雲ひとつない天の青、海の碧が一色にとけあうあたりを眺めていた男は海から吹いてくる風に右眼を細めた。すこしくたびれたシャツの胸元からタバコを取り出したところで袖をひかれて視線を落とす。十二になるかならずか、近所の漁師の子供だろう、よく日焼けした皮膚に目に痛いほど真っ白なシャツをきた少女が取り出したタバコと自分の持っている袋を指差す。 「キフ、シガー」 キフ、シガー、と繰り返すのに男はわらってタバコの箱をさしだした小さい手に乗せると、ぱっと白い歯を咲かせるよう笑い、袋の中からひとつかみ紙巻きになったタバコのようなものを落としていく。 そうっと箱に手を伸ばした少女がタバコを一本掴むのに男が笑うと、おそるおそるというようにもう一つタバコを手の中にとっていく。 バイバイと手を振ると、少女はまろぶようにして離れていき、ひさしの破れた屋台にいる母親らしき女性の赤縞のスカートにしがみつく。軽く頭をさげるのに男も頭をさげた。 北アフリカ、モロッコはヨーロッパとの海からの入り口、タンジェだ。なにひとつ遮られることない陽光が赤土の壁でできた町をしらじらとやけさせ、夏ともなれば昼間は摂氏五十度をこえることもあるためにしんと静まりかえっている。海沿いの狭隘な場所を埋めるように建物がひしめきあう旧市街の坂道をゆっくりと下れば港にでる。 係留され波にしたがってちいさく揺れるボートに光の輪がいりみだれて揺れた。 低くうなるようなエンジン音が近づくのに埠頭から見やればちいさな船がおだやかに凪いだ翠藍の海に水脈をひきながらこちらに向かっていた。 「カカシ」 男はゆっくりと腕を上げた。 エンジンをきった船をかるく繋いでから海で漁をするときにつかうだろうビニールシートで簡単な日よけをつくった。わずかな日影の下で小鍋を火にかけコーヒーの粉を入れてわかす。ブリキのカップに鍋からそそがれたコーヒーをうけとるが粉がしたに沈むまでは飲めない。そのころには冷めてのみよい温度になっているのだ。 携帯用のコンロの火を消した男は船端にのんびりとこしかけたカカシをじろりと睨んだ。 「大麻ハシシはご法度だっていってただろ」 「べつに俺は吸いませんし」 「タバコをやるのはいいが、ハシシをうけとるのは感心せんぞ」 「はいはい。そんで?」 少女からうけとった紙巻に海水をかけるのをみながら顔中どころか体中をおびただしい傷痕でおおわれた男にカカシは尋ねる。 「俺はなにもモロッコくんだりまでおつかいにきたんじゃないんですよ、イビキさん」 「コハルばあさんの使いか」 「まあそんなところですが」 「絨毯なら市場スークに行けばいい」 「ああ、たしかにいい絨毯がありますよね。年寄りが人使いの荒いのはいまにはじまったことじゃないです。ただ先日、気になることを聞きましてね」 ばさりと取り出したのは幾葉の写真だ。じろりと一瞥したあとは変わらず網のほころびを細い鉤針でひとつひとつなおしながらイビキはつぶやく。 「マジュヌーンか」 「迷信ぶかいとは思ってたけどさ」 魔物はないでしょうよ、と笑ったカカシはたちあがると裾についた埃を軽く払い、写真をとりあげた。すこしくたびれた写真は小さいものをむりやり拡大したのだろう、すこしぼやけてはいるが癖のつよい黒髪とすずしげな目元が印象的な少年がうつっていた。 「あれは血を呼ぶ」 「ご忠告、どうも」 はずれかあとため息をついた背中に、声がかかる。 「香港だ」 カカシは左手をひらりとふっただけだった。 ルビーにくちづけ 恋人は危険な暗殺者2 グラッグストーンをしてかくまでに不正な理由とかくまでに永続なる不名誉な戦争を知らないと言わしめたアヘン戦争のち、香港島をはじめ九龍半島の市街地、新界地をふくめた永久租借地British coloby of Hong kongから中華人民共和国香港特別行政区と名をかえたのは1997年のことだ。 数年前まで海上をうめつくした香港仔アバディーンのジャンク、夜ともなれば宝石をぶちまけたようにきらめくネオンの繁華街・尖沙咀チムサーチョイ、アジア屈指の経済都市の心臓、香港島の中環セントラル、東アジアとヨーロッパとがせめぎあいながら入りまじり天へ天へとそびえたつ摩天楼群は不夜城市の名にたがわない。 週に一度のやすみにひしめきあい、おもうまま母国語ではなす阿媽メイドたちの間をすりぬけた少年は落としかけた包みを持ち直し、はしった。車両と原付でひしめく渋滞にのみこまれかけながら二階建ての市電トラムが立ち往生しているのを幸いにはしりよりドアのタラップに足をひっかけて乗り込む。窓から手足がはみでるほどの混雑と熱気とガタゴトと落ち着かない揺れ、それにくわわった余計な荷物に先客がにらみつけてくる。だが目深にかぶった帽子の鍔の下から一瞥をなげ少年はおざなりにsorryと返すだけだった。 九龍半島がわ、旺角モンコック。やけつくような亜熱帯の青空のした影さえぬりつぶそうとする白い光が街を焼く。ビルの壁をうめつくす極彩色の看板と足早にいきすぎる人々の間をすりぬけ、裏路地にはいれば暗がりになれず目の前に赤い光がおよいだ。