うすい桜雲がひと刷き、紫紺の空のはしには夏の夕影がにじみ、湯屋の煙突や棟瓦が影絵のようだ。

大門内。

すでに夜見世が一段楽した茶屋が集まる仲ノ町とおりは小暗い闇にしずんでいる。だが、左右まるでおおいかぶさるような娼楼のしたは燦爛と吊行燈の明りがこぼれていた。町方であれば屋台や赤提灯を残して明りが落ちるころであろうに、ことこの斜巷まちにあっては話は別だ。どこかの寺の晩鐘が虫の声の遠くから響いてくる。

鳥打帽をかぶって胡弓のふわりとのびよい音を流す盲者がいれば、手ぬぐいを吉原被りにして小千谷縮もすずしげな流れ芸人もある、だがやはり大半は嫖客だ。おのぼりのようにきょろきょろとし、客引きに袖を取られて戸惑う若造から徳利片手におぼつかぬ足取りで歩く老爺、いずれも弁柄格子の奥をのぞいては女を品定めしている。

「はぐれるなよ」

前を行くカカシの振り返りもしない声にサスケは人をばかにしてるのかと思った。四つや五つの子供ではあるまいし、大して身長が高いほうではないが、ナルトよりは上背があるのだ。カカシは先日来かりっぱなしであったのか、紺の蛇の目傘を手挟んで、要領よく人を避けて歩いていく。

今日は人が多い。

人が多ければ、不埒な考えを起こす人間もいるのは当たり前だ。
カカシは頭巾をのせた老人にぶつかった小柄な男にやれやれとため息をついた。まあ巾着切りではないだけ、質がいいのかもしれない。すれ違いざま、小走りのその男と肩がぶつかり、カカシはすいません、と謝った。それから紅絹もみの頭巾をかぶった老人に声をかける。

「すみません、これ、落ちましたよ」
「ああ、申し訳ない」

カカシが財布を差し出すと老人がぺこりと頭を下げた。サスケが後ろを振り返って、いまは人ごみにまぎれてしまった小男を目で捜す。

「今の」
「うん」

カカシがうなずいて、左手の人差し指を動かして物騒だねと言う。巣に帰ろうというのか、燕が低く飛んでいるのにサスケは空を仰いだ。

(水の匂いがする)
「一雨来るね」

つぶやいたカカシが蛇の目に手を伸ばした。

ひょうと衣の裾をばたつかせ、埃やチラシを押し流すやけに冷えた風が足元を吹き抜ける。

「降ってくるよ」と叫んだ男がばたばたと軒下に駆け込むのがみえた。あおられて淡紅の小さな花を咲かす夕顔のつるをまきつけた葭簀よしずが倒れる。それにつられて客引きの女や素見ひやかしていた吉原雀きゃくどももはしり出し、あるいは懐から手ぬぐいを取り出して頬かむりをし、街中はにわかに騒然となる。

いつのまにやら消えた虫の音にかわって遠雷の重い音がひくくとどろいた。

ばたばた、と湿った滴が肩を叩いたかと思うと、見る間に篠つく雨になる。むきだしの脛をたたく土まじりの水滴とぬるく立ちのぼる土の匂いにサスケは顔をしかめ、よほど今日は水難の相でもあったのかと疑いたくなった。ふ、と雨が途切れる。傘を差しかけられてサスケは目を上げた。

喧騒の中ひとり、静謐にたたずんでいる。右目が笑みに細まった。

「行こうか」
「……」

隣に並び立たれると頭ひとつ半ちがう。猫背であってもこいつはそうとうな長身だったのだと気がついてなにやらむかついた。蛇の目にはられた油紙に雨があたるばちばちとした音がする。さなだ、と墨痕もくろぐろと屋号が透けて見えてサスケはすこし眉をくもらせた。

