ああ、と黒衣の男はまるで恋人のような甘い声音でため息をついた。 およそ殺伐とした戦場の空気にはそぐわないことはなはだしかった。昔の同胞の血の色でぬれた手も、おもく裾をぬらす錆びた臭いも。 白い面の裂け目でしかなかった口が、ゆっくりと上がったときまるで、時が中忍にもなれなかった短い時間をともにしたころにもどったような錯覚を覚えるほどの、おだやかさだった。初めて、それはオレが見たこいつの、はじめての笑顔だった。皮肉でも嘲笑でも強がりでもない、ただひたすらにやさしい、悲しい笑みだった。 「いいな」 切れ長の赤目が細まった。 泣きたくなるほど悲しいことがとてもたくさんあった、とは言えなかった。眩しいものをみる視線を自分に向けるかつての戦友の心にある故郷はきっといまも、遠く異土に生きてなお夕暮れにふりかえり、歩みだすための場所だ。もう帰る場所ではきっとない。きっと皆が幸福そうに笑っていて、こいつは遠くから見ているだけだ。 もろい壁のペンキがはげるように落ちた声、会いてぇな、は会えないなと一緒だった。 安易な言葉ひとつ言えやしなかった。また昔のように、なんてバカなことを言ってしまった。掟は厳しく、逃れられるはずもない。でも紛れもなく、四人でまた走りたかったのだ。 「いいな、ってなんだよ」 あの海のほとり、とてもせまい森ともよべない茂みの木三本にはきっと今も並んだ傷が残っているのに、なんて遠くまできてしまったんだろう。ぜんぶ嘘じゃないのにまやかしのようだ。 会いたいんなら、帰ってこいよ。 みんな待ってる。お前がいなくたって幸せだし笑えるけど皆が笑ってたってオレだって笑ってたって、其処にはおまえがいやしないんだ。みんなと騒いだりとかして角の向こうにみんなサヨナラしたあとお前の顔を思い出して、なんでか泣きたくなったりもしたよ。お前そんなのしらねえだろう?皆がいないところで笑うなよ、こんな夜の底じゃなくあの国で笑えよ。なんで遠いところにしかいれないと思うんだ。お前がいないと先生は笑ってたって寂しそうだし、あの子が笑えない。あの子が笑えないと、オレだって笑えやしない。 ここが夜でも同じ空のした、あの国はいま夜明けなんだ。 「後悔してねえって、これっぽっちもしてねえって言えよ。なんで言えねえんだよ。おまえの夢なんだろ、野望なんだろ、だったら言えよ。してねえって、ぜんぜんねえって、言ってみろ。お前が言えねえんなら、絶対認めねえかんな!お前のいうことなんて信じねーかんな!」 サクラちゃんのこと、あんな泣かせ方すんなよ。 うるせえよ、おまえのことなんか、しんねえよ。 「オレとお前はちがう」 それがなんだよ。しらねえよ。 「うるせえ!オレは絶対、ゆずんねえかんな!」 おまえの仕事なんて知らない。 おまえの野望なんて知らない。 かってにオレらのことおいてっちまってよう、おまえ、しんねえだろ、しんねえだろ。おまえが、帰ってこなかったらだめなんだ。 エゴだと思う。サスケがしたいならってひくべきなのかもしれない。でもサスケにだって俺を不幸にする権利なんてもってやしないだろう?サクラちゃんを泣かせていい権利だって、ないはずだ。俺はおまえの意思より俺の幸せを選ぶ。サクラちゃんの幸せを選ぶ。 だってお前ひどいよ。俺もサクラちゃんもぜんぶ捨てちまったじゃねえかよ。なんで俺らのこと捨てられるんだ。ありがとう、だって、なんだそれ。なんだよ、それ。ありがとうなんていうなら、なんで置いてくんだよ。ありがとうなんて、言って欲しいんじゃねえんだ。 ありがとうですむなんて思うなよ、ばかやろう。 おまえが幸せに笑わなかったら、おれの完璧な幸せなんか絶対ないんだ。 だってサクラちゃんが泣いちまうかもしれない。 お前がいなきゃ厭なんだ。 「また、随分とわがままを言うじゃないか」 「ダメ?」 「……」 「でも実際、カカシ先生につかせてんだから不自然でも不可能でもないっしょ?」 「……にやにやしてんじゃないよ」 ばかめ、と先まで磨きこまれた爪のついた指がひらめいて、幾枚かの書類をなげて寄越す。顔の横を切りそうになるのを人差し指と中指でとらえ、灯火に照らしてナルトは笑った。 「なーんだ、承認印しっかりついてんじゃん。あとは」 「本人らの承諾だけだな。まったく、ごり押しの仕方だけは自来也ゆずりだな」 「えー、おれあんなエロくねえってばよ」 「時間だろう、とっとと行け」 「へーい。んじゃま、ばっちゃん、オレのためにそのイス温めておいてくれな」 指を突きつけてくるのに吠えてな、若造、と鼻で笑い、足をくんだ綱手はひらりと手を振った。 13、暁の声3 カルキくさい水を飲んでカカシは淡青い朝の光にしずむ部屋を見渡した。 廊下を歩いてひたりと床に足の裏がはりついて、熱を奪われていく。 