かるい足音がドアの前を通り過ぎたかと思えばひきかえしてきたらしい。ゆるくはためくカーテンから散らばっていた木洩れ日がすこし翳る。立てこんだ任務と梅雨明けからの熱帯夜でまどろみが掠めるだけの日がつづいたせいで、頭から首にかけてなにか生きものがのしかかるような重怠さがある。今も目をとじていただけで眠っていたわけではなかったが、話しかける気にはなれなかった。寝たふりでやり過ごせばどこかにいくだろうとおもったのだ。 名前を呼ぶ声にすぐサクラだとわかった。ささやく声の小ささに目を醒ますタイミングが身を翻して遠くににげてしまった。ふと息をほどく音がしてから、まるで別の生きもののやわく細い指が自分の硬い髪をすこしだけ撫で、ひらりと離れた。ゆれた髪が頬をすこしだけ叩く。 寝てるの、と問いかけでもない呟き声に目をとじていてもどんな顔をしているのか、わかってしまった。道端の色ガラスみたいな翠の瞳が伏目がちにみつめていること、やわらかい唇がほんのすこしわらってから泣きそうになったこと、みんなわかってしまった。 アカデミーの最初のころ、クラスが同じでも一番先に教室にいて一番前の席でいつもうつむいていた。答案の返却のときぐらいしか名前を呼ばれていなかったからしばらく名前もわからなかった。気がつくと山中いのと一緒にいるようになっていて、あんな声をしていたのかと思った記憶がある。 卒業で班が一緒になってから彼女はうるさいくらいに自分に構って、泣いて笑う。涙なんて一年だけで何回見ただろう。人間一年で泣く回数はどれだけだろうと思う。 (バカじゃねえのか) 些細な一言や行動に唇を震わせて目を揺らしている。おろかで無様だ。よりによって、とサスケはおもう。利口な人間ならとっくにやめてるだろう。自分じゃなければしたり顔で忠告しただろう。 ドアのそとに足音がでていったことにサスケは目をあける。昼下がりの光が天井でゆれていた。起き上がって風をいれる窓をとじようとカーテンをつかんだところで、いつのまにいたのだろう。向かいの建物の廊下にたたずんでいるナルトと、目が合う。 全身が細い針でさされたように動かなくなって心臓だけが別物みたいに跳ね上がる。 いつもなにかを探そうとうごいている眼差しはサスケと会う時妙に凪ぐのをしっている。そのたび心臓をつかまれたような気分になる。逸らすこともできないまま見つめていれば、ふと瞬きで碧い瞳はそらされて曲がっていってしまう。 愚かで無様だ。足はまだ動かない。 (バカじゃねえのか) The long way to say goodbye 昼休憩の終わりをつげるチャイムがなる数秒前、待合所にたどりつけば掲示版を眺めている見慣れた猫背が見えた。隣に並べばお久しぶり、と欠伸まじりにいってくる。 「一緒の任務みたいよ」 「……」 「なんなのよ、その顔。恩師にひさしぶりとかなんの一言もないの?」 「てめえでいってんなよ。言う気も萎える」 「言う気もないでしょ」 「わかってんなら言うなよ」 ああ寂しいとわざとらしく呟いた隻眼の男はタバコ吸ってくると喫煙室に向かっていってしまった。辞令には三名の名前が並んでいて憂鬱になる。よりにもよって、だ。 ガラス張りのドアを開け、取り出したタバコをズボンの上で叩いていたカカシが右眼を眇める。 「……なんでお前もくんのよ。誰もいなかったらナルトがかわいそうだろ」 「一本、くれ」 おまえねえ、物頼む態度じゃないよ、と呆れたカカシは手にもっていた一本を寄越しながらポケットに手を突っ込む。 「火は?」 「持ってない」 「ん」 差し出される安いライターを受け取って軽く頭を下げた。癖のあるにおいにやはりあまり好きにはなれないと思う。だがたまに吸う分にはよかった。 「変えたか?」 