好きだなんて言えるわけがなかった。 リダイヤルボタンを、今日はこれで最後と押すと口ずさめそうなほど耳慣れたプッシュホンの音が聞こえてくる。出ないだろうとわかっていても電話をかけないではいられない。コール音が十回を数えたところでカカシは受話器をもどすと鍵と上着をつかんだ。 (バイト先、学校、それから) バイト先はむこう一週間のシフトも出されてないとリンにきいていたし、学校は履修している講義に顔をだしてみても知り合いに聞いても見ていないと答えがかえるだけ。ほとんど望み薄だとわかっていてもいそうなところを一通り洗い出しながら靴に足をつっこむ。間延びしたチャイムが鳴ったのは立ち上がったときだった。のぞき窓に右目を近づけると見えたのは手持ち無沙汰にアパートの手すりによりかかる、友人だった。 凪いだ海のように雲ひとつない晩秋の日暮れは、だんだんと光を薄くし影は色をなくしていく。青泥む中天から赤い地平までが虹のような明らかさで移りかわるのにひどく暗い。 ドアをあけるといい加減ジャケットを着ていても肌寒い時期なのに単車をはしらせてきたのか、晒された鼻の辺りを赤くさせて笑った。苦しいのはわかるが、フルフェイスを買えと何回いったか忘れた。声はわずかに白くなる。 「よう、寒いな」 「……なにしてんの」 カカシがそのまま部屋に戻ろうとすると、出かけるんじゃないのか、と玄関先で立ち止まる。 「なんか用事あったんなら、いいんだけど」 「いいよ、気にしないで」 (その用事なら終わったし) なら、悪い、と笑った顔は蛍光灯の青じみた光でも陽灼けしているのが明らかだった。合宿にでもいってきたのか、結構な大きさのあるスポーツバックをかかえている。カカシがどれだけ安堵してるかなんてこの親友はしらないのだ。 「おまえ、この二週間なにしてたんだよ。合宿でもないだろ」 「なにって…バイト」 「新しく始めたの?そんな稼いで単位はとれてんの」 部屋にもろくろく戻ってないだろ、と問い詰めれば建築会社のバイトで飯場に泊まりこみだったらしい。かたそうな黒髪をかきまわしてすこしばつの悪い顔をしている。首にぶらさげたゴーグルがため息で曇っていた。 「もしかして、結構電話くれてたか?」 「二週間も消えてれば、ちょっと驚くだろ。学校の奴もバイト先にいっても知らないっていうし、っていうかリンがシフトから消えすぎだって怒ってたよ」 「…悪い、ちょっと急ぎだったんだ。あと、電話も変わるっていうかやめる」 「なんでまた」 気まずそうに俯いたのに事情を察して驚いた。わかってしまったことを、オビトもわかったのだろう、眉をすこししかめてすこし目を伏せる。 「別れたんだ。部屋も解約した。またすぐ現場のバイトはいるから、それまでちょっと泊めてもらっていいか」 「いいよ、別に」 「メシ食ったか?」 「まだだよ。冷蔵庫もなんもない」 「じゃあ外食い行こうぜ。奢る」 「…いいよ」 お互い学生の身だ。遠慮をしあうほど浅い仲ではないがいきなり奢るというのは驚く。いぶかしんだカカシにオビトは給与明細がホチキスでとめられた封筒を取り出した。ちょっと相談したいこともあるし、というのに断ることはとてもできなかった。 店を教えろというからつれていったのは国道沿いにあるラーメン屋だった。トラック運転手がよく利用するだけあって、千円もかけない定食で成人男性が満腹になるくらいの量がでるのがいい。野菜ラーメンなどを注文すればボール一杯分の野菜が付け合せでのってくるのだ。 しばらく黙々と食べ続けてオビトが口を開いたのは、スープもぬるくなるころだった。 「……別れたっつうか、たぶん、たぶんだぜ?」 「騙されたのか」 「……たぶん」 「なんで」 「あいつの親御さんがさ、利子分がないと、自転車操業でまわんねえっていうから」 「『貸した』の?そんでいなくなってたんだろ。どれぐらいとられたんだよ」 ちょっと、それは、とオビトが口ごもった。 「…知り合いで事務所でバイトしてる奴がいるから、弁護士にでもどうにかできないか、聞いてやるよ」 うん、と肯くオビトにカカシはなんなのよ、と呟いた。 