「……あんたが好きだ」 「……」 「悪いくせだぜ、それ」 呆れたような困ったような声音で、それでも好きだとかすれて心臓の上に呪いみたいに降りかかる。御伽噺の魔女がかける呪いは甘い声だったんだろうかと思う。こんな声が通り抜ける喉はどんなに甘ったるいことだろう。 「…そいつ、いませんよ」 「ん」 「こないだのロング休んだんで呼び出しくってます」 あ、そう、とカカシは頭をかいた。名前もいってないのによくわかったなと思う。昼休みの教室は部活動があるものは昼練にいってしまっているし(テスト週間のため部活動は停止しているのだが、昼練は自主練習のため暗黙の了解になっている)、食堂にいって食べるものも多い。 「なんかあるんすか」 「ん、いや」 「呼び出せばいいんじゃないすか。恥ずかしいけど」 犬塚という生徒が指差した校内放送のスピーカーからは花のワルツが流れてきていた。さすがにそれはね、と笑ったカカシににっと笑い返した犬塚少年は再び腕をくむと机のプリントに向かった。 「あ、そうだ先生、英語わかりますか?」 「だいぶやってないよ」 「ここなんですけど」 「だからやってないって…なんだ、単語か。similar。熟語。be similar toで似てるとか同系。be akin toのほうが文語的」 三四郎もよんでないの、と返せば小説みるとそれだけで眠くなる、と犬塚はわらうとプリントに癖のつよい筆記体を書いていった。 「”Pity's akin to love"だよ」 「だから、わかんねーですって」 「辞書ぐらい引きなよ」 「はあい、ありがとうございました」 お礼をいったキバはそれでもういいと思ったのか、プリントをクリアファイルにしまい、机の引き出しにしまって机に突っ伏した。ヘッドホンからもれる音はどう考えても寝るにはおちつかない曲だと思うがお構いなしらしい。風当たりのいい、カーテン越しのやわらかい光がちょうどよく来るところ、つっぷしているのは熟睡する犬みたいだった。 (進路指導室でしょ、どうせ) さっきはいなかったんだけどなあ、とカカシは呟いて歩き出す。たいした理由ではないのは当たり前、小テストの結果なんてわざわざ昼休みにさがさなくても授業中に返せばいいだけの話だ。期末テストの問題は作り終えてしまったし、進路指導用の資料もすでにコピーし終えてしまった。特に押している業務もないから暇だったのだ。 (こういうの、だめなんだろうな) 名指しをしたわけでもない、ただ教室をみまわしてドアの近くにたっていただけだ。だのに寝起きの眼差しに、サスケだろうとすぐさま見抜かれた。ぼんやりと考えてちょっと笑う。 (だめもくそも、やましいことなんてなにもないんだけどね) それでも飲みそこねた散剤のように、あの声が引っかかっている。悪い癖だぜ、と笑った声。だから自分はサスケをさがしているのだ。 果たしてサスケは進路指導室にいた。赤本のほかどこかの作家がだして結構な部数をうった絵本のような進路に関する書籍がきっちりとラベリングをされて収まっている。自分が在校生のころはここに詰めこまれた急かすような未来への圧迫が鬱陶しくてしょうがなかった。 脚立に斜めに腰掛けたサスケはもう一冊を抱え込んだまま書架の背を眺め続けている。脚立をたたくと斜め上から見下ろしてきたサスケはあんたか、と答えた。丹念にぬりこまれた漆みたいに黒くもひかった目はすぐに書架に戻されてしまった。サスケが見ている棚は医療系のものだった。 「医療系いくの?」 「薬か医だな」 迷いなく答えたのに、そんなことも決まっているんだと思う。将来の夢はとか不思議に聞いたことはなかった。答えるサスケの横顔は貪欲に未来への足がかりを探して、横道にそれることはない。 「適性はあるんじゃない」 「だから選んだ」 たいした自信、と返せば口元をもちあげてどこかふてぶてしくサスケは笑い、もう一冊を脇に挟んだ。通った鼻筋や切れ長のすずしい目元、観察するようにサスケを見上げていた。ほんとうによくできた顔だといまさら感心する。書籍の背に指をすべらせながらあんたは、と言うのに、ん、と曖昧な返事をした。 