「ちょっとやめようかと思ってね、軽くしたんだけど」 「本数は」 「ぎりぎり増えてない。それよりおまえ」 「なんだ」 目をあげるとカカシが相変わらずあまり熱のない、呆れたような顔をしてこちらを見ていた。 「体調は平気なのか」 「なんでだ?」 「すこし痩せてない?寝れてもなさそうだ。暑いからって栄養のないもんばっか食ってんじゃないよ」 ばれたかとすこし笑うと、笑ってんじゃないよとますます呆れた声がかえる。 「……きたみたいだよ」 言われなくても見つけていた。 喫煙所のガラス越し、キバの隣で眉をひそめている。立ち上がったカカシに気がついたらしく笑ったナルトの顔が、サスケをみてすこしだけ強ばった。カカシが右眼だけを動かしてこちらを見てくるのがわかったが、顔の表面だけは平静を保った。 かけようと思った声は臆病にも喉にひっこんでしまった。胃袋の上あたり、気持ちがわるくなると膨らむような気分がする変なあたりでぐるぐるととぐろをまいている気がする。こんなとき、落ちる気配のないどちらかと言えば遠視気味の自分の目がいやになる。 細い指先までいっぱいに満ちた、きっと桃みたいな香りがするにちがいないあたたかい優しい、甘いなにか。緊張感をはらんでいてでも眼差しが春を知った鳥みたいな喜びにみちあふれている。 ナルトの知る彼女の顔はいつでも直向きに恋をしている。泣いてるときも怒っているときも、アカデミーで仲間はずれにされて時々泣きそうになっていてもまっすぐ顔をあげて眼差しを強くして全部、いつもサスケが好きだと全身で言っていた。ナルトはそういうサクラが好きでしょうがなかった。 あんな指に触れられたらきっと自分の心臓は喜びで壊れてしまう。けれどサスケの心臓は揺れないのだろう、きっと。いまも見下ろすサスケの目は黒硝子みたいだ。眼差しをふり切って走り出す。 (ずりぃよ、そんなの) だけどサスケはナルトのことが好きだと言う。 そしてもうやめるのだと言う。 「なんだよナルト、おまえ機嫌わりぃのかよ」 「んなこたねーってばよ」 冷めかけのから揚げを頬張ってナルトは首をふる。目の前にカツ煮定食のトレーをおいたキバはおまえがラーメンじゃねえっていうのもな、とちょっと人相がわるくも見える薄めの唇をもちあげた。 「オレだって悩むお年頃なんだっつの」 「……」 「なんだよ、その目ェ!」 「悩むもアレだけど、お前のウドンなみの神経で繊細なんて語られたらオレはどうしようかと思うぜ。おまえこのまえシカマルんことキれさせたろ」 「……ッ」 「あのめんどくさがりがキれるなんてあんまりねえーんじゃねえの?なにやったんよ?」 黙秘とばかりにもそもそと白いご飯をかきこみはじめたナルトにキバは味噌汁の碗をもちあげながら呆れる。 「まあつっこまれたくねえんならいいけどよ、いいかげんガキじゃねえんだ、謝っとけよ」 ちなみにそれ言う相手根本的にまちがってるからな、とシカマルに言われたら誰に謝ればいいのかと思う。しかも謝った相手とは、ぜんぜん会っていない。割り箸を噛んでいるナルトの目の前でキバは欠伸をした。 「夜勤明け?」 「まーな。明け方に国境の哨戒してたんだけどよ、どっかの間諜じゃねえかっておんなじ報告八回ぐらいさせられたんだよ」 「へえ」 「オレより帰宅寸前のサスケとかのが捕まっちまってかわいそうだったけどな。ま、結局、怪しいのは捕まったからこれから俺寝んだ」 明日非番だし、と笑うキバがゆっくり昼をとっている理由がよくわかった。自分はチャイムがなったら待機所にいかなければいけない。最後のから揚げを口に放り込む。 サスケもきっと今日は非番だろうとすこし安堵する。安堵したことにすこし落ち込んだ。 「……あーもう、わかんね」 から揚げをもそもそと噛みながらナルトはテーブルに突っ伏した。