白衣の袖をひっぱって腕時計を見下ろした数学教師は教材をまとめると、ひとわたり教室をみわたした。黒板をうつすのに忙しい生徒たちの注目をあつめるよう、チョークまみれの手で教卓を軽く叩く。

「水曜の小テストで70点未満だった人と、欠席した人は今日の昼休みか放課後に数学研究室に来ること、第二研修室で再試やるから」

えーとあがった抗議の声を笑って一蹴し、カカシは相変わらず眠そうな顔で首の後ろを撫でた。

「そう文句言わないの。期末に類題だすつもりだからね」
「先生、それ平常点つくの?」
「平常点つけないくらいおまえやばいの」

努力しなさいよ、努力、と野次のような生徒の声にかえしたところで授業終了のチャイムが鳴った。 法事のための欠席で、サスケも再試を受けなければならない。板書をルーズリーフに書き写しおえたサスケはファイルをゆっくりと閉じた。







事務所、職員室、古い実験室があつまっているのが本館と呼ばれる建物だ。最上階の四階、数学研究室の近くにある、十名ほどが入れる部屋が第二研修室だった。数年前に特別教室棟を建てたため、頻繁に利用されることもなくひっそりとしたものだ。

立て付けのわるいドアをすこし斜め上にもちあげるようにして開けると、長机に腰掛けていたナルトとシカマルが振り返る。二人ともここで昼食をたべたらしく、頬杖をついて雑誌をめくるシカマルの横、ゴミの入っているらしいビニール袋が転がっていた。ナルトは大きな丸い目を見開いたあと、目を眇めた悪党みたいな顔で笑う。

「よう、イインチョやばいんじゃね?」
「なにがだよ」
「数学、できてねえんだろ」
「おまえと一緒にすんな。休んだだけだ。シカマル、おまえは遅刻か」
「低血圧なんだよ。おまえ、六年間皆勤ねらってたんじゃなかったっけか」

たしか中学校の卒業式で皆勤賞もらってただろう、というのにサスケはうなずいた。

「法事だったから欠席扱いにはならないらしい」
「へえ」
「オレあと三回遅刻したら呼び出し食らうってばよ。皆勤とかいって信じらんねえ」

一学期でもう呼び出しの心配をしてるなんてどれだけ遅刻してるんだとサスケはあきれ返る。体育のあとらしく、下敷きで仰ぎながら携帯電話をいじくっていたナルトはサスケになんだよ、と唇をつきだした。

「…あれ?」
「どうした」

メールをまじまじと覗き込むナルトにシカマルがおざなりに尋ねる。

「なんか呼び出しきちゃった。うえ、終わるかな」
「誰からだよ」
「みんなよすけべ!」

覗き込んだシカマルの眼前に下敷きをナルトは突き出した。

「じゃあ黙ってろよ」
「それよりおまえら、ここ、くせえぞ」
「あー…ナルトがラーメンくったんだよ。ソレだろ多分」

それかと立ち上がったサスケは研修室をつっきって、南面に三つ並んだ窓のすべてを開けた。ここ数日降雨がなく、校庭が乾燥して砂が飛ぶのに運動部がクレームをつけたのだろう、校庭で虹のかけらをはりつけてスプリンクラーが回っている。土の匂いがまじった湿り気のあるぬるい風がカーテンを大きく揺らした。今年の梅雨前線は高気圧におされて、天気予報図は連日晴天マークがならぶ。今日も二十五度を超す真夏日らしく、しらじらとまぶしい校庭のむこう、山並みが灰紫にかすむあたりに綿雲がわきあがっていた。

「最近あっついよなあ…」

下敷きをばたばたと仰いでナルトが机に突っ伏す。

「空梅雨みたいだし。水不足とかなんじゃねえのか」
「夕立とかが多いからそれはないってよ。つか、先生おそすぎだってばよ!」

ドアがなるのに振り向くとうわさの遅刻魔が顔をだすところだった。通り一遍遅刻の言い訳をきいたあと、おまえらだけ、と呟いたカカシは抱えてきたプリントを三人に配った。

「制限時間は十五分、だから一時までね。解き終わったら数学研究室にもっておいで」
「え、じゃカカシ先生なにしてんの」
「あと一週間でテスト週間でしょうが。期末テストつくってんのよ」

