左頬が痛い。奴の指が引っかかって耳あてがずれ、寒い二月の空気にさらされた耳も痛い。ピアスのとこからジンジン冷えていく。口の中ですこし血の味がした。
財布にいれてたキーホルダーから家の鍵と自転車の鍵だけをはずして、いのは閉じたばかりのドアの前に落とす。葉っぱが落ちるみたいな軽い音にドアを蹴り飛ばそうとした足を下げた。 コンビニの袋を持ち直していのはやってきた道をゆっくりと戻る。ふたつの肉まんは冷めてしまってるだろう。街灯がまるく白く青い夜を溶かしていた。 (煙草吸いたいなー) 二十分近く歩いてようやく自分の家の近くに戻ってくる。いくつかもうシャッターをおろしてしまった商店の通りを歩いていき、細い路地の後ろに回れば坂道をおりてくるシカマルがいた。 「おう」 ジャージに長めのダウンをひっかけたシカマルはポケットに入れていた手を持ち上げる。じゃらりと硬貨の鳴る音がした。 「シカマルー、煙草持ってる?」 「あ?持ってるけど」 「肉まんあげるからくれない?」 「別にいいけど」 サイフを取り出してからコンビニ袋をおしつけると、シカマルが尻ポケットからぐしゃぐしゃにつぶれた煙草を取り出す。二本抜き取ると、そんだけでいいのか、と聞かれていのは笑った。 「冷めてるし、ちょっと吸いたくなっただけだからねー」 「ばれないようにしろよ」 「わかってるわよー」 二本の煙草をもちあげてありがとね、いう。シカマルはコンビニ袋の中を見てちょっと眉をしかめたが何も言わない。 「じゃあねー」 「おう」 「あ、うちのお父さんは?」 「うちんちで飲んでる」 「はーい」 「めんどくせーからばれるようなことすんなよ」 「わかってるってー」 いのの父親はいのを溺愛してるのだ。シカマルが厄介事はごめんだからな、という顔をするのに笑う。シカマルやチョウジのいたずらをいのが真似をするのに、いのの父親はシカマルの父親に酒にまかせて遠まわしにいやみをいう。とうぜんとばっちりはシカマルに行くのだ。煙草を持ちこんだのもシカマルに決まってるというに決まっていた。 坂道をのぼって玄関をあけながらいのは斜めに振り向いて、街灯のあかりを背中にまだらにうつしながらゆらゆらと歩くシカマルを見る。シカマルは坂道の下の電話ボックスに入っていった。 (変なのー) わざわざ電話を外でかけるなんてわけがわからない。 母親は店の事務作業をこなして机に散乱したリボンやラッピングペーパーのそばで電卓を弾くのに忙しく、顔を見せなくてすんだ。店の裏側にある家は玄関をあけてすぐに階段になるのも幸いだ。 鏡をみるとやっぱり左の頬ははれてしまっていた。水を含ませたタオルを当てながらいのはため息をつく。部屋の中をあさって紙袋に部屋の中にある、もらったものを全部突っ込んでいく。捨てるのは躊躇ってしまって、いつか返しにいこうとだけ決めた。報告書がちらばった机からタバコを取り、自分の部屋のベランダをあけると洗濯機の横にしゃがみこみライターを取り出す。ライターは喫煙者のいない自宅にはないから随分まえに自分で買ったものだ。まるくあがった青い火に先をおしつけて一息吸った。 さっぱりしすぎなんだよ、と責める掠れた声は泣きそうだった。 (……サスケくんだったらきっとあたしもっと可愛くすんだろうけどさー) とんとんと灰を落としながら上をみあげて煙をゆっくり吐き出す。庇に煙の糸がしろくまつわって、夕闇にとけていった。ネイルがはげかけていた。きっとサスケにならこんな爪を見せられない。 (なんでもしてあげちゃうんだろうな、部屋とか行ってさー、うざいとか言われちゃうぐらいに) アカデミーの頃からずっと憧れて好きで好きで好きで好きで好きでしょうがない。 (でも叩かれて痛かったなー) ごめんと謝ることはきっともっと彼を傷つけるからできない。頬っぺたの痛みで許して欲しいなと考えていのはシカマルにもらった二本目を指に持った。フィルタに思わず歯を立ててしまって、いのは眉を顰めると、ベランダの排水口に押し込んだ。 こんなんじゃいけないなあとは分かっているのだ。 電話よ、と階段したから顔をのぞかせた母親にいのは無言で肘を交差させて頭を横にふる。母親はもういい加減にしなさいよ、ため息をつくと、暖簾の中に頭をもどした。すみませんね、と謝る声が聞こえる。 「電話料金がすんごい高いから、問い詰めたんだ。そしたらシカマルの奴な」 「どうした」 「自分の部屋に電話つけてやがってなあ、まったく参った」 シカマルの父親の笑い声がテレビの音と一緒に聞こえた。