さて、数時間前の話である。

摩天楼群にかこまれた啓徳空港になりかわり香港のあらたな空への搭乗口となったのが、チェクラップコック島にある香港国際空港である。空港におりたったカカシはすぐさまランタオ島へとわたったのであった。

『なんで香港なんだい!』

サボってんじゃないだろね!と電波を経由しても迫力はそのままの叱責にカカシは携帯を耳から遠ざけた。

ランタオ島は香港島の二倍の面積をもちながら人口はつつましいものだ。ランタオ山をはじめ蓮花山といった滴る緑ゆたかな自然にかこまれ、壮麗なポーリン寺院といった史跡も多く残っている。香港で一番海岸線の長い長沙(チョンシャ)や近くの塘福(トンフッ)といった海水浴場へと気の早い観光客はむかいだす時間だ。北西には大澳へとむかうバスに並ぶ人ごみのなかたちどまってしまったため、乗り込もうと急ぐ人がぶつかり白い目をむけてくる。ちいさく頭をさげたカカシはため息をついた。

「あーすみません。電波が悪いみたいです」

また大声をだされてはたまらないとカカシは耳から数センチ携帯をはなして通話をつづけた。

「タンジェで拠点はみつけましたよ。鑑がないので裏をとるのはイビキ室長にまかせました」
『具体的な収穫は?』
「ツァイの写真らしいです。データは報告書に添付してくれますんで。」
『らしいですとはなんだい』
「俺もみてないんですよ、しょうがないでしょ」

朝の深い青空すら巷塵にかすみ、海の色もこころなしかくすんで見える。風こそ涼しく吹いてはいたが、かつてのクルージングとは比べ物にもならなかった。濃粧の娼婦のようにふしだらな不夜城市香港が輝くのは夜の闇がおおいかくしてこそだ。とおくそびえたつ摩天楼も灰色がかりまるではるか太古のわすれさられた碑のようにもみえた。

『なんだか随分、この仕事には熱心だね』
「俺はいつでも真面目なつもりですよ」
『まあいい、なにかひっぱっておいで』
「了解です」

じゃあ、と短くあいさつをして通話をたちきったカカシは朝の海に目をすがめた。

(ちがう、おまえがいないんだ)

朝の光、純白の羽につつまれ抱きしめなければ天上に還ってしまうのではないかと思ったのはけして錯覚ではなかった。12時にはとけてしまう魔法のように、儚い面影だけをのこし青空に吸いこまれていった。腕の中胸のなかまるで火花のようにはかなく踊った一夜かぎりの恋人。


















恋人は危険な暗殺者2











香港でも比較的標高のある土地がつづくランタオ島の山沿いの道はバス一本が通るのがようようといった態で、バスの天井にぶつかるのではないかとひやひやする電飾看板はここにはない。まるく青空が広がるさまは言われなければ同じ香港とはついぞ気がつかないことだろう。

バスからゆっくりと降り立つと漁村独特の朝のざわめきと鳥の声、魚と潮のにおいが入りまじった風がカカシの髪をなでる。ちいさく携帯端末が着信をしらせるのにカカシはディスプレイに目をおとす。非通知にようやくあたりが来たか、と通話ボタンを押した。

今はどこだ、と名乗りもせず尋ねてくる相手にむかい、大澳のバス停だと広東語で答える。アーケードというのも躊躇われるが海鮮レストランや干物店がたちならんでいる。顔の横にぶらさがった魚にぎょっとしてたちどまると、笑い声がきこえた。商店の軒先で麻雀牌をかきまわしていた老人がおかしそうにこちらを見ている。

やがて路地にはいると運河が見えた。

いまやランタオ島の九龍半島にむかうあたりは空港建設にともない高層ホテルがたちならび、一大テーマパーク建設にと沸き返っているが、大澳はかつての漁村をしのばせる古びた町だ。河口ちかい運河沿いには幾重にもはりめぐらされた柱の上、水上住宅がつらなり、そのちかくにはふるびたボートが係留されていた。太鼓の音にあわせてときおり聞こえる声は龍舟節のための練習なのだろう。

