夕刻、米びつに手をつっこみ、枡で米を量り取ろうとしていたサスケはむうと顔をしかめた。 がばっとステンレスの流し台の下に顔を突っ込み、米びつをかたむけると底が見える。さらさらと米が米びつの片方に溜まったのを枡に一粒残らず移し、ため息をついた。炊飯ジャーの水の計量線は最低三合まで、だがどう考えても枡の中の米は三合も無い。 (……粥にでもするか) サスケは米が好きだ。顔にも口にも出ないがとても好きだ。炊飯ジャーをあけてふくふくとした白い炊き立てのご飯の匂いをかぎ、一粒一粒たっているのを見ると、それだけで一日上機嫌になる(傍目にはわからないが)。少々ふるくなって黄色くなっても気にしない。冷えていても気にしない。米はいい。とりわけ白いご飯はすばらしい、正直にそう思う。 (いや、土鍋で炊けばいいのか) はじめチョロチョロ中ぱっぱ赤子鳴いてもフタ取るな。そんな歌があったはずだ。水と米は体積が半々になればいいらしい。飯盒で米を炊いたこともある、火の強さはガスコンロだから調節できるし、立派な鍋があれば炊けないことも無い。 ただ当座の問題は。 (給料日までしばらくあるな) きょうはおいしいご飯が食べれるが、残金はどれぐらいあったか、はなはだ心配だ。アカデミー就学中は里の方から助成金が支給されていたのだが、下忍になって収入を得てからはがくんと減額されてしまった。それにだんだん、助成金申請に出す書類は煩雑になってきているし、さいきん給与明細に目を通すと助成金振り込みに遅れがあることもしばしばだ。なめやがって、とサスケは思う。 バイトは実入りがいいのがあるのだが、先だってカカシにばれてしまい、そんな所はやめろといわれた。だが、貧乏は貧乏だ。どうしろというのか。 (とりあえずメシだ) 悩んだところで金が増えるわけでもない。月末の貧乏になれきったサスケは鼻を鳴らし、とりあえずむなしい腹を満たさんがため、じゃかじゃかと米を砥ぎだした。 天紅 とうふう、とうふうとまのぬけた笛の音にカカシは布団から頭を出した。腕だけを伸ばして障子を開けやれば、どんよりと泣き出しそうな空の色、ひえた朝もやに白い橘が見えた。たっぷりと露をふくんで青々とした楓の合間にのぞき見える板塀のむこう、天秤を担いだ男がひょこひょこと歩いていった。 棒手ふりなど小商いが来てるということはすでに大門は開いている。 (やばい、また遅刻だ……) サクラに怒られるなあ、と思いながらカカシは赤い衾の中に頭を突っ込んで寝返りを打つ。だがカカシは二度寝をすべく枕をしっくりするまでああでもないこうでもないと動かし、ごそごそと布団をかき寄せた。 「先生」 すらっと開いた襖から女が顔を出した。夜の粧いがおちかけた面は白粉焼けもなく白いまま、柔らかな面輪もみずみずしい目の色、きびきびとした動きは若やいでいる。だが、いささかあせた唇の色と眉の青い剃り跡で玄人筋と知れた。 「せんせ、起きなんし」 「んー……?」 「起きなんし、もう大門は開きました。そう逗留いつづけをしてお銭あしはありんすか」 「ある……」 「まあ、呆れっした。わっちは今日髪結いにいくんでおざりいす。そう寝さっしてはかたづくものもかたづきぃせん、起きなんし」 「つれないねえ」 ようよう起き上がり軽口を叩くと、緋桜散らした襦袢だけの女は唇の端に笑みをはいて一蹴する。 「あいたたたたた」 きりきりと耳を捻られてカカシは情けない悲鳴を上げた。フン、と笑った妓は立ち上がって鬢のほつれに指をやると、水にひたした刷毛で湿らせ、手早く櫛でほつれをなおす。行李の中から生成り色をした夏物、麻紬の単をとりだして羽織り、梁にかけた衣紋かけからカカシの服を取ると、浴衣の帯を解いたカカシの後に回った。 