―――なんだか今日はおもしろくないことばかりだ。















明烏2 天紅
あまがべに
【中】













あと四町ほどまっすぐ進めば眞田屋につくあたり、茶屋の並ぶ外れでカカシは立ち止まった。

「じゃ、俺はこの辺で」

サスケが隣を仰ぎ見ると、どこか一点に目を据えていたらしいカカシは器用に右目だけを動かし、また笑った。

「わるいけど返しておいてくれる?」

蛇の目の柄を握らされ、え、と瞬きひとつの間にもういない。すでに雨脚は弱くなっていたから大して濡れないだろう。心配はしないが、それでも釈然としないものはある。

(なんだ、あいつ)

夜見世をむかえて、人でわたわたとしている裏口から眞田屋に入ると、ちょうどどたどたと小糸が慌て足に階段を下りてきた。

「尾白おしろ、尾白、ええ、あの小娘、どこにいやる……あら」

小糸は階段の中ほどで立ち止まり、サスケを見下ろした。すでに化粧も終えて、客を迎えに行くのかきらきらしい格好だ。黒々と結ったつぶし兵庫に珊瑚玉やらべっ甲やらの櫛、白い絹襦袢にかさねるのは軽やかな曙染めの翡翠色を地に菖蒲の紫が裾に散るのが蝶のよう、ほんのりと透ける色みが淡く、夏にはふさわしい。

「先生は?」
「?」
「さっき、あすこの角に此方こなさんととおりぃしたは、先生でおざんしょ」
「……」
「蛇の目の。それとも帰りなんした?」

ああ、それで、と頷きながらサスケは思う。小糸が敵娼あいかただったのだ。小糸は帯のあたりを手で押さえながら、するすると階段を下り、禿の名を呼ぶ。

「尾白、わっちの縞瑪瑙の帯玉はどこにやりいした?あれは、進さんがわっちにとくだすったもの」

それからサスケを頭からつま先までしげしげと見下ろした。ぶしつけな視線にサスケがむっとすると、聡く気づいて小糸はにこりと笑う。

「どうせ来なんす。そんな顔、やすくするもんじゃありんせん。しゃんとしなんせ」

どんな顔だ、とサスケは思って眉をしかめたが、小糸は禿をさがしにすたすたと歩いていってしまって、きけずじまいだった。わけがわからない。小糸も、カカシもだ。

番頭新造と顔をあわせるや否や、サスケはくるくると裸に剥かれてポーンと内風呂に投げ入れられた。本当は客か、すくなくとも座敷もち以上の遊女でなければならないのだが、湯屋に行く暇もないからということらしい。

眞田屋の楼主は男だが、切り盛りするのは遣り手や番頭新造といった女だ。その番頭新造の古株は、日髪日風呂のきちりとした人で、女にしろ男にしろ身だしなみがきちんとしていないのを嫌う。おしゃれじゃない、たしなみだ、たいした器量かおじゃないんだ、つつしめ、と手厳しいことを言う。

「糠袋はいるかい?姐さんたちのお余りがあるよ」

笑い含みの声にヒノキの香りいい内風呂につかっていたサスケは眉をしかめた。男が糠袋で肌をたたいてどうしろというのだ。

着替えをおいておくから、という声にサスケは礼を言った。

手早く風呂から上がったサスケは、籠にたたみ置かれた換えを見て、すこし眉をしかめた。どうやらいつもの服は洗濯に出してくれたらしい。

籠におかれているのは夏用の襦袢と、白い紬は鹿の子のと香色の角帯。少しくだけた座であれば兵児帯でも構わないのだろうが、今日の客はずいぶんと上筋らしい。白足袋まである。下着は、と目を動かしてサスケは眉をしかめ、籠の前にしゃがみこむと、それをつまみあげた。

右を見ても左を見てもブリーフもトランクスらしきものもなく、ということはこれが下着というわけなのだろう。ずるずるずる、と引っ張っても引っ張っても籠から伸びてくるのは六尺あまりのまっさらな晒し木綿。

(……ふんどしか)















さて一方、サスケと別れ茶屋どおりに舞いもどったカカシである。

眞田屋にいきなりカカシが顔を出しても困るだろうという気使いだ。
客がいきなり箱屋に来ても客商売だけに追い返すわけにも行かない、だがきちんと作法にのっとった他の客のてまえもあるし、吉原という町は仲介料と仲介料で成り立っているのだ。箱屋が茶屋や揚屋を無碍にしたら、信用がなくなるのはあたりまえだ。そして信用というのは商売上、どうしても守らなければならないものである。