忙しいんだから面倒くさいこと休憩時間にやらせないでよ、とぼやいたカカシに、ナルトは最初っから試験なんかやめればいいんだって、とシャープペンシルをまわして言語道断なことを言う。メガネを白衣の袖で拭った数学教師はすずしい顔のまま、軽く肩をすくめる。

「全教科満点とれたらいっていいんじゃない」
「無理無理ぜったいムリ!」

語尾を押しつぶすようにかぶさったナルトの悲鳴に底意地悪そうに喉を鳴らしてわらうと、ひらりと手を振ったカカシは白衣の裾をひるがえして出て行ってしまった。

しばらくシャープペンシルが机にぶつかる小さな音だけが響く。一番最初にプリントを裏返したのはシカマルだった。見直しを終えたサスケも筆記用具を片付けだすのに顔をあげたナルトがあわてる。

「お前らもうおわってんの!?」
「前のテストと数字が違うだけだろうが」
「解答のプリントも見てないんだろ、要領わりいとめんどくせーことになんぞ」
「……」

わかりやすい沈黙の肯定にふたりして見ろよそれぐらい、と呆れる。シカマルは雑誌をとりだし、サスケは立ち上がった。

「シカマル、もってくか?」
「んにゃ、こいつ待つからいい。ほら、待たせてんだろ、急げよ」

欠伸をかみながらシカマルがいうのにうなずいたサスケは研修室をでて廊下を歩き出す。吹き抜けになった伽藍、天窓からまっすぐに光が差し込んでいる。体育祭を終えたブラスバンド部は秋の地区大会を視野にいれているのだろう、音をはずしがちなフルートやコルネットの短い音ならしが途切れ途切れに聞こえた。

テスト期間、生徒立ち入り禁止の張り紙が張られたドアをノックしてドアを開ける。

「お、一番乗り。おつかれさま」

パソコンから顔をあげたカカシはひらりと手を振った。ドアの前にたったままサスケがプリントを差し出すと首を傾げる。

「あんたが来いよ」

ああそうか、入れないんだっけかとカカシは笑い、立ち上がってゆっくり歩みよってくる。はきなじんだ色をした靴先がぴたりと上履きの真正面に止まった。後ろに下がりそうになる足をそらしそうになる眼差しを押さえ込んでいれば、プリントに目を落としてそらしたのはカカシだった。逸らされたことに一瞬、息を吐く自分はやはり緊張をしていたのだ。

「ん、今度の授業でかえすから。これ解答」

差し出されたプリントを受け取る。指先にひっかかった抵抗にサスケは顔をあげた。









横をとおりすぎていったばかりの女子を目で追いかけて、ナルトとつきあってるらしい、とキバにきいた話を思い出す。じゃあさっきの待ち合わせは彼女だったのか。

階段の踊り場、おりようとするサスケは階段に足をかけたナルトを見下ろす。

「おい、さっきの」

彼女の名前を言ったとたん、にらむようきつくみあげていた碧い瞳が強い風にたたかれた水みたいにいきなり揺れた。喉がひしゃげそうにくぐもって響いた声を呼び水に、最後まで重力にさからっていた涙がくだけて落ちる。

本鈴が響いた。



さがった暖簾をくぐれば冷房のきいた空気が流れ出る。いらっしゃいませ、と店主は昼には遅く夜には早すぎる客二人に対して職業的な無関心を示した。掃除をしていたアルバイトらしい女性はものめずらしそうな顔で学生服に一瞥を投げる。

冷たいお絞りを手の中でもぞつかせているナルトの目のあたりは泣き腫らして赤い。小テストを終えて別れてからたったの二十分、軽口をたたいていた唇はかたくなに引き結ばれている。

時計を見ればそろそろ五限のリーダーが終わる頃だ。ついでのようにさぼってしまった。テストが近いためと教師が休みのため五限が自習になったおこと、六限がL・H・Rだったのもある。授業がないとなにもすることはない。遊ぶような気分でもなければ尚更だった。

どうする、ときかなくてもついてきたのだから多分ナルトもあまり学校にはいたくなかったのだろう。クラスが一緒だから顔を合わせづらいのかもしれない。そのナルトはすごい勢いでラーメンを片付けてからトイレに二十分くらいこもっていた。マジックで店の名前が表紙にかかれた雑誌をめくっていると、ようやく戻ってきたナルトが向かいに腰を下ろす。