「あんたは、いつまでここにいるんだ?」 「俺?」 「だって臨時なんだろ。それとも就職すんのか」 「あー、うん」 考えてねえのかよ、と思いのほか懐にとびこんでくる問いを発したサスケは呆れたように言い、取り出した本のページを捲る。生真面目に目次に目を落とし数ページを捲ると興味をなくしたのか書架に戻した。午すぎた夏の光はカーテンでさえぎっても白々とさしこみ、物事から影をうばおうとしてかえって暗がりを深くする。白でしかないサスケのカッターシャツにも青い影が落ちていた。 ぽつぽつとこぼす会話は口数の少ないサスケには相応だし、うるさいのをきらうカカシにも相応、いつもと同じよどみがなく、不自然さもなかった。 (もっと、詰ったりだとか、怒ったりだとかあるかと思っていた) けれどサスケが揺らいだのはカカシが不用意なことを言ってしまったときだけで、あとはひとつ残らず日常に塗りつぶされていた。白日のもと引きずりだしたサスケの顔は気づけばいつだって傷ついた子供の顔でしかなかったから、カカシは足踏みをする。横顔を見ながらカカシは自問する。引きずり出して、自分はいったい何を見たいというのだろう? ため息をついたサスケはもう一冊、斜め読みをしていた冊子を書架に戻した。取り出すときの丁寧さとはうってかわった仕草で隣の本を引っぱり出す。壁一面に張られた募集要項の案内や大学の偏差値表、推薦入試合格者の黄ばんだ一覧、毎年毎年あたらしいものに張り替えられるくせに、ひとところにとどまっている顔をしている。死人をいれる白木の棺みたいだ。同じ形を象るくせにまるで違うものでできている。在校生の時代、ここが嫌いだったのは立ち止まっていることを許してはくれなかったからだ。 「オレにかまうより、自分の進路考えろよ」 「耳が痛いね」 「嘘つけ」 本をさがすことをもうやめるのか脚立から足をおろしたサスケは俯いて片付けだした。 行く春も来る夏も卑怯にもみな同じ顔をして根本から違うものに生るのだ。学校は裸になった冬の桜みたいな骨だ。すべてが違うくせに制服や教室で同じ形にはめこんで、花も葉も同じなのだと嘯いている。 オビトはいなくなってしまった。カカシの左眼は色を変えた。線香をいとけない指で自分にさしだした少年はいつのまにか眼鏡をかけ、声変わりをした声で好きだと囁いた。悪い癖だぜと諦めたように詰った。 不意になったチャイムに指先がすくみ体の横に急いで下ろされた。あと数ミリで指先はシャツの肩に触れていた。小さく聞こえた声にカカシは振り返る。資料を抱えたナルトがちょっと驚いた顔で立っていた。すぐに下唇を尖らせて、詰ってくる。 「ずりぃーの」 気づかないサスケに安堵しながら、誤魔化すようにカカシは笑うしかない。笑ったカカシをナルトの碧い瞳が見ている。口止めをしなければいけない。責めるような眼差しで見ないでほしい。 ポケットの中でカカシは手を軽く握る。俺はずるいか。ずるいのだろうか。臆病なだけだ。でもお互い様な気もする。どうせ置いていかれるだけだろう、空はどんなに青くても同じではない。 この部屋はまったく日の入りすぎる分骨室みたいだ。 まるで違うものになってしまう。なってしまった。 「プリント、渡すからあとで来て」 ドアをノックする音にカカシはスクリーンセイバーを起動して画面を隠し、プリントアウトしたテスト問題をクリアファイルに入れて机の引き出しに片付ける。 「おいで」 「期間中だろ」 「いいよ、多分もういないから入っておいで」 ドアは閉めてね、と言えば入り口で躊躇っていたサスケは、後ろ手にドアをしめると足を踏み出した。机の横にたたずんだサスケをプリントをさがしながら見上げる。サスケは不機嫌そうな無表情をしていた。 「来いって言って待たせんなよ」 「あー、口実だし」 お前と話がしたくて、といえばサスケは眉をしかめた。 「オレはない」 「俺にはあるよ。口実だなんて、最初からわかってたろ」 今までだって用がなければ極力声は学校でかけたりはしなかった。携帯電話で簡単に話はつくのだ。 