ざらりと机にひろがった金髪にキバは悩んでるというのもあながち誇張ではないらしいと考えなおす。 「お前よ、考えたってバカなんだから考えんなよ」 「キバ」 「あん?」 「おまえ、モテねえだろ」 「相手によりけりだぜ、オレの態度は。お前には最適のアドバイスのつもりなんだけどな」 「嬉しくねえよ」 「慰めてやってるわけじゃねえからな」 「……なんかその口調アイツに似てるってばよ」 「アイツ?」 「サスケ」 言って落ち込んだナルトは再びテーブルに懐いた。一見、やさしいとわからない優しさだ。だからきっとサクラはいまでもサスケが好きなんだろう。 (そんでどうしてこうなるんだっつの) 後ろで昼休憩が終わりのチャイムがのんきに鳴っている。あいた窓からはすっかり夏めいた緑のにおいがする風が吹いて辞令の紙を揺らしていた。 「うへ、サスケ今日シフト入ってたのかよ」 災難だなあとキバが声をあげるのに、ナルトはため息をついた。 カカシに会えるのは久しぶりだから嬉しい、でもサスケと一緒だなんてとちょっと構えてしまう。謝ったあの夜から一ヶ月は経っていた。顔をみてもせいぜい一言か二言か交わすだけで終わっていたから、どうすればいいのか困る。 廊下をひとわたり見回して、いるとキバが肩を叩いた。 「あっち、おまえんとこの担任といるぜ」 「あ、ほんとだ」 ヤニで黄色くなった擦りガラスではない上半分をのぞきこむと、なつかしい顔があった。色あせたガラスの向こう、カカシがなにか言うのにサスケがなにかを返して、すこし笑う。唇だけではなにを言っているかはわからない。タバコをくわえている口元に目がいってしまう。いつ吸い始めたのだろう。 「オレらんとことかあんまりもう紅先生とつきあいねえけどな」 「オレだってねえってばよ。ほら、シャリンガンあっから」 「あ、そか」 キバへの返事はなんだかいやな響きになって、ナルトは内心でぶすくれる。サスケが絡むとどうしてこう自分の感情がささくれだつのかわからない。喜びにしろ怒りにしろ、戸惑いも振幅が大きすぎる。 カカシはサスケびいきだと言うと否定するが絶対うそだ。 ふとサスケの目があがってナルトを見るのに、肩がゆれた。カカシがのんびりと立ち上がりドアをあけるのにナルトは安堵してようやく笑う。 「んだよ、二人して仲良くサボってんなっつの」 「お前が遅れてきたんでしょ」 「先生にだけは言われたくねえっつの。トータルしたらオレのがきっちりしてるってばよ」 「にしてもお前伸びた?」 カカシがナルトの頭を指差すのに、ナルトはにっと唇をつりあげる。 「大器バンセイっつうかんな、先生を見下ろす日も近いぜえ」 「サスケのが高いけどね」 ムキッとナルトの眉がつりあがるのを見透かしたようにサスケの声がかかる。 「くだらねえこと言ってねえでとっとと移動するぞ」 くだらねえってなんだってばよ、と呟いてもサスケは振り返らない。つっかかりなさんな、と十二のときとなにひとつかわらない声で首根っこを掴まえられる。 (いつだってオレの言うことなんか、くだらねえって言うくせに) 「サスケ……待てよ!」 カカシの手をふりきってナルトは走る。 サスケは振り返らない。 爪先が床を叩いている。ドアが開くのに視線をあげるがでてきたのは包帯を巻いた見知らぬ中忍らしき男で、立ち上がろうとした動きを中途で止めた。男はナルトをみると大仰に眉をしかめて歩いていってしまった。ストローに口をつけてから、もうすでに飲みきってしまっていたことに気がつく。 ナルト、と低く響く声に振り返ればカカシが手招きをしている。はしりよったナルトは壁にもたれかかったカカシの左脇にしゃがみこんだ。困ったよう声がため息混じりに降ってくる。 