麻地の袖で額にうかんだ汗をぬぐい、首元の紐子をゆるめる。風がふいても湿気を含んでとても涼しいとはいえないが、まだましだった。 くずれかけのビルからトタン屋根、窓から窓に洗濯物がはためいている下を足早にとおりすぎた少年は、日に焼けた看板と空の鳥篭をぶらさげる茶館の窓を叩くや中にすべりこんだ。 卓子テーブルと卓子をへだてる漆のはげかけた衝立に少年の影がうつると、奥で紙に書き物をしていたらしい男が顔をあげる。 「お帰り」 「……これ」 「ああ、ありがとう」 紙包みと差し出された紙幣と小銭をうけとり、顔に一文字の傷がある男はくしゃりと笑う。手の中をのぞきこんですこし目を瞬いた。 「こんなにおつりくれたのか?すごいなあ」 「……」 「結構いいお茶だからかかると思ったんだけどなあ」 いままでアンタどれだけぼったくられてたんだよ、とはどうもいえなくて少年は口を噤む。 「サスケが来てくれてから助かるよ」 「…」 ちょっと驚いたように目をみひらいた少年は別に、と口の中でつぶやくと帽子を卓子に放り投げ、厨房の奥へとむかっていく。イルカはそれを見送って首をかしげて楽しそうに笑った。 「先生ー!芋の皮剥きおわったってばよ!」 サスケ、てめえどこいってやがった!と盥いっぱいの芋をかかえた金髪の少年が眉を怒らせる。かけた茶碗で水をのんでいた少年は眉をしかめて黙っている。 「油麻地ヤウマティににくわしいっていうからお使い行ってもらってたんだよ、ナルト。つぎはモヤシ頼んだ」 「…髭根とるやつ?」 「ああ」 「げー」 「夕飯なんだから我慢しろ」 サスケなんかもうはじめてるぞ、とイルカにいわれてナルトが後ろを振り向けば、水道のホースをつっこんだバケツそば、戸口の段差にこしかけた少年はモヤシに手をのばしていた。 ナルトはしぶしぶ厨房の流しに芋をいれた盥をのせると、サスケの隣にしゃがみこむ。モヤシの髭根をブチブチとむしりながら、黒髪の新入りを盗み見た。 夏至ちかいつよい日差しが窓ガラスとバケツの水に反射してゆれながら路地に落ちていた。モンゴリアンのおおい香港で珍しくもないのに、一月前ふらりと現われた少年はみごとなまでに闇色をした黒髪と黒瞳をしている。うすく汗をうかべた頬におちる睫のこい影やとおった鼻筋、切れ長のすずしい目元をじっと見ていると、猫のような眼差しがあがる。 「なんだ」 「……」 唇をゆがめてナルトはそっぽをむく。翡翠市のあるあたりからわざわざイルカの授業をうけるためにかよってくる、いのやサクラが最近サスケのことできゃあきゃあ騒いでいるのがむかつくのだ。 無口でむっつりしててどこがいいのかちっとも判らない。キバもナルトもシカマルもサスケがむかつくというよりむしろ、うるさい女たちがいやなのかもしれなかったが、女の子にむかってうるさいとかいう蛮勇は持ち合わせていない。自然サスケに鬱憤がむかってしまうのはしょうがなかった。しかもイルカの手伝いなんかを率先してやられてしまうと、身の置き所がないではないか。 (しかもしゃべんねえし) こいつがしゃべったのってさっきの三文字だけじゃねえかとナルトはぶちぶちモヤシの髭根をむしった。 「おまえさ、ここらへん詳しいんか?」 「五年ぐらい前だけどな、兄貴と住んでたから」 「へえ…引っ越してきたのおれら最近だからわかんねえや」 「へえ」 「…兄ちゃん、どうしてんの?」 「仕事で出てる」 いまイルカがすんでいるのはこの菜館の裏手にあるアパートだ。サスケはそこは兄が借りているところだということで来たのだがイルカとナルトが住みついていたというわけだった。大家に問い合わせをしてみても、大家も数年前と変わってしまっていて、書類もなに探しようがなかったらしい。かといってサスケを放り出すわけにも行かず、共同生活を営んでいるというわけだった。 ガンガンっと店の入りぐちのドアが外からはげしく叩かれ窓がゆれる。イルカは首をかしげると、ナルトとサスケに奥に行くよう手振りで促し、立ち上がるとドアのそばにはりついた。 「なんでしょう?」 「海野さん、オレです。ちょっとまずいことになりまして」 入れてくれませんか、と走ってきたらしくすこし乱れた男の声がきこえた。イルカはわかりました、と頷くとドアの鍵をあけて中に入るよう促す。左足をすこし引きずるように歩いた男は中にはいるやずるずるとしゃがみこむ。気遣わしげにナルトとサスケが顔をだすと、イルカはお茶をもってきてくれるか、と頼む。ナルトが薬缶でお湯をわかしている傍らで、踏み台をだしたサスケは厨房の端にある棚から救急箱をとりだした。 「なにがあったんです」 「いえ、カカシさんがですね」 がたり、と鳴った音に床にしゃがみこんでいた男とイルカが厨房をふりむく。入り口に立ち尽くす少年を認めた男は口にくわえていた千本をとりおとし、かすれた声でつぶやいた。 「おまえ、なんで此処に…」 |
「ルビーにくちづけ」/カカシサスケ |
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