「なにを誤解してるかしらねえけど」 ドラマか小説の読みすぎだぜ、とずいぶん上手に笑った。眼差しを穏やかにやわらげて口元だけを軽くもちあげる。いったいこの方、こんなきれいな笑い方は見たことがないくらいだった。カカシが知っている少年の笑顔はもっと、他人を挑発するか自嘲のまじったものばかりだった。たぶん傷ついたときにこの少年は笑うのだ。 「そういう話だろ。違うか」 「そうだよ。なんで戻んないの。だって、仲が悪いわけでもなんでもないのに」 「なんでって」 なんでっていわれてもな、とサスケはカーテンがしまっていることを確認してから窓際に腰をかけた。本館の四階なうえ、教室棟に屋上はないためそうそうのぞかれはしないだろうが、屋上のある特別棟にだれかがいたら見えることもある。 「俺じゃなくても、おまえ、親には一言あってしかるべきだろ」 「言わない」 短くても決然と響いた声にカカシは驚く。一瞬の迷いも躊躇もなかった。西日を背中からあびているサスケの顔は見えなかった。 「なにがあったの」 「なんもねえよ」 「なんもないわけないだろ」 「なんもないのに、オレがこだわってるだけなんだ」 ほんと、それだけで、とサスケの声はぽつぽつと落ちていった。 「五歳の差ってのはでかいだろ、ガキにとったら」 「そうだね」 「相手にもなりゃしなかった。俺が止めようつったってせいぜい吹っ飛ばされるぐらいが堰の山だ。その日もイタチが母さんのこと殴って、そんでイタチのことをオレがなぐって、オレが殴られてって終わった後に、母さんがさ、オレの痣ができた包帯巻きながら『ちょっと日向のおうちにいきなさい』っつったんだ。それで出た、それだけだ」 キャスターつきの椅子をまわして、カカシはサスケを真正面からとらえる。翳った表情がようやく見えた。それだけなんだ、ほんとに、とわかっていないような顔をしているカカシにサスケは目を伏せて、またちょっと笑った。最初から、伝わらなくていいと思っている笑みだった。 「でも、じゃあ」 口を開きかけてカカシはなにをばかなことをと思う。ただ単にイタチとサスケの不和が原因ならとっくにもどっているのだ。だから問題は違う場所にある。イタチが母親を殴る、母親をかばってサスケがイタチを殴る、イタチがサスケを殴る。 「でも、ミコトさんは、おまえのことを心配して」 「そんなの、わかってる。オレとイタチならオレを出したほうがマシだ。オレが問題じゃなくてイタチがあのときいかれてたんだからな」 帰ってきた答えに自分の言葉はまたすこしずれているのだと思った。 「母さんが、オレのことを心配して言ったのだって、わかってる。イタチとオレがいればいらない喧嘩になるのもわかりきってたし、オレの怪我はひどいし」 わかってる、と繰り返しきいた言葉にカカシはようやく理解した。わかっていることはわかりたいことだ。わかることでこだわらないようにしたい、こだわってしまうことだ。「母さんが」「心配して」「オレが問題じゃなくて」「イタチが」。 「あんたは、いえるか?なんで『オレに』出て行けっていうんだ?なんて。心配してるかしてないかにこだわってんじゃない、なんで―――なんで『兄さんじゃなくて、オレに』出て行けっていうんだ?なんて親にいえるか?そんなこと。オレだって、きっと親だったらそうするなんてわかってるんだ。だから言わない、言いたくない」 『こんなに頑張って母さんのためにやってるのにどうしてオレに出て行けっていうの。なんで兄さんにいわないの。なんでオレなの。どうしてオレがでていかなきゃいけないの。母さんはかばうオレより兄さんのほうがいいの。オレのことをあんまり構ってくれないの。好きじゃないの。同じ子供なのに愛情の量がちがうの。オレは痛い思いも辛い思いもたくさんしたのに、オレに出て行けって母さんは言うの。オレは頑張ってたのに』 家族だからってどうにもならないことがありますよ、とイタチは言ったのだ。 こんなこと、知られたくもない、と笑うために動かそうとした筋肉がまちがって、泣き出す寸前のように歪んだ。 