朝の歌 セックスの翌朝、隣に相手がいなかった。 カカシは素っ裸でぼんやりと空っぽの隣を見る。 やり逃げ? いや、むしろ、やり『逃げられた』だ。やったのはこっちで、相手に逃げられた。ニュアンス的にむずかしいが、いい思いをしたのはどっちかといえばこっち、被害者はあっち。だが乾いた風が胸の隙間に吹いた。 無口無表情無愛想、三つの無が並ぶ部下兼生徒は置手紙の一つも残していない。朝の光をうけて、よれよれのシーツにのこった黒髪だけが、昨夜の事実を夢ではないと認識させた。 ……探さなきゃ。 服を探して、下着に足を突っこむ。がびがびして、あらぬところの皮膚がつっぱる不快感にカカシはため息をついた。もう固まっているからティッシュでは取れないだろう。昨夜のうちに、あと始末しておけばよかった。 いったんシャワーを浴びてからサスケの家に行こうと体を起こした。よいしょ、と思わずかけ声が出る。 甘ったるい朝を期待したわけじゃないし、あまり好きなわけじゃない。それでもちょっと薄情なんじゃないの、と思う。自分は我がままだろうか。べつに後朝の別れなんて情緒を求めようとも思わないし、と考えたところで昨夜の狼藉を思い出す。相当いろいろ自分は切羽詰っていた。余裕なんて毛ほどもなかった。情緒は求めなかったが、女相手、男となんてもちろん初めてだろう相手に、そうとう無理を強いた自覚はある。怒ったのかなと不安になる。 トマトでも持ってドアをノックしようか。でもまたお預けになるのだろうか。それはいやだ。洗面所兼風呂場への廊下をぺたぺたと歩きながらカカシは思う。 (やめ……) あんな声を出しておいて、と八つ当たり気味に思った。 声変わりもまだろくろく終えてない錆びてざらついた声だった。ひどく細っていて、一メートルも離れてしまえば聞こえないほどの果かなさだった。喉仏もろくにない首筋にうめた頭に頬をごりごりと押しつけ、首に汗ばんだ腕が回されて、意味なく髪の毛をかき乱した。耳元の唇から漏れるかさついた声が何度も振動に変わっていった。 (…無理…てッ) そのたび小さな振動は自分の心臓をふるわせたのだ。まるでびりびりとした電流のようで、思い出すだけで首筋があわだつ。信じられない。 女の声にまじるあまやかな響きはかけらもない、むしろうめきにも似た声だというのに。信じられるか。どこかの誰にともなく怒鳴ってやりたい。 信じられるか、ばかやろう。 あのいつも無口な唇がほどけ、カカシにすきだといい、あまつさえキスを仕掛けたりもし、体の中にむかえいれたのだ。 何度も頭が記憶の再生を命じて反芻する。波を作ったシーツに黒髪が散らばるさま、うるんだ肌が吸いつく感触、骨ばった体のおどろくほどのやわらかさと触角で感じた熱さ、噛みしめた声と息遣いは、カカシの皮膚のうえにまるでいちまい膜でも作ったように張りついてはなれない。断片がぼやけたイメージに何度も色をつける。目でも耳でも皮膚でも、どの感覚器でもない場所に焼きついて、ごまかしきることが出来ない。産毛程度しかないくせに、人生の半分生きてないくせにだ。 あの錆びた声が自分を何度も呼んだ。 あんな声を出していたくせに、と思いながらもそもそと服を脱ぎ捨て浴室のドアを開けた。 サスケがいた。 ぱちくりと目を瞬いたカカシに、サスケは風呂借りてるぞ、と言った。湯気がしろくこもった浴室、反響して伝わるざらついた声に、心臓が跳ね上る。もにょもにょと曖昧な返事を返すと、サスケはいぶかしむように眉根を寄せた。 しかめ面だ。偶然、風呂場であっただけだといわんばかり、憎たらしいぐらいこざっぱりした顔で、何も変わっていないいつものふてぶてしい生意気な顔だ。なんだか昨夜のことが夢のような気がする。というよりも、昨夜から今まで、ここにサスケがいるのが幻みたいだ。もう上がる、入れよ、といわれた。もしやこれはお誘いかと勘違いして、すぐさま頭の中で否定する。そんなわけない。当たり前だ。 お誘いかと爪の先ほども予想しない相手に手を出してしまった、と思ったらなんだかとんでもない犯罪者になってしまった気がして、カカシは慌てて首を振った。そして気づく。 そうだ、自分は変態だ。いいわけできない。 「あ、いいよ、べつに」 「いや、もういい」 なに自分ひとり、心臓で大騒ぎを起こしてるんだ、とつっこんでいたら、サスケが浴槽から上がる。サスケの裸を見てカカシは金縛った。サスケの眉宇がまるで胡乱なものを見るように、しかめられて、おいつめられた。 「カカシ?」 「ぅ」 「う?」 「……うー、あー、……やっぱ俺だめだー」 もうこらえきれず、両手で顔を覆った。訳のわからないことを言いながらずるずるとしゃがみこむ。手の平にざらついた髭の感触がある。かまわず熱をもつ頬を何度もこすった。心底なさけない声で目の前にあるタイルにたつ足に「お願い」した。 「あのさ……とりあえず、隠してくれる?」 ちらりと見あげる。寝癖のついた髪の隙間からのぞいた視界の中、かかかかっと毛を逆立てた猫のような顔をしてサスケが硬直する。その頬に血が上るのを見て、ますます自分の顔も赤くなったのを自覚した。そんなに恥ずかしがられると、こっちも恥ずかしくなるじゃないか。 どぶんと水音がして、サスケは浴槽に自分の体を隠した。うん、今は隠してくれないとこまる。非常にこまる。背中や二の腕の噛み跡をちらりと見て、頭を掻いた。あの服、上からだとぜんぶ丸見えだよエロいよって今度いおうか、どうしようか。 「っ!何でアンタが照れんだ!」 かすれた声が風呂場に響いて、ますますだめだ。 この声が、自分を。何度もだ。何度も、何度も。 「俺だって照れるよー……」 (信じられるか、ばかやろう) そうだよ、アホか俺は。いなけりゃふつう風呂だろ。だいたい水音がするとか、気配とか普段だったらぜったい気がついていた、自分はどれだけ慌てふためかないふりをして動揺していたのか。忍者失格だ。いたたまれなくて、濡れたタイルを凝視したまま髪の毛をがしがしとかき回す。 ああ、口元が歪んでくる。こんな顔とてもじゃないが見せられない。恥ずかしいし、情けない。期待したわけじゃないし、好きじゃないなんて前言撤回、もう降参。あきらめよう。女じゃないし、産毛ぐらいしか生えてない相手に。自分の人生の半分も生きてない相手に。その相手にきもちわるいぐらい、頬がゆるんでくる。もう今さらだ。これぐらい、言ったっていいだろう。 「――帰っちゃったかと思った」 もう甘ったるくていかれてしまいそう。 白旗ふって敗北宣言だ。 |
「朝の歌」/カカシサスケ |
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