「お膳はこちらでようござんすか。それとも茶屋」 「ああ、うん、いいや。もう行く」 「だから最初はなからお泊りなんぞ」 「判ってるくせにいわないでよ、小糸姐さん」 心配なんだよー、と笑ったカカシを小糸はしばらくじっと見つめ、それからしょうがないものでも見るような顔をした。衣服を整えたカカシは眉尻を下げ、目だけでもう一度笑った。 「見送りはどうなさんす」 「茶屋まででいいよ。昼見世もあるだろうし髪結いいくならけっこう時間とるでしょ」 「お気遣い、かたじけのうござんす」 幾日も居つづけをするような馴染みの場合、後朝の別れは吉原大門まで付き添うのが習い、茶屋で見送るられるのは初会や裏を返したばかりの新参が多い。となれば、この小糸とカカシは妙なものだった。 とんとんと階段を下りると、番台にいた番頭新造やいまから寝所にむかう女たちがふわふわと欠伸を噛み殺していた。下女がもってきてくれたサンダルをはきながらカカシは小糸に尋ねる。 「今日も」 「いえ、明日でござんす。お目付けご苦労様」 「はは、うん。じゃあ、また明日」 はたから聞けばさっぱり要領をえないのだが、鶴亀でこの二人には通じるらしかった。 「小糸、三日とあけず通われるってなァ、ずいぶん買われたもんじゃないかえ。いまに出世する」 泣き出しそうな空の色にカカシが帰って構わないというので、小糸が置屋まで帰るその路。 眞田屋から付き添いできた若衆の満足げな声に、癇症の気のある小糸はこめかみに指をやりながら、莫迦をお言いでないよと返した。視線は仲ノ町に面する茶屋の一角、緋毛氈の引かれた床机に腰掛け、談笑する男に据えられたままだ。 「ありゃあ、往生際が悪いだけさね」 茶屋男が呼んだらしく、カカシは腰を上げ肩越しに小糸をかえりみる。ひらりと手を振ったところで、ばらばらと雨が降り出した。 今日も今日とて遅刻のカカシを待つ第七班、梅雨のわりに気温は冷えず、むしむしと不快でなんとなく服の裾が湿っているような気分がする。用意よく傘をもってきたサクラと違い、傘を持たないサスケとナルトは近くの橋げたの下で雨宿りをしていた。 夕べも小遣い稼ぎに外出をしたせいで、ねむいし、腹が減った。水嵩をました川がどうどうと流れるのを、ぼんやり見ていると上からサクラの声がかかった。きりっと蛇の目傘の骨が鳴ったのをみて、サスケは呆れる。 (朝帰りかよ) 花町で小遣い稼ぎをしていたサスケを見つけた時点で、まあ通いなれているのだろうと思っていたのだが、屋号の入った傘で出勤とは畏れいる。べつにカカシがどこでなにをどうしていようとどうでもいいが、遅刻となれば話は別だった。この助平め、とサスケのカカシを見る目は白ける。 ふわあ、とカカシが欠伸をしたのに、サスケはさらに眉間の皺を深くしたのだった。 明くる日、夕映えの空に茜や金の光おどる川面をついついと舟が行く。渡し舟や木の葉はずれにある遊里・吉原まで客をはこぶ猪牙舟が舫われているのをカカシは見るともなく見ていた。今日は任務がない。 (別にそこまで俺が面倒みる筋合いはないんだよね) 三河屋の件でも分かるように自分で何とかするだけの力量はあるだろうし、カカシが小糸目当てに登楼するついで、こそこそと窺っていると知れば、ましてや心配していると知れれば、かえって怒るだろう。だからといって靴底の石のように、わずらわしいから放り出すこともできないのが現状であって、つまるところ。 (どうにも気がかりなんだよなあ) 世慣れている、ように見えるが、それは身の回りを一人で処理するのに慣れているだけだ。