目の前で水をいれたグラスが揺らされるようにぶれていた視界がいきなり焦点を結ぶ。日光にぬるまってざらついたアスファルトに押し当たった耳から響いてくるタイヤの振動を知覚したとたん、なにか大きなものが圧し掛かっているような感覚に咳き込みながら息を吐いた。
羽のように舞い上がった白いものが瞼に張りつく。眼球を動かし瞬きをすれば軽い湿ったそれはたやすく落ち、息を吸った唇にはりついた。青いような甘いようなかおり、花びらだ。花嫁のコサージュ。 小さな針で地面に縫いとめられたような体の中で自由にうごくのは目だけだ。ぐるりと押し出されるように回転した視界に映ったのは電線に切り取られ、しみるほどあざやかな青空だった。 左眼をおさえると水にはいっていたようにぼやけていた視界が一気に明瞭になる。事故で左眼をうしない角膜移植をうけたのだが、それ以来、視力が落ちやすい。そんなこともあるのかと知り合いの医師に尋ねたこともあったが、さあ、人体なんてわからないことのほうが多いんですよ、とわけのわからないことを返されうやむやのまま終わってしまった。 半ば手探りで廊下を進み、キッチンのドアを入ったところで驚く。 「……なんだ、起きてたの」 グラスを傾けていた少年がゆっくりとこちらを見る。形のよい目も癖のつよい硬そうな黒髪もやはり似ている。 パソコンの脇にほうりだしたメガネに手をのばしたところで、事務所のほうから声がかかった。 「はーい」 「模試の結果を受け取りに来たんですけど」 「学年と選択は?」 「高2で国文」 はいはい、といって、たちあがったカカシは言われたクラスのラックをあける。模試の返却分をさがし、付箋をはられたものを全部取り出す。 「名前は?」 「うちはです」 「はい、じゃあコレだ」 「どうも」 「返却日にこれなかったの?」 「ちょっと病院に付き添っていたので」 差し出された手を見下ろしてカカシは目を細めた。メガネをかけていないせいでぼやけていた視界が一瞬、焦点をむすんで鮮明になる。血のかわいた色をにじませた判創膏が手の甲から指にかけていくつも貼られていた。 「弟くん元気?」 それがなにか、といぶかしむようにあがった眼差しにカカシは肩をすくめる。なんどか瞬きをした少年は、ああ、と納得したようだった。 「従兄の、三回忌に」 「うん、同級生だったから」 「そうですか」 「それで?」 それで、とはと形のよい眉をしかめた少年は、瞬きをひとつすると弟のことでしたか、と呟いた。路傍の石でも見るような体温のない目をすると、先ほどからカカシが見てしまう手の甲の傷を見下ろし、唇の端だけをわずかにあげるような、気づきもしないほどかすかな笑みをにじませた。 「多分、元気なんじゃないですか」 たぶん、と鸚鵡返しにしたカカシの戸惑いに気がついたの気がついていないのか、うちはイタチは封筒に答案を戻し、クリアファイルに挟んだ。 「今は同居していないので」 「……そう。ごめん。お大事にね」 カカシにありがとうございました失礼します、と頭をさげたイタチは踵を返して出て行ってしまった。 「へえ、お前んとこの生徒なんだ」 「お前の教え子の割りに成績はいいね。しかし、たしかにアレは一癖あるねえ」 「うるせえよ。癖あるだろ、でっかくなってたか?」 俺よりは低いよ、とカカシが言えばオビトは眉をしかめる。 「……家系なんだからしょうがねえだろ。あ、すんません、これもう一個、そっちも」 空になったグラスを店員におしつけたオビトは、ちょっとばつが悪そうに頭を掻いた。 「親戚の話をおまえからきくっていうのも変な話だよな」 「生活圏が狭いだけでしょ」 「おまえ、その口調、ほんとセンセにそっくりだよな」 懐かしいね、とカカシはすこし笑って箸をおくと、お絞りでテーブルについたグラスの後を拭いた。トイレに行ってくると立ち上がったのを見送り、座敷の壁に背中を預ける。 救急車のサイレンが高くなり低くなりして遠ざかっていった。 わあっと聞こえた歓声に障子風の衝立から顔を覗かせれば、カウンター奥の店員までみながテレビ画面に見入っている。有線放送の後ろから聞こえるテレビの実況中継がひとしきり終わったあとは客の視線はまたそれぞれのテーブルに戻り、店の中は相変わらず騒がしかった。 随分長いトイレだな、と思いながら黙々と食事を続ける。店員がもってきた酒を受け取り、小鉢にのこったつきだしをつついていると、オビトが戻ってきた。グラスを指差すと、サンキュと呟いたオビトは伸ばした手をひっこめる。やおら座布団の上に正座をしたのにカカシはゆっくり瞬きをした。 「どうしたの?」 「あのさ、俺さ今さ、電話かけてたんだけど」 「うん」 「……その、アレ、OKもらった」 一瞬、なんのことだか判らない。 すこし怒らせたような眉やひきしめた口元、だのに視線だけはカカシを見ていない。