(ばれちゃったしね)

遠目だから確実とはいえないが、眞田屋の二階でひらりと手を振った女、あれはどう考えても小糸だった。

(なーんか見透かされてる気がするんだよなあ)

思わず逃げてしまった。少しらしくなかったかな、と驚いていたサスケの顔を思い出してまた息を吐く。なにも後ろめたいことをしてないと思うのだが、なんだか逃げてしまった。なんというか、サスケに小糸をたびたび揚げている、というのを知られたくなかったのだと思う。

言い表すのに一番いいのは、浮気現場をとりおさえられた男のような気分だ。どっちが浮気でどっちが本気、考えていけばますます厄介になりそうで、カカシは苦りきってしまった。

(あ〜、絶対これ冷やかされるよ)

やれやれ、と頭の後ろに手をやってため息をつき、茶屋の暖簾をくぐった。

「やあ、先生、ご贔屓に。もうちょっとお早く来さっしたら、薄雲の花魁道中が見れたでしょうに」

菓子と茶をだした茶屋男は塗り盆を藍染めの前掛けをした膝の上に置いた。雨でぬれたカカシは服の水滴を払いながら、ありがとうございます、と礼を言う。茶碗に手を伸ばしながら、今日の人ごみはそのせいか、と頷きながら相槌を打つ。

「伊勢やさんを角にあります茶屋までね、迎えに行きましたのさ。赤い絽透綾ろすきあやに御所車の繍花ぬいとり、夏拵えのそりゃまあ見事なこと、ひと目拝めば寿命も延びるとそこらじゅうから女子供まで、いやもう、さすがは白糸、大黒屋の高尾とならぶ太夫ですなあ、こう、ぞっとしますわ」
「そんなに」

翡翠色とまろやかな香りをした水出しの茶を口に運びながら、それは残念、とカカシは思った。程よい冷たさの茶は渇いた喉にはうまかった。

「あれなら妖魅あやかしでもすすんで騙されたいですなあ。李夫人・西施もかくやと」

いきなりの声にカカシが振り返れば先ほどの老人がいた。紅絹の頭巾を取って会釈し、日焼けしてなめし皮のような頭をつるりと撫でた。紫の毛氈に腰掛けた背はすっくりと姿よく、海老茶の絣がとても品がよい。

「その、伊勢やさんとは?」
「ああ、船商いの大けなところですわ。先代はええと、船芳といいましたか、そこから暖簾分けしてもらって貸し船のちいさなのを扱ってたそうです。ところが当代が商才に恵まれましたか、職人に渡りをつけまして、粋人がこのむような陶器やら銀無垢の香炉やらの水運を扱うようになりましてな、得意先を増やして最近では大名の御用を申し付けになられるとか」
「へえ」
「あと五年ほどで古希でございますがね、昔からなんというかあくのない、きれいに遊ばれる方で」

たいした外見じゃあございませんのにもてることもてること、粋とはああいう御仁でしょうなあ、と老人によくありがちな、訊きもしないことを話してくれる。

「お知り合い?」
「まだ奉公の時分に出入りをさせてもらってたんで。付き合いが長いといえば、長うございますなあ。かれこれ五十年ばかり」

はあ、とカカシが曖昧にいっていると、茶屋男が魚清うおせいのご隠居です、と耳打ちして得心が行った。袖口からのぞく腕は老いに皺が多いものの、筋張っているのは労働を知っているからだ。ちらりちらりとさりげなくカカシの皿を見るのに、甘いものは苦手なもので、と差し出すと老人は嬉しそうに楊枝をのばした。

「今日はその当代の宗兵衛さんががぱっといたそうという話でお相伴にあずかる次第です」
「お一人で」
「いやなに、少々、用事がありましてな、遅れてしまったというわけでお恥ずかしい」