世間ずれしているわけではなくて、毎日顔を突き合わせていれば、しかめ面の微妙な違いだとかも見てとれるし、なにより行動自体は天邪鬼ではないから、見ていれば色いろなところが年相応だということがよくわかる。 気がかりのたび小糸への花代が嵩むのだが、懐に空っ風が吹くわけでもないし、まあ宵越しの金は持たないというのもわるくない。 (ま、乙ってことにしておこうかね) いつ組まれたのかも分からない、ふるく苔むした石組みでできた掘割の上、向かいから歩いてくる人影にカカシはのそりと立ち上がった。 「……げ」 「げってなんなのよ」 こんな時間の夜歩きは感心しないなあ、先生、とあいも変わらずとぼけた口調でいつもどおり返せば、生徒の方もいつもどおり眉間に皺をよせる。お互い休日だというのに、任務があるときと変わらない格好だ。あんたこそ、と言いかけてくしゃみをした。 「夏風邪?夏風邪はバカがひくって相場が決まってるんだけどね」 冗談か本気か、辺りが薄暗いぶんいつにもまして曖昧な問いかけのふざけきった内容に、んなわけあるか、と反駁しようとしてまたくしゃみが出た。ずるずる鼻水をすすったところで、震えが背筋からはいのぼって鳥肌が立つ。これには流石のカカシも眉をひそめた。 一挙動で土を蹴り、サスケの目の前に降り立った。船頭の驚く声を後ろに、ギョッと身を引きかけるサスケに手を伸ばす。髪の毛が湿っていることに驚いた。鳥肌だった首筋、いつもながら寒そうなシャツの裾を掴むと、体温でぬるんでいるがやはり湿っている。 「川にでも落ちたの?」 きゅうっとサスケの目が大きくなったことにカカシは思わず手をひく。まるで猫が犬にでもかち合ったような顔だ。瞳孔が大きくなっていそうだった。今度は問いかけではなく確認だった。 「落ちたの」 「……チィ」 「そうか、落ちたのか」 ふたたびのくしゃみに悪態が消える。頭をかいて思案したカカシは懐から銭をだし、船頭に放り投げる。 「吉原まで」 「また夜遊びかよ」 「かたいこと言いっこなし」 ぶしっとサスケがくしゃみをした。 「で、お前どうしたの」 いやなところを訊いてきやがる、と思ったサスケはそれでも律儀に答えたのだった。 昼間のことだ。 梅雨の晴れ間、木洩れ日は風のそよぎに水面でおどり、金色の輪がはじけては水底にたよりない影をつくる。なかば水嵩を増した流れに没し根を洗われているブナの老木には藤蔦がからみつき、もったりと終わりの白い花房を垂れていた。森はすでに影深く、下生えの草はもうすでに花を終え、わずかに残る日なたでほそぼそと茎を伸ばしていた。雨過ぎた初夏の風はしめった土と青葉の匂いがする。 苔むしたブナの老木、水面に倒れた幹に腰をかけて釣り糸を下げること朝から昼まで、そして昼から太陽が西に傾く辺りまで、近所の田んぼから失敬したタニシの餌がわるいのか場所がわるいのか、いっこうに引きがない。ちらちらおどる銀色の影を魚の背中かと思ってちょくちょく糸を動かしても見たが、あたりはやはり来ない。香魚などとわがままは言わないからせめて虹鱒。泥臭いのも我慢するから鯰ぐらい引っかかって欲しい。 あらかじめ下流に引っ掛けておいた雑魚とり網を引き上げたが、沢蟹が一匹ついてるだけで、鮒も泥鰌もいなかった。今日の夕飯はもしかしたらご飯と味噌汁と漬物だけになってしまうかもしれない。いや、たしか近所の婆さんがくれた卵がある。だがそれは明日の朝に卵焼きにするやつで、食べてしまうと朝ごはんが塩かけめしか醤油めしになってしまう。いや、みそ焼きおむすび。 五十歩百歩だ。そればかりはいくらなんでもご免だ。わびしすぎる。 蕗はもう伸びすぎでえぐみが強いし、筍も育ちすぎだ。菜の花もおひたしにするには固いだろうし、山菜の時期ももう過ぎている。夏なら百合根をほれただろうがまだ早い。