「おごり?」
「んなわけねえだろ」

けち、と返したナルトはお冷のコップを持って傾け、中の水を揺らした。窓からはいってきた光が座卓の上でゆれる。

「なんで」
「あ?」
「なんでラーメン」

具のかすがういているだけの丼に目をおとしたまま、らしくなく俯きこもった声をだしたナルトを目だけ動かしてみたサスケは、むなしさの半分は空腹でできてる、と受け売りを返し、替え玉を注文した。ようやく顔をあげたナルトはすこし腑に落ちないときする癖の、鼻に皺をよせた顔をする。泣きはらした目はまだくしゃついていた。

「よく食うな」
「……まあな」
「おっちゃん、オレも替え玉」

店をでるころ、カバンにいれた携帯電話をとりだすと、キバからのメールが三通ぐらい連続で入っていた。返信を打とうとしたところで、着信をしらせる振動がきた。







しまおうとしてひっかかった抵抗にサスケは眉をひそめ、半ばにらむように目をあげた。

「なんだよ」

プリントを持ったままカカシはうん、と曖昧に肯く。

「おいしかった?」
「なにが」
「アイス」

話の脈絡が見えなくて返した声は不必要にとがった。端的にかえってきたカカシの答えに一拍をおいて思考が追いつく。ふっと喉元から洩れたのは鼻で笑うような声だった。持ち上がったカカシの視線と真正面からぶつかる。色素の薄い目にまざまざと浮かぶ狼狽の色をとらえていた。雨の夜にも見た。好きだったんだろ、と言われたときと同じ目だった。

「…あー、ごめん」
「いい、気にすんな」
「ごめんね」
「だからいいって」

そういうつもりじゃなかったというのは、呆れるくらい子供じみたカカシの狼狽でわかっていた。多分、話す糸口がほしいだけだったのだ。それでもカカシがもう一度、心底後悔している声でごめん、と呟くのに唇を噛む。ごめんねなんて、言ってほしいわけじゃない。謝られることなんて何一つないはずだろう。いえるなら言いたかった。でも言えないし言わない。言いたくもない。

「不可抗力だろ、わかってる」

あんたが困ってることも知ってる。
あんたが揺れないことも知ってる。
みんなわかってる。
水曜日に電車で話せて安心したのはあんただけじゃない。
だからごめんなんて言わなくていい。
もともと言うつもりはなかったんだ。
あんたのことが好きだなんて、伝わらなくてよかったんだ。

泡みたいに浮かんだ言葉は浮かんだだけで、何一つ現実に声にはならなかった。いえない自分はよほど幼い。親の袖につかまる子供みたいだ。なんでもないところで簡単に転ぶ子供だ。ひとしきり泣いて気をひいて気がすんだら立てる、ほっといていい、大丈夫。なんでもない顔で言えばいい。じゃないと意味がない。

肩にのせようとしたのか頭を撫でようとしたのか、伸ばされたカカシの手から逃げた。所在なげに泳いだ手はすぐにポケットにしまいこまれて、触ろうとしたことも逃げたこともなかったことにした。

もし頭を撫でられて目を閉じたなら、犬か子供だ。カカシの手は罪なく優しい。ずっと目を閉じていたい。憐れまれることは気持ちがいい。従兄の友達なんてだれがどうみたって赤の他人だ。家庭に問題があって一人暮らしを余儀なくされている自分はかわいそうな子供なのだ。オレはそういうものだ。

家に帰りたくないからあんたのことが好きで、クソみてえな現実の兄貴がわりにあんたが好きだ。

(そうじゃないと、あんたダメなんだよな)

謝るなよとようやく言うことができた。

(オレはそんなの、いやなんだよ)

優しくしないでほしい、オレのものになってくれないなら。だけど冷たくしないで欲しい、優しくしてほしい。だけどもう一秒だって耐えられなかった。

「……あんたが好きだ」
「……」

黙りこくってしまったカカシにサスケは笑った。

「悪いくせだぜ、それ」

それでも好きだとサスケは囁いた。




「晴天なり。」/カカシとサスケ



みどりのゆび、時系列です。




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