玄関で誰かが靴をはく物音に少年は起き上がった。冷えてすこし湿ったような畳を踏んで廊下にでれば、猫背でしゃがみこんでいたのは父だった。 ここ何ヶ月か父は病気で長い休みをとっていてずっと家にいた。昼は具合がわるいらしくご飯もろくろく食べずに寝ているけれど夕方になるとよく遊んでくれたし修行もみてくれた。夜中に二人で散歩に出たりもした。翌朝、少年が目を擦っているのを見咎めて母はいい顔をしなかったが、怒るわけではなかった。子供によくありませんよ、とすこし疲れたような口調できまりきった台詞をつぶやく。父もそうだな、と曖昧に言うだけだった。少年は夜歩くのが好きだったのでなにもいわなかった。 廊下を踏んで近づくと、父が振り返る。 「ちょっと、いってくるよ」 とうとう長い休みも終わりなのだろう。どこかとかいつまでとかを教えてくれないとき、父は仕事なのだと母が教えてくれたのは随分まえだった。 「いってらっしゃい」 朝の空気で冷たくなった新聞を受け取って抱えこむ。戸締りを、といわれるのに肯いて玄関にはだしで降りた。すこしもやがかった道を父は猫背であるく。ポケットに手をいれてゆらゆらと歩くのは、夜中と同じ足だった。多分父は夜が怖くないのだ。自分は夜歩くとき、いつでも逃げそうになる足をおさえなければいけないのに。 父と交わした会話はそれが最後だった。夕方、父はすこしはなれた森で首をくくった。 だから少年が思い出す父親は、いつも背中だ。 as a dog 彼は未だ恋を知らなかったので。 里の中でも大門に近く運河のめぐる界隈は古びた商店や住居の入り混じった高楼がならぶ。陋巷をおおいつくす原色の看板や洗濯物、棟に細い回廊がはりめぐらされている様子はしたから見上げると蜘蛛の巣のような按配。通路とはいっても業者にたのんで工事されたものではなく、いれかわりのおおい住民がめいめい好き勝手に架けたもの、慣れないものがうっかり足を踏み入れると進んだかと思えばまた同じ部屋の前にでたり、上っていたかと思えば下っていたりと迷いやすい。 カカシが歩いているのも増築に増築をかさねて蟻の巣のような高楼のひとつ、あずけていた刃物が仕上がったと業者からしらせがあったので引き取りに来た帰りだ。装備もまた戦力のひとつのため、クナイからベストまですべて支給品になるが、使いでのいいよう個人で改良するぶんにはかまわない。自分で手入れをするものもいたし里から認可をうけた業者にあずけるものもいる。カカシもどちらかといえば自分で手を加えるほうだったが、先だっての任務で手持ちの半分ちかくの忍具がいかれてしまい、ものによっては鍛冶師に打ち直してもらわなければいけないものもあった。だから諦めて預けたのだ。 夕霞はだんだんと薄れて空には深い夜の色が透けだしている。すぐに暗くなってしまうだろう。このあたりは住民の入れ替わりがはげしく、建物も古びているから明かりがつかないことも多い。夜目は職業柄きくが、明るいにこしたことはない。狭い廊下をいちいちあるくのが面倒になったので、カカシは脇の手すりに足をかけた。 (あれ) 向かいの棟のななめした、みなれた紺一色の上着にそめぬかれた臙脂の団扇紋、木の葉広しといえど背負うことをゆるされたのは今はもう一人だけだ。ハーフパンツに両手をつっこんで歩いている。 おーい、と呼びかけると振り向いた。ひらひらと手をふると遠めにでもはっきりと顔をしかめたのがわかる。 だが気位の高い猫のように顎をそびやかして歩いていってしまった少年は、手すりに片手をついて乗り越えるとそのまま飛び降りた。二十センチほどの板をわたしただけの通路に危なげなく足をつける。ふられちゃった、と歩き出そうとしたところで、小さな影が目の前に身軽く降り立った。 「何の用だ」 用だもくそも見つけたから呼んでみただけの話だ。すぐ来るなんて犬みたいだ。正直にありのままを言ってしまえば機嫌をそこねるのがわかりきっていたから、カカシは適当に夕暮れの川をゆびさして、いい眺めだよ、といった。そんなことかよ、と呆れたように鼻をならしたサスケは眼差しを眼下の町にむけた。 舗装された運河にもやわれている船に明かりが入りはじめた。ぽんぽんと軽い音をたててボートが行き過ぎる夕映えの水面に蜻蛉の影がうつろっては消える。冴えだした風が頬を撫で、髪を乱す。夕凪が終わって風がでてきたのだ。金色の雲が高いところをゆっくりと流れていた。明日は風がつよく晴れた日だ。 すこし長めの前髪が目にかかるのがわずらわしいのだろう、切れ長の目を眇めている。なにをそんな熱心に見てるんだろうと思っていると、目が合った。 「なに見てんの」 「…あんたがなんか見てたんじゃないのか」 「いや、ぼけっとしてただけだよ」 なんだそれは、とまた鼻を鳴らしたサスケはゆっくりと歩き出す。追いかけて歩くとなんでついてくるんだといわれた。 「だって帰るんじゃないの?俺もこっちだし」 階段を下りながらつづければ、そうかとサスケは短く言葉を返した。 「こっちよく来るの」 「巻物が」 「ああ、あそこ?」 向かいの建物の五階ほどにちいさな古書肆がある。春夏冬中とかかれた札がさがっているだけで、屋号もなにもない。いつから経営しているかはしらないが老夫婦とその娘らしい女性がかわるがわる店番で座っているだけ、天井までびっしりと巻物と本で埋め尽くされていた。 「古い奴しかないでしょ」 「ただなら何でもいい」 立ち読みなの、と呆れてしまった。 「こないだあげたのは」 「……ちゃんと見てる」 「ふーん」 入った間がすこし嘘っぽい。存外わかりやすいサスケにカカシは喉を鳴らして笑った。 角をまがると長い影が足元から伸びる。すこし早めに足をうごかす子供はまるで犬みたいだ。まだ小さいほそい影と、猫背の自分の影が並んで伸びた。よくできた親子の影絵をカカシは見ながら足を進める。踏みつけようにも影だから逃げて踏めるわけがない。 「サスケ」 「なんだよ」 「夜って、怖い?」 「…忍者がそんなこと言ってられるかよ」 「じゃ、怖いんだ」 さらりと返すと形のいい眦がきれいに吊り上った。ちょっと喉で笑う。揶揄ってるようにみえるだろうことは重々承知だ。 「俺は怖いよ」 歩く自分の足取りは、自分でもぞっとするぐらい父親と似ているような気がした。 「今度、やってみようか、巻物の」 「……」 「都合悪いならいいよ」 「いや、やりたい」 サスケがすこし小走りになるのがわかった。だけど歩調を緩めようとは思わなかった。斜めに見下ろせば黒瑪瑙みたいな目が向かってくる。ほんとうによく躾けられた犬みたいだった。 あいかわらず猫背の自分の影はゆらゆらとあの日の父と同じ顔だ。 |
「as a dog」/カカシサスケ |
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