茸は食えるが腹の足しにはならない。成長期なのだ、豆腐じゃないタンパク質が欲しい。そう肉。肉が食べたい。 まったく給料日前はこれだからこまるのだ。食料調達をしなければいけない。 おあつらえむきに今日は暖かい日で、午下がりの木陰は水音も清か、ときおりギャアギャアとカケスが鳴くが古森は深閑とし、水の上をわたってくる風も涼しい。つまるところ昼寝にはもってこいで、サスケは釣り糸を下げたままうとうととしていた。 そしてそのまますべった。 「……チィ」 ぎゅうぎゅうと親の敵のようにシャツをぞうきん絞りにしたサスケはどっぷりと深いため息をついた。 いくら休日とはいえ、気を緩めすぎだ。水面近くの日なたにたかったブヨがうっとうしい。濡れて額に張りつく髪をぶるぶると犬の子のように頭を振って水気を飛ばす。ハーフパンツはもちろん下着まで全部濡れてしまって、最悪だ。 どぼん、と言ったのだ。文字どおりどぼんと落ちた。けっこう深さがあったおかげで、水底の石に頭を打ち付けて木からすべって死んだ忍者などという不名誉を蒙ることはなかったが、木から落ちた忍者というのもたいそうな汚名だった。 苛立たしげに髪をつたってくる滴を拭い、足もとの流れに目を落としてサスケはしばらく黙考する。絞ったばかりのシャツとハーフパンツを見比べて考えたのち、やおらハーフパンツを脱ぐ。シャツは木の枝に引っ掛けて干し、パンツ一丁で片手にハーフパンツ、サスケはばしゃばしゃと川に踏み込んだ。 「で、魚は」 「……」 見りゃわかるだろうが、といわんばかりの据わった三白眼にカカシは笑う。釣れないから今度は網で取る、というのはわかるが、ふつうハーフパンツでやるだろうか。 「そんで釣竿は?」 「……ヌシにとられた」 「ぬし」 坊ぼん、そいつどんぐらいだった、と船頭が尋ねてよこすのに、サスケは一メートルとほんのすこし、無言のまま両手を広げて示す。俺んときにもヌシに引き込まれた奴がいたよ、そうか、生きてやがったか、と笑う。 大鯰だとか、大鰻だとか、話は人によって代わるが、川や山にヌシがいるのは珍しい話ではない。そして大概、引っ掛けはするものの代わりに釣竿を持っていかれるとか、引きずり込まれる落ちがつく。午前中唯一の当たりがヌシというのだから、幸運なのだか不運なのだか判らない。いや、不運か。 夕方までねばって何もないというのは、そうとうな確率だ。ぐ、とそのとき舟が船着き場に寄せられた。船頭が笠を心なし持ち上げて振り返る。 「へえい、お着き」 カカシが腕を掴むのにサスケは眉をしかめた。 「ほらとっとと下りた下りた」 「……おい」 「じゃ、また今度」 へらりと笑ったカカシに船頭はへえい毎度、と笑い舫い綱で船をとめた。お帰りの際にいましたらまたどうぞ、と愛想をいい船底にごろりと横になって筵をかぶる。客待ちの間寝ようと云うのだろう。 なんとなく見放された気分になってサスケがいると、ぐいっと後ろから手を引っ張られ、そのまま歩かされる。 「ま、風呂ぐらい入りな。風邪引くのもなんだし、おまえも用事あるんだろ」 「で、どうするつもりだ」 「湯屋、じゃ駄目だよなあ。泡踊りされちゃうし」 「……」本当ろくでもない。 「どうせ、おまえ行く先って眞田屋でしょ。風呂はあったっけ?」 「……姐さんたちの内風呂が」 「じゃあそれ借りればいいんじゃない?出入りにも貸してくれるでしょ」 「あんた、また来るのか」 眉間によった皺と白眼視があからさまに迷惑だと訴えるのに苦笑する。 「大丈夫だって、おまえの邪魔はしません。遊びぐらいあってもいいでしょ」 大門をくぐる男と子供を奇異なものを見る視線が追いかけた。 |
「天紅」/カカシサスケ |
尼が紅とも表記 |