする。

きっと一生だ。おまえなんか。

「……あんたなんか、好きになるんじゃなかった」

うそさむいほど甘い声で云う。
でも後悔も傷もひとつもない人生なんてそれこそつまらない。











少年はながい恋をしている。
男はずるい恋をしている。
今夜もどこかで恋する猫が鳴いている。












「猫の恋」/カカシサスケ





春の季語です「猫の恋」。
stand by meの二人。

BGM「正しい街」/椎名林檎



え?エロよこせ?








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