そのうちのひとつ、運河へとおりる階段にたたずみ携帯を耳にあてた男とカカシの目が合う。

『晩霞の行方が知りたいといったな』
「まあね」
『いくらだす?』
「五」

片手をあげて指を広げる。

『十だ』
「情報だけでちょっとぼったくりすぎじゃないの」
『信用しないならそれまでだ。ここにいちおう土産がある。交渉する気になったら今度の電話もとれ。13時だ』

ぶつっと通話はうちきられ、男はゆっくりとしゃがみ、階段になにかを置くとビニールシートをとったボートに乗り込み移動していってしまった。

てごわいなあ、と笑ったカカシはさてどう行こうかと首をかしげた。あまりおおきな包みではなさそうなのだから、ヘタするとだれかに蹴飛ばされて水没してしまうだろう。

急ぐでもなくのんびりとあるいていく。しめった石組みの階段、だれかが置いていったのだろうふるワイヤーロープや浮き輪の影、コンクリートの欠片をおもしにしておかれていたのは一葉の写真だ。ゆっくりと手をのばす。視線はあっていないが巧夫映画にでてくるような、洗いざらしで藍もあせた紐子つきの襟衣と、のびやかな脛をだした足、長窓とコンクリートの段差に腰をかけた少年が日影で本に目をおとしている。みまちがえるはずもない。日付をみればわずか数時間前のものだった。

ピリリっと鳴った携帯の見慣れた名前にカカシはためらうことなく携帯をとる。

「はい、こちらはたけ」
『カカシさん、俺です。いましたよ』
「俺ですじゃないでしょうが、ちゃんと名乗りなさいよ」
『うるさいですよ、年下のくせに』
「で、いたって誰が」
『うちはのガキです、どこの支部かはわかりませんが、目撃情報が』
「――――は?」

響いた掛け声と景気のいい太鼓の音、運河をすべっていく龍舟のこぎ手のオールに蛇のようにただよっていたロープが引っかかる。ぐらりとバランスをくずした舟があわてるのにカカシは視線をやる。そのためにきがつかなかった。

自分の片足をそのロープがからめとっていたのを。

ほそい舟がひっくりかえり、十数名のこぎ手がどこか陽気に声をあげながら運河になげだされる。そしてもうひとつ水柱があがった。

かくしてカカシの一張羅はゴミ箱行きとなったのだ。突然通話のとだえたカカシにゲンマが慌てたのはまた別の話である。







時計を確認して別の客の番号を押したが応答がなかったため、交渉は不成立だったと確認する。まさか携帯そのものが水没していようとはツァイが知る由もなかった。

屋台のそば、並木のまわりに無頓着にならべられた卓子の裏側をツァイはゆっくりと探る。ねぐらにしているランタオ島から九龍半島までわたった。ネイザンロードをはさみ、女人街と男人街にわかれたモンコックの喧噪だ。セロハンテープではられた小さな塊りを引きはがし手の中に納めると、割り箸をとりゆっくりと割った。途中の露店で買った昨日の新聞をひろげた影で、手の中にはいったレシートの紙に目をおとした。

携帯電話を取り出し、ゆっくりとダイヤルする。

三コールで応答した番号案内のアナウンスにしたがっていくつかボタンをプッシュすればオペレーターが短い挨拶を受話器のむこうから返してくる。レシートをみながら番号を告げればかえってくる住所を頭で覚えた。また今度の相手は随分と用心ぶかい相手だとおもいながら、酸味のつよいタレをからめた麺を平らげ、使用済みの食器をくずかごに放り込む。

指定された公衆電話にいき、ぼろぼろに破られた電話帳をおいているステンレス製の棚の裏側、ちいさな鍵が貼り付けられている。プラスチックのキーホルダーと大きく記されたナンバーにすぐコインロッカーの鍵だと気がついた。どこの、とよく見ればちいさくビルの名前がはいっているのにツァイはあるきだした。

この客が提示してきた前金はなかなかによかった。チャールズ・イェンが不幸にも船上でなくなってからツァイが主に顧客にしていたあたりは同様したが、ブラックマーケットそのものは変わらない。昔も今も情報と金と人とがうごくだけだ。金とある程度の安全が保障されていれば誰が客だろうともかわりはしないのだ。