枝豆の緑がみずみずしいずんだ餅を口に運び、髭についた餡を指先でくるりととって舐めた。















しゅっと絹の手触りもなめらかな香色の角帯をしめれば、きりりと心なしか立居振舞もあらたまる気がして、和装は嫌いではない。遊興の場ではあるが客筋と言うものがある。見苦しい格好は褒められたものではないので、暑いとは思ったがサスケは白足袋も身につけた。

歩き出したサスケはむっと眉根を寄せた。

(……落ちつかねえがしょうがねえ)

悩んでいても財布も腹も膨れないのだ。サスケは腹をくくって、風呂場から出た。

いつもならば賄いをもらってから座敷に出るのだが、今日は遅れていたし、風呂を使っていたので食べる暇がなかった。遅刻したのだからしょうがない。

いわゆるサスケは見習という奴で、正式に雇われたものではない。だが仕事をきっちりこなし、下手に金をごまかしもしない素直なたちが店のものには気に入られたし、耳巧者な通人を満足させるだけの技量か否かさておき、稚児づとめもおかしくない年少さからくる物珍しさと、本人は預かり知らぬところだが見栄もなかなかなので、客からの声は悪くなかった。

サスケにしてみれば十分すぎる給金ももらえたし、心づけももらえる。それに孫あたり年頃がおなじらしい者からは、こんぺいとうやらカステラを貰うこともある。甘いものは苦手だが、座敷でものを食べれない娼妓にあげてしまえば、喜ばれたりするので、ありがたく受けとることにしている。

酒肴を載せた膳を持ちながら連れて行かれたのは眞田屋の離れにある座敷だ。
向かいの廊下から障子を開け放った座敷内が見えた。

襖が取り払われれば、およそ紫の高麗縁こうらいべりの畳がざっとひろがり20畳はあろうか。花鳥風月をえがいた唐紙の襖、格天井と金屏風には青松の絵、簡素ながら舞台のしつらえになっている。

番頭新造が指差して、あれは誰それと説明する。

なんとなく生真面目そうな顔をした手代、進介という男のそばにはべるのが敵娼の小糸。
ほかは、先の吉日をえらんでお披露目をした初緑は番頭の佐吉という男についている。あい、と答える声の細さ、いまだものなれぬ蕾の風情が名の通りういういしく、たいして盃も重ねていないのに目じりがほんのりと赤いのがかわいらしい。

それから豪商・伊勢や宗兵衛が入れ込むことひとかたならず、いずれ身請けも遠くなかろともっぱら噂の眞田屋・お職、薄雲。さすが白糸とならぶ太夫だけあって、子供のようにぱちりと大きな目見と小さな唇がいかにも幸うすいのを暗示するようで、蘭にも似た吹く風にも耐えぬ風情が男をどうにもやるせなくさせるらしい。

宗兵衛はいまだ壮年といっても通じるようなしゃっきりとした男で、杯を黙々とはこぶ引き結んだ口のあたりに気難しげな風が漂っている。かなつぼ眼はやたらとつよく、一目見れば偏屈親父そのものだが薄雲がなにやら言うと笑う、その顔が驚くほどやさしげですこし驚く。やにさがるのともまた違う、どこか恬淡とした笑みだった。

いならぶ眞田屋の娼妓のなかでも売れッ妓ばかりにサスケが番頭新造を見やる。いくらなんでも、これだけの芸妓を買う相手に、サスケの生半な手前を披露するわけにはいかない。

だが何かをいう前に、番頭新造は座敷の中に声をかけてしまっていた。

先付けの小鉢の空いたのを盆に載せ、花かつおがほろほろするのがきれいな初茄子の煮びたし、若鮎の素揚げに山椒と塩、だいだいをそえた皿を膳に並べていく。空いて盆にまとめられていた徳利を控えていた下婢げじょに渡しておかわりを受け取ったりと、給仕の手伝いもなかなかに忙しい。