「どこ行ったかと思ったじゃない」 「オレ、居てもあんま意味ねえから」 笑うナルトにカカシが驚いたのあと、困ったような悲しいようなわけのわからない顔をした後、前を向いていつもどおりゆるい笑みを刷いた。 「待たせて悪いな。話、終わったよ」 「……んで、なんだって?」 「まあ軽い脳震盪。頭打ってるから大事とって今日はこっちに泊まりだってさ」 ほんのすこしだけ右眼をやわらかく眇めるのにナルトはようやく息を吐いた。カカシの、表情をよませない癖がこういうときばかりはいやだと思う。 「明日一応検査だって」 「へえ」 やめときゃよかったかな、とカカシが零すのにナルトは顔をあげた。億劫そうに首の後ろをかくカカシの顔は額宛とマスクで覆われていてちっともわからない。すこし前かがみになって覗こうとしても見えるはずもなく、ナルトはあきらめて背中を壁につけた。 「やめとけば、ってなんで?」 「顔色悪いなあとは思ってたんだけど」 まさかこんなヘマするほどとは思ってなかったから、とカカシは見通しが甘かったと首を傾げる。 「……全然、わかんねかった」 「そんなもんでしょ。それにこれはサスケのミスだしねえ。この三日で六時間くらいしか寝てなかったらしいよ」 げ、ともらすとカカシは笑う。 「二日ぶっ通しの任務のあとで帰宅間際に緊急でヘルプに呼ばれちゃったんだってさ。しかも暑くて寝れなかったって」 ばかだよねえ、と笑うのにナルトはふうんとつまらない相槌を返すだけだ。細い曇りガラスの向こうから、すこし赤くなった光が落ちてきているのを見ている。 「キバが」 「ん?」 「犬塚キバ、がさ、今朝ヘルプでサスケんとこの隊が呼ばれたみたいなこと言ってた」 「じゃあそれか。無茶するなあ」 だっせーの、と呟くと喉を鳴らしてカカシは笑った。 「まあ、たいしたことじゃなくてよかったよ。引き上げようか」 「ん」 病室に入ればサスケは寝ているらしかった。 寝ていても顰め面の閉じたままの瞼に血管がすけて見えている。寝息はゆっくりとしていた。 トイレ行って来る、と出て行ったナルトを見送り、カカシは枕もとに置かれた紙コップの飲み物に手をのばし、止めた。 「起きてたの?」 目を閉じたままのサスケの唇が動く。 「いや、起きた」 「そりゃ悪かった。もう引き上げるよ」 「……悪い」 「気にすんならもうちょっとしっかりしな。なにがあったか知らないが、あんまり先送りにするなよ」 含みのある言葉にサスケがようやく目をあげるとカカシは錆びた目で見下ろしている。 「ちがうか?なんかあっただろ」 「なにも」 「ないわけないだろ。体に影響がでることはおざなりにするな」 わかってる、とサスケは息を吐き、もちあげかけた頭を枕に戻した。天井を見つめる。 「俺も覚えはあるけど、お前らお互い意識しすぎなんだよ。羨ましいのか」 何気なく言った揶揄に思いのほか真摯な声がかえってきてカカシは驚き、元教え子の面白みがないほど整った顔を見下ろす。 「べつに」 とけた氷が紙コップの中で小さく鳴った。サスケの黒い眼がちいさく瞬く。 「別にあいつをうらやむわけじゃない。自分にはできないと思うだけだ」 ふいにカカシの指の背がサスケの額にぶつかった。少しだけ髪を撫でられる。慣れない感触に眼を眇めるとやたら優しい、教えた技を成功させたときのような眼差しをしていた。居心地が悪い。 「……なんだ」 「おまえ、それってさ、すごい好きってことだよね」 なんでそうなるんだよ、と顔をしかめるがカカシはお見通しだと言うように笑い、氷もなかばとけた紙コップを傾けた。 「こいつには負けたなあって思うのって、そういうことでしょ」 「あんたもだろ」 言い返せば笑う男は否定もせず、どこか楽しそうに懐かしむように頷く。 「そうだね。