「なんでお前はそんでバイトなんか暢気にいってんの」 「や、振込み期限の近いのばっかだから、夜勤と単発のバイトくりかえしててさ、現場とかだと飯場でやすく食わせてくれるし」 貯金全部やったのかとあきれ返ったカカシはどうすんの、と尋ねる。 「ん、まあ単位はそこまでやばいわけじゃねえし、いざとなったら休学してさ、留年してから復学すっかな、とか思ってて」 「お前、浪人で入ってるくせに休学で留年って、就職にどんだけ」 「…厳しいっちゃわかってるよ、そりゃ。でも、しょうがないだろ」 「しょうがないじゃないだろ」 語気を強めたカカシにオビトはうん、と曖昧に肯いた。会計をすませてでると、国道はテールランプであふれかえっていて、光の河のようだった。コンクリートの塀にいくつもよぎる影から眼をそらしながら俯きがちに歩いた。あのさ、とマフラーからのぞかせた口を開いたのはオビトだった。 「相談とかいってたくせにさ、ごめんな。なんかいろいろお前いってくれたけどさ、やっぱいいよ」 「なんでだよ、おかしいでしょ、それ」 「いや、ほんといいんだって。なんか騙されたってさ、わかったときなんだろ、『もういいや』って思っちゃったんだよ」 「なにそれ」 「力が抜けたっていうかさ、なんか、そういうの、見たくないんだ。あいつのこと弁護士に訴えたりとかさ、実家とか調べて電話かけたりとかするくらいなら、べつに休学くらいいいかっつうか。正直、なんかもう、かかわりたくないっていうか」 「そんなの、おかしいって」 「や、なんつうか、たぶん、全部嘘なわけじゃないんだって」 キャバでバイトしてたらしいって、知り合いが言ってたし、と呟いたオビトの白い息が所在無く浮かび、通り過ぎた車のおこした風にくずれていく。 「あいつが奨学金とかしてたのも知ってるし、親がやばいっつうのもたぶんほんと。やばい感じのサラ金かな、業者から電話みたいなのかかってきたりして、俺びびったこともあるし。全部が全部うそじゃねえんだ」 「そんなこといったって、それ詐欺には違いないだろ」 「だから、いいんだって」 ゆっくりと降りだした踏切の前で立ち止まる。マフラーで小さくくぐもった声はすこし掠れていた。 「つうかやっぱさ、好きな、好きだったわけでさ、なんかそういう奴がさ、騙したっていうの、見たくねえんだよオレ」 「……だからって」 「なんでおまえそんな、怒るんだよ」 振り返ったオビトの目はひどく潤んでいた。けれどオビトはどこか呆れたように笑っていた。喉元をじりじり焼くような圧迫に耳鳴りがして息が苦しくなる。そんなの、とカカシは唇をうごかした。おおきな警笛がなって電車が通過し、踏み切り注意とかかれた布地をゆらした。そんなの、と続けようとした言葉は簡単に車輪が線路を噛む音に轢かれてちぎれてしまい、口をつぐんだカカシは足元をとおりすぎる車輪の黒い影をみるしかできなかった。 「……他人に先に怒られると、怒る気なくなるってほんとだな」 つぶやいたオビトにカカシはなによそれ、としかいえない。弁護士紹介してもらえるようにするから、と再三いえば肯いたが、たぶん電話することはないだろうとも知っていた。 オビトがどれだけ、彼女を大切にしていたかなんてよく知っていた。 (なんでなんて、そんなの) 好きだなんていえるわけがなかった。 ずいぶん傷ついた気持ちになったんだった、なんて数年後に思い出すだろう、とカカシはアパートでテレビの音を聞きながら考える。こんな夜も思い出だろうと考え、烏の行水のくせに水音もほとんど立てず、ずいぶん長く風呂につかっている友人のことを考える。オビトが人前でめっきり泣くことがなくなったことに気がついた。 たぶん数年後にたまに会ったりして笑っていて、同窓会なんかに出ればどこからどう見てもいい友達で、たぶん恩師やリンがまだつるんでるのかと呆れたり笑うだろうと考える。幸せな想像だった。はやくそんな日が、今のどんなに悲しかったり苦しかったりも感傷になる日がくればいいと思う。思い出みたいにオビトを見れるようになりたかった。 |
「晴天なり。」/オビトとカカシ |
next |