空きっ腹に食べ物はうらやましかったが、座敷が一段楽すれば賄いをもらえる、それだけのことにサスケはがんばっていた。

酒をなめていた宗兵衛はちらと視線を番頭新造になげ、それからサスケに視線をすえる。じろじろと見るのだが、ふしぎとぶしつけな感じがしないのが不思議だった。つい、と片眉を持ち上げると、禿げかけて大きくなった額に皺が寄る。サスケが部屋の隅に置いておいた三味線に目をやる。

「その布はなんじゃ」
「三味線ですわいな」

薄雲の答えに宗兵衛はぐと身を乗り出し、笑ってサスケの顔を覗きこむ。

「ペンシャンと節はとれるんか、坊主」

ならばちとその三絃ぺんぺんで舞ってみなっせえ、と顎をしゃくる伊勢やに、さすがこころえた薄雲と白糸がすいと立ち上がり、縮緬の袱紗から大事そうに舞扇を取り出す。若年の初緑は太鼓の前に陣取って、箱から三味を取りだしたサスケが天神に触れるのを待っていた。
小糸がサスケに耳打ちし、サスケがうなずく。宗兵衛は脇息に肘をおいて頬杖をつき、口元を楽しそうにほころばせた。















   末は姫ゆり 男郎花おとこめし
   その楽しみも うす紅葉
   さりとはつれない胴欲と
   かきねにまとふ朝がほの
   はなれがたなき風情なり

先にたって案内をする尾白という小糸づきの禿の後をついて、ひょいひょい歩く隠居の背を横目に、カカシは雨降る庭を眺めていた。ぼうと黄いろく闇をぼかす灯籠のむこうに白く浮かぶのは梔子の花だろうか、トトン、ジャカジャンと三味線太鼓の音が向かう離れから流れてくるのに、カカシは視線をあらぬ方向に泳がせる。

(一体なんだってこんなことになったんだか)

   いつの紋日もぬしさんの
   野暮なことじゃが比翼紋

金唐紙の青松を後ろに従えての二人舞、膝立てすえた畳にするすると流れる裳裾の金波、伏せた瞼に扇の銀紋がうつりこみ、つ、とふるえる。

   はなれぬ仲じゃとしよんがへ
   染まる縁ゑにしのおもしろや

座敷に入ってぺこりと魚清の隠居が頭を下げるのに合わせ、カカシも会釈をすると上座にいた老人はくしゃくしゃと笑って頭を下げた。尾白が用意する座布団に腰掛けたところで、舞扇の合間から小糸がちらりと流し目をよこしてくるのに、カカシは笑う。まったく、何だってこんなことになったんだか。

   げに花ならば初つ桜 月ならば十三夜
     いづれおとらぬ 粋同志すいどし

三弦の絹を押さえる指、テンツクと太鼓の調子に合わせ、細い手に支えられた撥がさっと流しやる。

   あなたへいひぬけ こなたの伊達
   いづれ丸かれ候かしく……

絵姿のような二人舞に主座にいた老人が呵々からからと笑って手を叩いた。そしてざっと膝を動かして向き直り、隠居にあらためて頭を下げる。番頭、手代もそれにならって頭を下げた。

「やあ、お久しい。先の正月、舟遊びに繰り出して以来じゃ」
「そんな前のことでしたかなあ、宗さんとお会いしたはつい先ごろかと思いましたが」

旧交を温める老人二人を別に、カカシとサスケも顔を合わせていた。
あぜんとしているサスケにカカシはもう笑うしかない。今日はサスケと顔を合わせてしまったし、なんだか気まずかった小糸も揚げられてしまっているし、帰ろうかと思っていたのだ。だが、気がつけばにこにことした隠居の存外の押しの強さに丸め込まれ、なぜだか赤の他人の座敷に上がりこむ羽目、それでサスケと小糸が居合わせるのだから、もう訳がわからない。

「何であんたがいる」
「あのお爺さんがね、暇つぶしにでもどうかって」
「……ああ、スリの」
「そう」

肌にすずしい麻の襦袢と白鹿の子の紬、濃い目の帯のため、しまって見える。だがいかんせん年頃のせいか、細い体は和装を着ても様にならない。腹のあたりはタオルかなにかでつめているらしい。やたらと袖からのぞく腕の細さが目についた。

