呼びかけに右目だけを動かすと、いかにも急いた様子の中忍が立っていた。いつも温厚で人好きのする笑顔での応対が売りなだけに、困り果てた顔にカカシは首を傾げ、廊下に足を下ろす。 「はい、なんでしょう?」 「ですから、ちょっと内密のお話が」 「ここでは不都合ですか」 「いえ、そんなに長くはひきとめませんので」 「じゃあ、どうぞ」 声をひそめたイルカの話に耳を傾けることしばし、眠そうな目を見開き、斜め上を見、それから足元を見、目の前の真率そのものといったイルカに再び視線を戻す。 「カカシ先生もご存知ないですか」 「……いえ初耳ですが、確かですか」 「いえ、ですが、このところ帰りが遅いようで、何度かその、帰宅ついで下宿のほうによって見たんですが」 このところ明りがついていないんです、けっこうな夜遅くに訪ねても留守でとイルカは言った。 「演習場にしても鍵の貸し出し記録も残ってますから、修行だったらわかるんです」 「杞憂じゃないですか」 「なら良いんですが」 しどろもどろとしているのが哀れなのと、とっとと家に帰って休まりたいのとでカカシはため息をついた。報告書を提出したら久しぶりの夜歩きでもしようと目論んでいたのだ。このところ忙しいせいで身辺はきれいさっぱり片付いて、情けない話ではあるが一人前の男として寂しいことこの上ないのである。 「わかりました、それとなく様子を見てみます」 本当ですか、と尋ねるイルカに頷くといかにも安堵したように長い息を吐くのに、ふと笑みを誘われる。帰宅ついでと言っていたが、アカデミーからすれば反対方向にある下宿なことを知っている。あえて言おうとは思わないが。 「心配性ですね」 「いや、おせっかいかなと思うんですが、性分なんでしょうね。どうしても気になってしまうというか。落ち着かなくて」 先日言われたばかりなのに、お恥ずかしい、とイルカは真一文字の傷痕を撫でる。が、すぐにきりりと顔を引き締めると、さっと頭を下げた。 「よろしくお願いします」 「はいはい」 ありがとうございます、と遠ざかる忍服を見送ってカカシは額宛の結び目辺りを掻いてやれやれと溜め息をついて、膝を窓の桟に乗せる。 (…っていうか、なんなのよソレ) とんと窓の桟を蹴ったカカシは、枝から枝へ駆けながら眉を顰めたのだった。夕映えの西空には天道をたどった弓張り月がひっかかり、まるで爪痕のようだった。 明烏 「恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす」 ツントテ、と口拍子をとりながらの千鳥足、ほろ酔い気分の夜歩きはまた格別、一歩おはぐろ溝を出て喧騒も遠い町外となれば軒行燈もまばらに、十三夜の淡い月明かりのみを頼りにする。 古今風雅といえば月に群雲、花に風、花は盛りを終えたといえど宵風にただよう葉桜の薫りもなかなか、雪洞ににた白に紅、紗うすぎぬかさねた八重桜も散るには早い。ぬらりと鯉の影黒い掘割のそばにはゆうらりと青柳が糸を垂れ、客待ちの猪牙ちょき舟がギイギイと鳴っている。乗り込んで船頭に行き先をいえば舫い綱がほどかれて、墨でも流したような水路を船が上りだす。 夜というには早い時分、さては目当てにふられたかと問う船頭に曖昧に笑い、戯れ唄をてきとうな節で謡いながす。 「末はたもとを絞るとしらで 濡れてみたさの 春の雨……ってアレ」 流れに沿って下り、水路が葦深い中州のある川に出ようというあたり、川上から川下へ川岸を歩く人影にカカシは目を瞬いた。