酒のせいかすこし赤くなった顔をオビトはすこし掌でなでた。山盛りのエサを前に主人の「よし」を待つ犬みたいな顔をしている。 「結婚する、します」 「おめでとう」 言った瞬間、オビトは眉をしかめてくしゃりと笑った。 「いつプロポーズしたの?」 「さっき」 「さっき?電話で?」 「…なんつーか、勢いだったんだけど、うん、いいよ、しようって」 あきれた。 「なんかさ、イタチとかの話聞いてたらさ、人生に時間はねえなあって思って」 「借金も終わったんだっけ?」 「まあな」 「あの人どうしてんの」 「俺もわかんねえよ」 最初から、戻ってこないと思って貸したもんだし、と呟くオビトに人がいいねえとカカシはあきれた。 「社会勉強だって思うからいいんだよ、別に。騙されたってほど、でかい金じゃないし」 「今思えばだろ」 「お前さ」 グラスを傾けたオビトが変な顔をしてから笑いを堪えるような顔でカカシを見る。なんだと視線だけで促せば、今度こそオビトは小さく笑った。 「この話になると、ほんと怒るよな」 「お人よしにもほどがあるだろ。俺なら許さないね」 「そりゃ、多めにふっかけられたけど……嘘言われたわけじゃねえし、好きな女が水商売するかもしれないっての、ほっとけねえだろ」 言われてしまえばカカシも黙るしかなくなる。バカかと思うが、誰もかたく定まったオビトの意思を変えられなかった。 「ま、昔のことはもういいよ」 「だよな」 「そんでなんでいきなりプロポーズしたの」 水を向けてやればオビトは眉をしかめて不器用そうに笑った。 「だってさ、救急車鳴ると俺もう、あいつなんじゃねえか、平気かっておもうんだぜ、もうダメだーオレ」 「そういうのは本人の前でいいなよ」 立ち上がると、机に肘をついてよっかかるようにしていたオビトが顔をあげ、すこし眉をしかめる。 「なんだよ、いいとこでトイレ行くなよ」 「違うよ、かえんの。おまえねえ、酔っ払った勢いで電話してなんて、だめだろ」 「……?」 「ちゃんと顔見ていいなって話。電話で済ましていいもんじゃないでしょ」 「……」 無言で財布をあけるのに立ち上がったカカシはやれやれと頭を掻く。 「奢り。お祝いだから」 「いや、こういうのはきちっとしねえと」 オレの母ちゃんは、人から金借りるなら友情が壊れるとおもって借りろつってんだ、とオビトは胸をはる。それにひらひらと手を振ってカカシは目が合った店員に呼びかける。 「いいって、すみません、おあいそ」 レジの前をじんどったところで、数枚の千円札が置かれていくのにため息だ。しょうがなく会計を済ませて暖簾をくぐると、街明りが雨でぬれた道に伸びていた。地下鉄の駅まで歩きそれぞれ別方向の切符を買おうとした横で声があがる。 「今度はどうしたの」 「……定期、切れてんの忘れてた」 ださいね、と肩をすくめて笑えば、祝えよと子供みたいに不機嫌な顔をして、ちょっとだけ笑う。おめでとう、といえばありがとうと笑った。 「スピーチは、よろしく」 「涙でとても言えないよ」 羨ましいか、と満面の笑顔で尋ねてくるのにため息をついて頷いた。 じゃあな、と手を振ったカカシは向かいのホームへの地下通路へと足をふみだした。蛍光灯がきれかけているのか重たげな瞬きをくりかえすうす暗がり、角をまがり傘をもちなおしたところで鞄と一緒に脇のしたに挟んでいた上着が落ちる。 立止まったカカシは頭を掻き、ゆっくりとしゃがみこんだ。 家に帰るとやばいから、とサスケはグラスを流しに入れて洗い出す。 「なにそれ」 「言葉どおり」 「仲でもわるいのか」 言う気はないのだと背ばかり伸びてるだけのきっぱりした背中にため息をつく。感心はしないよ、とカカシが眉を潜めれば濡れた手をジャージでぬぐったサスケはわかってる、と返す。暗がりで見て、さっき見間違えたのは裸眼のせいだけじゃないと思う。サスケよりよほど喋るし、うるさかったしつっかかってもきたが、端々の仕草だとか口調だとかがすこし、似てる。寝汗で髪の毛が頬にはりついている。子供の丸みがだんだん削げ落ちていた。 「やっぱどこか似てるね」 「よく言われる」 ため息まじりの即答に見解の相違にきがついた。似てるといわれれば五歳ほど年の離れた兄だろう、と思い至ってから曖昧にカカシが頷くと、視線だけこちらに投げたサスケは瞬きをする。目があっただけでわかったのか、すこし奇妙な顔をした。 「おまえのがもてそうな顔してるけどね」 「なんだ、それ」 すこし眉をひそめ、眇めてから睫をゆるく伏せた目尻、あまりゆるまない唇あたりに凛々しいだとかいうよりどこか色が乗っていて、女の子がさわぐのもなんとなくわかる。 「ほめてんのよ」 ばかじゃねえの、とすこし掠れた声がかえった。 |
「晴天なり。」/オビトとカカシとサスケ |
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