つぶやいた少年の声は掠れていて、そのくせ下手くそに笑った。瞬きをしない目は涙で潤んでいるくせに泣きたくはないのだとはっきり言っていた。 『オレは兄さんとちがって打たないのに』 「こんな、くだらないことにこだわって、あんまりガキで、いやになる」 もうこれ以上とても聞いてられなかった。 しんどかったな、とか辛かったな、とか言える気はとてもしなかった。問題はとうに終わっていて、終わっているのに終われないことがサスケはいやなのだ。だから仕事でもねぎらうようにいうのはなにか違う気がしてどうすればいいのかわからない。わからないまま手をのばして、そのまま頭を撫でた。 俯いた頭をもう一度、恐る恐る撫でる。 「……なに」 「おまえ」 何するんだ、と言われても何を答えていいのか胸の中をどう言っていいのか、こんなときに限っていつもは軽い口がうごかないのにカカシは自分を蹴り飛ばしたい気分だ。いい子だね、と言おうとしてやめた。 「いい奴だね。おれそういうの、好きだよ」 「……あんた、ひどいな」 ふっと笑う気配がして、どうにも遣る瀬無くなって、カカシはそのまま頭を撫でる。払おうとした手を捕まえて、もう片方の手で撫でた。俯いて逃げようとするのもお構いなしにすると力の入っていた腕がだらりと下がる。 「……俺はおまえみたいに、好きだなんて言えなかったよ。おまえの言うとおり、わるい癖だね」 「……」 不器用なくせに、オビトもずいぶん人を好きになるのが上手だった。オビトに好きになってもらえたらどれだけ幸せになれるだろう、そういう風に思わせる奴だった。だから好きになってほしかった。 ほんとに好きだった。 たしかに自分は恋をしていた。 やめるといってやめられない関係、そんなものも欲しかった。 「結婚するって聞いたときも怖かったのもあったし、友達でもいたかったしで、おめでとうしかいえなかった。言えなかったけど、ほんとにオレは好きだったんだよ」 「あんた、未練くせえからな」 「まあね。浮気はしないよ」 「オレもだ」 きっぱり返す生真面目さにカカシは喉を鳴らして笑った。 「だから、お前のも怖いよ」 わかってない顔をするサスケにカカシはちょっと首をかしげる。 サスケはまだ子供だから、まだ色んな人と色んな世界と会っていないから、世界をしればきっと簡単にカカシをおいていくだろう。オビトはカカシをおいていってしまった。 (なのにおまえ、オレのこと好きだなんていうから) 「…あんたが、何をいいたいかわからない」 「ん」 「そういう、期待をもたせるみたいな言い方はよせ。はっきり言えよ」 ごめん、と言おうとすれば謝るな、と覆いかぶさるよう掠れた声で責められた。 「オレが、オレがどうだなんて関係ないだろ。オレの答えなんて最初からきまってんだ」 俯いたカカシはゆっくりサスケの頭においた手に額を押しつけた。何度いわせる、と詰る声に抗えなくて唇をかたい黒髪に落とすとサスケが息を飲んだ。カカシは眼を閉じる。 「…なに」 「おまえ見てると、考えちゃうんだよ。いろいろ。お前は将来なにができるとかできないとか考える。だから怖い」 「そんなの」 「わかってるとか簡単に言わないで。物分りがいいのとなんでもかんでも諦めちゃうの、違うでしょう。やなことは嫌だっていったほうがいい」 物分りが良すぎて歯がゆいくらいだ。もっとわがままを言ってもいい。かわいそうな子だ。思うのもいけない気がする。ごめんね、とカカシは呟いた。 「好きだよ。多分、そういう風に」 驚いたサスケが顔をあげる。多分おいていかれる。自分はサスケの背中を見る。空はどんな日もずっと青い、春に夏においていかれる。それでもいい気がした。 「…なんか言って」 懇願したカカシはゆっくり額をサスケの額に押しつける。 抱きしめられて、かすれて聞こえた好きだはやっぱり呪いみたいにひどく甘かった。 オビトは死んだ。 でもカカシの恋は終わらなかった。 ずっと好きだろう。 たぶん嫌いになんてなれやしない。 晴天なり。/end |
「晴天なり。」/カカシとサスケ |
この終わりだと尻切れなので。ちょっとおまけ。 |