注視に居たたまれなくなったのか、サスケは形のよい眉を不機嫌そうに寄せた。

「……なんだよ」

すこし頬が赤い。
妙なところが疼いてカカシはなんだかへんだなあ、と他人事のように思ってみる。襟元へ続く首筋が存外に細く白いのに気がついた。見方を変えるとこうも見え方がちがくなるのかと驚き、まして子供に女へ対する視線を当てるとも思わなかったので、驚きは相当のものだった。

「さてね」

そういえば触ったんだよな、と思う。

実はひとつかみできる手首の細さだとかちょっと怯えてる感じにどきどきしたとか、首筋がほそくて、足の肌がすべすべだったからパンツを掴んだ手が不埒な動きをしそうだったとか、下着なしで袷が乱れてるのをあまり直視できなかったとか、それから。

「小糸姐さんなら」
「え?なに」

行灯の明かりも晧々としたところでろくでもないことを考えていたら、サスケの声に引き戻された。サスケにしては珍しく、人の目を見ないまま、畳に視線を据えてる。

「手代の進介さんに揚げられてる」

吉原にはしきたりがある。一度、遊女を揚げることを初会といい、二度目に同じ遊女を揚げることを裏を返すというのだが、遊女と客は床入りすることはない。三度目にようやく馴染みと認められるのである。馴染み金を払って、三日夜の餅を模した杯のやり取りをして馴染みとなれば、原則として客はほかの妓楼に登楼することはできない。

敵娼があいてない場合は、まだお披露目をしていない娼妓見習いが相手を務めるのだが、床へは添い寝といって文字通り並んで寝るだけだ。

カカシはかりこりと頭を掻いた。

「あー……それね、べつに」
「さあさ、皆様、お造りです!」

番頭新造がするすると入ってきて、カカシは言葉を呑みこむ。
ででん、と一座の真ん中に置かれたのにカカシは目を瞬いた。

「これは、まあずいぶんと大きな……」

そこでちらりとサスケを見やる。サスケも目を丸くしたまま、呆然と見ていた。

「鯉ですね」

鶴亀の意匠をされた笹飾りや菊の花、きらきらしい宝船の飾り、大根のつまでできた波には桜色に照る鯉の刺身があった。

「三尺は軽ぅくありましょうなあ。こりゃどっかのヌシですわ」

魚清の隠居がにこにことカカシに笑う。あちゃあやっぱり、とカカシは口元を笑みに歪ませ、サスケは眉間の皺を深くした。あー、悔しそうだね、そうだね、悔しいだろうね。

「うちのが都合よく釣り上げましてな。なにせのろうりとこのでかいのが来るもんですから、すわ蛇か鰻かはたまた竜かですわ。猪牙がひっくらがえりそうなほどなんですから、おどろくの驚かないの。鯛に比べりゃ下魚ですからな、宗さんのご栄達に恐縮とは思いましたが、故事もございましょう。ほら、」
「ああ、登竜門」
「そうそう、それ。ま、これもめでたかろうとこころばかりの祝儀とお納めした次第ですわ。泥臭いとお嫌いな方もございますが、好きな方はこれがたまらんと、次ぎ持ってこいこいってェな按配で」

カカシは眠そうな目をみひらき、サスケを見やれば道端でマイト・ガイにかち合ったようなすごい顔をしている。合点。あまりにすごい顔に知らず笑えば、隠居の目が輝く。まあ、まんじゅう恐いよりはましかもしれない。

「おじょうずですね」

隠居はにんまりと酒やけをした顔に笑みをひろげ、伊勢や宗兵衛はあらぬところを向いて、口元をへの字にしている。妓どもは苦笑し、隠居一人がはっはお後がよろしいようで、と実に上機嫌にいいやったのであった。






















「天紅」/カカシサスケ










嫖客・吉原雀……いずれも遊客。
後者は長唄の名前でもある。
素見……ひやかし。マガキ(格子)の外から見るだけで
女を買わないこと。あるいはそういう客。

まだ続きます…!


天紅【前】へ
天紅【後】







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