久しぶりに帰ってきた彼は土産だといって酒をもちこんだものだから、母親は忙しい。だがいのはすこし相手をすると、すぐ二階に上がってしまった。 サクラにはちゃんと話をしなさいよ、と怒られた。サクラの知り合いでもあるから、きっと誰かを通して頼まれでもしたのだろう。外にでる気もおきなくて、2日の休みのほとんどを家で過ごした。頬を腫らしていたのを父親に見咎められてしまい、喧嘩もしてしまった。 (荷物かえしにいかなきゃいけないよねー) 「いのちゃん」 「なーにー?」 「ちょっとおつかいいって来てくれる?お醤油かってきてくれないかしら」 わかった、といっていのは上着と紙袋を取り上げた。 スニーカーを下駄箱から取り出すと、母親が財布を渡してくる。 「なにかおやつ買って来ていいから」 「はいはーい」 気をつけてな、と顔をのぞかせたシカクにいのは頭をさげると、シカクがはだしで玄関に下りた。 「いのちゃんにな、土産もってきたんだ」 「えー?」 「ちょっと砂に行ってきたから、あっちの女の人が細工する奴だけど」 ちいさな皮袋をシカクは取り出して笑う。いいかげん、お菓子じゃないだろうしと笑うのにありがとうとうけとって手のひらに落とし込めば、藍を固めたような瑠璃玉に幾重もあみこまれた色紐がつながった腕飾りだった。正直、もってる手持ちの服にどう合わせられるかはわからない。でも鏡のそばにおいていたら綺麗そうだ。 「いのちゃんも大きくなっちまってなあ」 「って別に会ってるじゃないですかー」 笑ういのにシカクはもう一度、気をつけてな、と笑った。いのの父親がなんだあと顔をのぞかせるのにシカクは戻っていく。行って来ます、とドアを閉じると、ついいましがた見たばかりの髪型がゆらゆら歩いている。相変わらず姿勢がわるい。 「なにしてんだよ、いの」 「……べつにー」 ふーん、とシカマルは斜め上をみるとジャージのポケットからぐしゃぐしゃの紙幣を一枚とりだした。 「お前さ、両替できない?」 「何両?」 「これ、硬貨にしてえんだけど」 「見てみる、あ、あったあった、あったわよー。はい」 母親の財布を開いて硬貨をとりだしてシカマルに渡すと、シカマルがいつもと同じつまらなさそうな顔でいのを見下ろしてくる。いののもった紙袋をみて、いのをみて顔をしかめると、じゃあなと坂道をおりて電話ボックスに入っていった。 駆け足で屋根をこえれば20分もかからない、10分近くですぐにいける。アパートの部屋に荷物を押し付け、階段をおりたところで出くわしてしまった。 「荷物、かえしにきただけだから」 「――そうなんだ」 犬みたいな目が今にも涙をこぼしそうでいのは唇を噛んだ。 「じゃあ、用事あるし。ごめんね」 なにかを言わせる間もあたえず言い募る。またねは言わなかった。呼び止める声を振り切って走り出した。あまり遅くなると母親が困ってしまうだろうと言い訳をする。 (ちょっとだけでいい) (彼じゃない誰か、サスケくんは無理でも) (ぎゅうっと抱きしめてくれればいいのに) 走って走って足が持ち上がらないと思うほど速く走って、いくら空気を吸っても胸の真ん中ぐらいでぜんぜん呼吸した気になれない。少しずつ速さをゆるめて立止まる。 いのは顔にはりついた髪の毛を耳にかけた。電話ボックスの中だけがとても明るくて、ボックスにしゃがみこんだシカマルが俯いて笑っている。 聞き取れなかったのか、受話器を耳に押し付けるシカマルの腕で光ったものに驚いた。 琥珀玉の細工だ。今もらったばかりのものと色違い、きっと砂の国のだ。 (自分の部屋に電話つけてやがってなあ) どん、とガラスを外からけっとばすとシカマルはぽかんといのを見あげてきた。 それから折りたたみになったガラス扉をおしあけて顔だけ覗かせる。受話器は持ったままだ。両替は全部電話代だったのだ。 「べつに」 「つーかおまえ、顔どうした?」 「ちょっとねー」 「おまえよ、もうちっと男とかしっかりしろよ。あんま親父さんに心配かけんじゃねーぞ、めんどくせーんだから」 「いいでしょ、別にー」 とがった声を返せばはいはい、と唇をへの字にしてシカマルは受話器をおさえていた手をもどして、もうちょっと待ってと精一杯ぶっきらぼうを取り除いた声でいった。指にからんだ色紐がよく見える。 ふいに熱湯でできたビー球が眼球を下からゆらしてぼろっといのは泣いた。 シカマルはぽかんと口をあけて見ていた。 |
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いのちゃんのお話。 |