いつも背に背負った家紋もなく見慣れぬ和装、風呂敷包みを抱えていくさまは良家の子息の手習いにしか見えないが、いくらなんでもすでに月も高い時分とあればそんなはずもなく、向かう先は明らかだ。 頭をかいて思案したカカシは懐から銭をだし、船頭に放り投げる。 「戻ってくれ」 その噂を聞いたのは十日ばかり前のこと。 帰宅直前のカカシを呼び止めた中忍は掃除ロッカーの隠れているのだか隠れていないのだかよくわからない中途半端なところで、おちつかなげにしていた。なんだろうと首を傾げて見せると、意を決したように顔を上げ、上げたのだが口を意味なく開閉する。 『どうしたんです』 『その、ですね、あの、その』 『はい、どうしたんですか』 いまだ歯切れの悪いイルカに、あまり気の長くないカカシはそれでも忍耐を以って先をうながす。義務感に励まされ、今度こそイルカは直球で言い切った。実は。 『芳町でサスケを見たという人がいまして』 『……芳町といいますとつまり、あの……?』 『……その、芳町です。カカシ先生もご存知ないですか』 ご存知でたまるか、と思った。 『……いえ初耳ですが、確かですか』 迷いなく道を行く小さな背中に、随分と通いなれているのだと納得した。 いわゆる悪所だ。 古街道沿い、水路と接し交通の便もよいため発展した宿場町、当然のことながら人が流れ込めば小商いも流れ込み、また人が流れ込みと繰り返すうち、湯女ゆな、茶屋女、飯盛り女、と半ば公然と女を置くようになった。ついに悪所と言われるにあたり、風紀の乱れ甚だしきは好ましからずと大名からの横槍、応じる楼主もさるもので、場所、店、時を決め、廓外くるわそとの商いは罷りならぬと仰ればよいものをとの口上がえし、公許となった。 その色町のできたのが葦原のなか、縁かつぎと葦悪しを吉良し。 旧地図にあった遊里とにちなんで吉原と言う。 大門をくぐればずらり居並ぶ引き手茶屋、揚屋あげや、置屋おきや。旧暦の三月より植樹された桜の大樹も晦日までで片付けられて、春も終わりの風情があるが、ともる紅灯は夜もすがら消えやらず、高楼から漏れ聞こえる三線の音もうらうらと笛太鼓、幇間の立ち騒ぐ声にと夜を迎えて喧しいことこの上ない。 素見ひやかしの客がとおる籬まがきの奥ではぽってりと結った兵庫髷、ほつれた黒髪が落ちかかるうなじには抜いた緋桜の半襟が冴え、前結いの帯をぞろりと流しての傾城ずわり。畳に狼藉たる裾の縮緬ちりめん、白い面の朱唇が柔らかにほころび、燻し銀の長煙管を支えるのすら重たげな繊手がついと琉球朱の格子の隙間から延びては、行きすぐ酔漢の袖をからめるその界隈。 金子を重ねて作法をなぞる遊興もあれば、裏店の格下で裾を引き剥ぐだけでもいい。夏衣なつころもうすき情けと一夜限りの戯れ恋もよし、あるいは小指絡めて二世を契るはぬしさまひとり言ってくんなと、泣くも笑うもその胸ひとつ、赤い臥所で枕を交わし恨み深きは明け烏となるわけである。 「今朝の霜 逢うて心のくもりも晴れて ふたり眺むる蚊帳の月」 かつんと足元に落ちたのは胡蝶を象った笄、拾いあげ見上げれば、楼の二階から落ちてしまったよとわざとらしい女の声がした。 「兄さん、好い喉だこと。敵娼なじみはおらりょうか?」 届けてはくれないかと高楼から降る誘いににこりと返すカカシの如才なさも物慣れたふう、店前の男衆に押し付けて通りを行けば、遠ざかる足音をアレつれないと軽やかな恨み言だけが追いかけた。 目指す背中は大通りからあまり離れていない見世の裏手に回り、からりと開いた引き戸から明かりが漏れ、また消える。 「眞田屋、ね」 懐を確かめ金子をひのふのみ、と数えてみる。さて足りるかな、とカカシは首を傾げたのだった。