ナルトは、いいよねえ。うん、いいよ」 「じゃあ褒めてやれよ」 ばかみたいに喜ぶぜ、と付け加えればカカシは肩をすくめるだけだ。 「俺そういうの下手だしなんか言えないんだよ。しかもあいつ褒めちゃうと、頑張りすぎて空回りするだろ。小さいときはフォローきいたけどさ。でもさ、すこし驚いた」 「なにが」 「好きっていうの、おまえ否定しないのね。言ったの?」 一瞬息が詰まる。 「あんたこそ、やめろとかいわねえのかよ」 「俺もろくな人間じゃないからねえ、えらそうなこといえないよ。そうだな、サクラにあんま心配させなさんな」 「……」 「ナルトと一緒の任務にするなっていってただろ。だから心配してた。そしたら案の定、これだし」 どんな顔を自分はいましたのだろう。すこし驚いたカカシの眼差しがことさら柔らかくなった気がした。何が厭といってこの男は心底、人が苦しんでるときにあまり上手に優しいのが厭だ。カカシの手が頭の上にのって髪の毛をやわらかくかき回す。ふざけるなと思う。子供扱いだ。お前すぐ煮詰まるんだからさ、とカカシの声が落ちてくる。 「もうちょっと、わがまま言ってみれば?おまえはいい奴だよ」 こんな手は今欲しくない。サクラの名前も聞きたくはなかった。彼らは自分に甘すぎる。声はあまりに無様にかすれるが、それすら何でもないことのようにカカシは笑う。我が侭は二度だけ言った。けれど叶わなかった。ならもう二度とは言わない。この心はつぶれて砕ける。 「……どうしようもねえだろ」 「……あれ?」 どこ行ったのよ、あいつは、と廊下を見渡したカカシは首を傾げた。傾きかけた夏の日が注ぐトイレを覗くが居る気配はない。 「……なにやってんだ、てめーは」 ウスラトンカチ、となにひとつかわらない声でサスケが言うのにドアに手をかけたままのナルトは息を吸う。 「カカシなら帰ったぞ」 「知ってる」 「ならお前も帰れよ」 「言われなくたって帰るってば」 ベッドに腰をかけているサスケを改めて見れば顎のあたりがそげていて、傾きかけた金色の光にまだ未完成の細い輪郭がみえる。唇のいろは悪いし、顔色もまだ悪かった。言ったきり病室に踏み込んできたナルトにサスケの眉が訝しげにひそめられる。ナルトに対するとき、サスケはいつも顰め面だった。 穏やかな顔なんて間近で見たこともない。それどころかナルトなんていつも歯牙にかけないような顔をしている。だからいつも、突っかかるしかできなかった。 「だせーこと、してんなよ。かっこわりぃ」 「そりゃ、悪かったな」 本調子じゃねえんだ、と面倒くさそうな声であしらわれるのに、拳を握る。いつだってなんだって自分ひとりで勝手に結論をだす、サスケのそういうところがナルトは厭だ。カカシとは色々話すくせに。 「……なんで、おまえオレんこと避けるんだよ」 聞いていたのかというように驚くサスケの目をナルトは覗き込む。自分の指先ひとつで震えた、あの感覚をナルトはいまも覚えているのに、もうやめるのだとサスケは言う。 「……おっ」 ぎしっと噛みしめたナルトの歯が鳴った。サスケの手首を掴んでひっぱる。よろめいたサスケがナルトの肩に手をついて離れようとするのを掴まえて、ナルトは押し殺した声でみじめに怒鳴った。 自分はサクラが好きなはずなのに、おかしなことを言おうとしている。けれど言わずにはおれなかった。 「俺ンこと好きっつったろ!」 唇がわなないた。たかが言葉ひとつで押さえこんでいたものが全部笑って肋骨の裏側を這いまわりざわめいてくる。潮騒のような音がうるさい。ナルトが掴んでる手首がひどく痛かった。 「……だから、なんだよ。それで、どうした」 「……」 「手、放せよ。お前には付きまとってねえだろ。そんでなんだよ、サクラと付き合やいいとかまたお前は言うのか?