しかし用心がすぎる客は信用ができない。
交渉をやめようかとも思ったが、これで最後にすればいいかと思い直した。数年前にチャールズ・イェンから華僑に紹介した日本人だかの血がまじった兄弟の『栄転』にツァイも一役かった。だがチャールズ・イェンの死亡にともなう黒幣の混乱をしりめにその弟が帰ってきているらしい噂はランタオ島にいるツァイのもとに密かにながれてきたのだ。

華僑はずいぶんと兄弟を気に入って社交場にもひきずりだしていたというのだから、食指が動く人間がいてもおかしくはない。いくかのアプローチにランタオ島でしばらくほとぼりを冷まそうとおもっていたツァイも動き出したのだった。

カツンとたどりついたのは随分と手入れのわるい空き店舗のあるビルだった。階段をしばらくながめ登りだしたところで、中に気配があると気がつく。自然、懐にいれた手でなじんだ銃をつかみ、気配でさぐると同時、いきなり蹴り開けられたドアにツァイは廊下の壁にたたきつけられた。

ぐらりと目眩を起こす間もなく襟元を引き上げられ、往復するように拳がはいる。苦痛に曇る目を開けてみれば宵闇よりなお昏い黒髪、極彩色のネオンの瞬くたびにひらめく、深紅の。

魔鬼モーグィという言葉があたまに浮かぶ。人の血でただれた口と目は火のように赤いのだと。

「……てめえか」

声変わりもまもないだろう、かすれかけた少年の声。口腔にあふれた血の塊りを吐き出したツァイの襟首を厭きたようにサスケはほうりだせば、前のめりにツァイはくずおれた。

「そのまま寝てろ」

ごり、と右の上腕におしあてられた硬く重い感触に膝がのせられたのだと知る。ゆっくりと右手がひきあげられて軋む。存外に軽い音とくぐもった悲鳴が響いた。

ききたくもない悲鳴をきいて駈け戻ってきたのは二人が見たのは利き腕をおられて失神するツァイとそのそばに佇む徒手の少年の姿だった。違う入り口があったとはついぞ知らなかったのだ。

ぽかんと開いた口から千本が落ちそうになったゲンマは慌てて引き締める。

「30分で終わるんでしたっけ」
「うん、そういったね」
「5分じゃないすか」
「そうだね」
「……やなガキですね」

かっこつけた44口径の安全装置をゲンマはゆっくりと戻した。

連絡をうけ、バンで迎えにきたイルカにゲンマとカカシはツァイを引き渡す。先に荷台にのりこんだゲンマが早く乗れよと振り返ったが、残る二人の影は見えなかった。

「あれ、カカシさんとサスケは?」
「……今夜は帰らないかもしれんです」











おしこめられたタクシー、抗議する間もなく反対側から乗り込んだ男は尖沙咀へという。とりだした携帯でどこかに電話をかけていた。のしかかるようにネオンをきらめかせるネイザンロードを南へと走る車の中、綺羅星のようにふりそそいでくる明りが流れていく。なぜか張りつめた横顔になにもいえないままでいると、目の前に海の向こう、香港島、セントラルの明りが夜の海がひろがった。流れていくのは天星小輪スターフェリーかランタオ島と九龍半島をつなぐチンマー大橋をわたる車の流れだろう。

やがてタクシーは夜へとそびえたつ九龍半島酒家へ吸いこまれていった。

コンシェルジェの前でこそ騒ぎはしなかったが、ひとたびドアが閉ざされてしまえば終わりだ。ドアが閉じる音がひびくまえにサスケは部屋のおくへと逃げ込む。

「……なに、考えてる」
「ここまできてそれはないでしょう」

ゆっくりと窓際においつめられる。冷えたガラスが背中へと押し当たった。闇の中でこそ美しい香港の夜景を背におってみつめてくるサスケにカカシは目を細める。まだ未完成な面輪、蝶のような睫にふちどられた黒曜石の、気高くもあどけないなやましい瞳、女神の指からすべりおちた花びらのように可憐な唇。幾度夢にえがいたかもわからない。

「ずっと、会いたかったよ」

おまえは、と問われてサスケは首をふる。顔の横にのばされた手のぬくもりを嫌がるように顔をそむければ、ゆっくりと首筋にキスがおとされ震えた。

「…オレは」

会いたくなんてなかった、と呟く声は熱いキスに飲み込まれた。










「ルビーにくちづけ」/カカシサスケ







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