まあ足りなければ忍び込めば良いだけのこと、くるりときびすを返し、仲ノ町に面した引き手茶屋の暖簾をくぐった。 あがり框に腰掛ければ、店奥の番台から心得顔の男がすいと膝をよせ、かがみこむ。 「一見なんだけどね」 「へえ、どんなお好みで」 「眞田屋にいいのがいるって話を聞いたんだけど」 「眞田屋、ですと小糸ですかね。新造でけっこうな器量をしてますが。お職になりますと、薄雲、白糸となりますが」 「さあ、そんな名だったか」 横合いから差し出された盆から茶碗をとって、一口飲む。 「懐はあったかいんでね、ぱっと太鼓持ちでも呼んでしたいと思ってるんだが」 「そりゃあまあ、お若いのに豪気なことで。では眞田屋に差配ということで、使いをやります。それじゃま、こちらで」 しばしお待ちを、と笑いながら値踏みする底冷えの目、しょうことなしに財布を投げやれば途端に心底からの笑みになる。やれやれと呆れてタバコを取り出すと、すかさず横合いから火をつけられ、ますます胃のあたりが重くなるようだった。 (芳町じゃないみたいだけどね) 芳町はいわゆる子供茶屋、陰間ばかりおく店の集まる通りだが、眞田屋なる店にしても売笑に携わるのに変わりはなく、どちらにしろ里の上層部が聞きつければ痛し痒しという話だった。 さて一方の眞田屋。 (ゆるんできやがった) 二階から一階の台所まで、五段重ねた空の膳を運びながらサスケは顔を顰める。任務のあがりが遅かったせいで、こちらに来る準備も満足にできなかった。いつも使っている腰紐がないため、兵児帯だけで間に合わせたのがいけなかったらしく、あわせたはずの丈がずるずると下がってくる。 夕刻のかきいれどき、引き手茶屋に上げられた遊女が客を迎えに行き、登楼する客も増えてきたため、一階の台所はせわしなく、棒手ふりやらほかの店やらから酒肴を取り寄せる際の、応対で忙しい。やり手婆も番頭新造も声を張り上げて采配を振るっていた。 台所の隅に膳を置いたサスケは仕方なく貝の口に結った帯を手早くほどいて、締めなおす。再び膳を抱えて立ち上がったところで、三十がらみの番頭新造から声がかかった。 「小糸の客なんだがね、鳴り物が欲しいから芸者をよこせとさ。悪いんだが全員出払っていてね、ここはいいから行っておくれ」 そういって、サスケの手から膳を取り上げて周りで立ち働く男衆に任せてしまう。 「廊下渡って、突き当りを左にいきな。夏椿の前にある部屋だよ」 「はい」 「身奇麗におしよ」 襟元を細い指で直されるのが、久しぶりでくすぐったい。すこし眉を顰めたサスケに番頭新造はからりと笑って、背中を押した。幇間、太鼓持ちはいわゆる男芸者といい、芸者と呼び習わされるものは一般に売笑にたずさわらない。色を売るのは遊女のみであり、女芸者はあくまでも芸を持って身すぎ世すぎの種にするのはこの色町の習いだった。 手に三味線を持って、廊下を渡ったサスケは中庭で白い蕾をつけた夏椿をみて、さてはあちらかと見当をつける。襖前で三味線の入った袋を床に置き、膝をついて一礼。中から入れと声が返った。 「失礼します」 すらりと襖をわずかに開けて、添えた手を襖の親骨にそって下げる。それから中ほどまで開け、両手で開けると、再び折り目正しい所作で頭を下げた。三味を抱えて膝行し、襖を作法どおりにしめると、客に向き直って再び一礼。 顔を上げて、脇息にもたれた客の顔を見たサスケは眉宇をひそめた。 |
「明烏」/カカシサスケ |
つ、続いちゃいます。
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