ざけんな、死ね」 唇は卑屈で無様に歪んだ笑いをかたどった。瞼がひどく痙攣して頬も引き攣れを起こしたが眼差しだけは揺れなかった。眼球はこんなときでもナルトを捕らえたがる。ナルトの顔が大きな指でつぶされたように歪んだ。 「そんなこと、言ってねえだろ!」 痛い。手首どころじゃなく痛かった。爪切りをしたばかりなのかささくれだったナルトの爪がサスケの手首に食い込んだ。眦が痙攣して眼球がゆれるたびに世界も揺らいだ。 「……放せよ」 「いやだ!」 「放せ、ガキかてめえは」 「いやだ。ぜってえ放さねえ」 放せよ、と小さくつぶやいてサスケはきつく眼を閉ざし息を吐いた。傲慢な声だ。命令する声だ。サスケに跪けという声だ。 「……放せ」 子供の幼さで首をふってサスケの望みをこっぱみじんにうち砕いていく。なにもかも投げ出せと突きつける声だ。サスケに全部棄てさせる、だけど手に入らない、そういうものだナルトは。 「サスケ」 「やめろ」 「オレは、オレはさ―――オレ、どうすりゃいい?」 そんなの、オレこそがお前に聞きたい。 顎を掴まれて眼をのぞきこまれればたやすく陥落する。指一本言葉一つ、眼差しひとつだ、最低最悪だ。 「答えろってば、サスケ。お前がいねえのはいやなんだ。お前の好きとか、よくわかんねえよ、でもお前それじゃダメなんだろ。どうすりゃいい?なあ、オレよくわかんねえんだ」 「オレがしるかよ、黙れ」 「お前がいねえのはいやなんだ」 巻き込んでしがみつくように抱きついてくる腕に、こめかみにあたるやわらかい髪のかさついた感触に比喩でなく鳥肌が立ってサスケは絶望する。 なんでこんなひどいこと言われてる時ですら、オレはお前に欲情しなきゃいけねえんだ、最悪だ変態野郎、頼むから死ね今すぐ死んでくれ。復讐があるんだ、復興もあるんだ、おまえなんかいてもいなくても俺の道は変わりなく繋がってなきゃいけねえんだ。頼むから黙ってくれ。 「お前が――誰かといんのもやなんだってば」 喉笛が悲鳴をあげそうになって痙攣する。ぶざまな息の音が頭の中で何度も鳴った。強ばった唇にすいつく息遣いの熱に眼を見開いた。間近に瞬いて光る青い目の剄さ、首筋をつかまえるぶあつくかわった皮膚の指先。 自分の力だけでどうこうできるものなら掴みとって抱きしめて二度と放さない。けれど大事なものはいつも手の中になんておさまらず、どうしようもないなにか大きな掌に攫われていくこと、サスケは事実としてしっている。負けないと思っても立ち竦んでいるしかできなかったことはたくさんあった。 けれどサスケをまきこむこの手は何もしらないのだ。 望んで叶わないこと掴まえられないもの、そんなものは一つだってないんだといっている。 ナルトになりたいわけでも羨むわけでもない、微塵もそんなことは思わない。ただ自分には出来ないとだけ思う。 「キスできりゃいいか。それとも、そういうのできなきゃダメかよ、なあ、サスケ答えろってば。なんだってする、できる、オレ。お前が」 ナルトの眼差しがあがってサスケの眼をのぞきこんでからめとる。睫が睫を撫でた。震える親指がかさついたままの唇をゆっくりとたどり、かすかに促すよう押してくる。ナルトの額がサスケの額にぶつかり、互いの髪の毛がざらついた。はちみつと同じいろの光が睫にまつわっている。 「お前んことが、オレ好きなんだ」 唇の上掠れて響く窒息しそうな声、サスケが敵うことなんてなにひとつない。いまさら逃げたくなったが、動くのは心臓だけだった。夜は落ちかかろうとしている。 |
「The long way to say goodbye」/ナルトサスケ |
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