ナルトがひっぱりだしたのだろう、ひえてひらたい布団をこれでもかとかぶせられた布団の中でサスケは眠っているようだ。枕もとにそろえてあるペットボトルの水や洗面器、タオルや着替えはナルトとカカシが踏みこんだときにはもうそろっていたのだ。 どうしてこんなにサスケの部屋が居心地がひどく悪いのか分かるような気がする。 独りぶんで慣れきって他の誰がいなくても大丈夫なよう、全部が終わっているからだ。 (―――いやな) 目を覚ましたらナルトとの約束があるから病院につれていかなければいけない。あと数時間だ。 自分もすこし寝たほうがいいだろう。ひたひたと廊下を踏んで、戸口のそばに立ったところで気がついた。 サスケの目があいている。 起きたのか、と声をかけようとして止した。 泣いてるようだった。どうして、と思うよりも驚いてしまって声をかけることもできなかった。 まばたきもせずにぽかんと中空を見たままの目尻にちいさい雫が浮いたかと思うとこめかみをとおり、耳の横をすぎて髪の中に吸い込まれていく。嗚咽もなにもなく、ただひたすら涙だけが音もなく流れている。 足のうえに腕を組んで廊下にしゃがみ、サスケがまた眠るのを待つ。朝の光が爪先を斑に切り取っていく。 (いやな子どもだ) 体もろくろくできていないくせに誰も知らないうちに流れて誰も知らないうちに乾く泣き方だ。なんの悲しみかはしれない、自己憐憫なのかもしれない、だけど涙はできるなら誰かが慰めてくれるときに流すのがいい。ちいさく声をあげるのだっていい、痛いとか悲しいとか言えばいい、そしたら抱きしめたりする腕があるかもしれないではないか。 誰にも触れない独りの涙は指先からなにからひえびえと凍えてしまう。 見るんじゃなかったと後悔が苦い酩酊のように喉元を通り過ぎていく。 盗み見のような罪悪感もいやだ。見てしまったとしったらサスケはまた愚かなことを言い出しそうだ。そんな馬鹿なところで頑張らなくてもいいのに。 だからといって泣きつかれるのもごめんだった。 可哀想だなんてけしていってはやらない。 早く朝がきて太陽の光で部屋の片隅からもあとかたもなく夜を塗りつぶしてしまえばいいと思う。青空はいつも夜を知らぬ顔で黙っているではないか。 きっと何食わぬ顔でおはようが言えるはずだ。 岩と岩の隙間からもれる光は徐々に弱まり、空が青なずんでいく。天道を西に下っていった太陽はもう西の方に半ば沈み、追いかけるように月が浮かんでいる。赤い星が一つ浮かんでいる。 顔の半分を土につけたまますこし咳きこんだ。血の失いすぎか体はつい先ほどまで凍えて鼓動のたびにひどく痛んだが、それも間遠になってきた。 (死ぬか) 随分ひどくやられた。水から上がれるだけの体力もない。凍え死ぬか失血で死ぬかはわからない。もう体のどこも動く気がしない。砂地は血をすいこんで黒くなっている。びょうびょうと荒地をわたり、かろうじて地面にへばりついた草を引きはがすよう風が吹き抜けていく。雲ひとつない剥き出しの夜にだんだんと地上が覆われていく。 どこまでも夜の底に横たわっている。砂ぞこを波が洗うように星がほつほつと瞬きだす。 誰が死んでも自分が死んでもあけくれ幾千年も変わらず、弧絶にまるい光を放射している。いつ生まれ消えるかもしれない。痛みさえなければ水をすった砂袋のように重い体から浮き上がっていくような気がする。 死にたくないとも思ったが、誰に助けを求められる気もしなかった。 この声はもうひどく嗄れて届かない。 なら屍は誰にも見つからないといい。風にさらされてそのまま土や砂になってしまえばいい。誰も自分の死なんて知らないのがいい。いたのも忘れてしまえばいい。 あんたの思惑にははまらなかった、とみじめなことを思って笑う。砂が口にはいって咳きこめば傷口からひきつるような痛みが爪先まで電流をとおされたように痺れになって、うなり声を上げる。 (でもあいつは泣くか) 『いいな、ってなんだよ。後悔なんてしてねえって、これっぽっちもしてねえって言えよ』 言えよ、とナルトこそが泣きそうな声で怒鳴る。 『なんで言えねえんだよ。おまえの夢なんだろ、野望なんだろ、だったら言えよ。してねえって、ぜんぜんねえって、言ってみろ。お前が言えねえんなら、絶対認めねえかんな!お前のいうことなんて信じねーかんな!』 サクラちゃんに、あんな泣かせ方すんなよ、と呟いてナルトは瞬く間に印形をくみ上げていく。わきあがる緋色のチャクラが金色の輝きをおびてまるで朝焼けの雲のようだ。どうして終わりの色は夜明けと同じ顔をしているのだろう。 『おまえのしたいことなんか、よくわかんねえよ!うるせえよ!おまえのことなんかしんねえよ!』 かってにオレらのことおいてっちまってよう、おまえ、しんねえだろ、しんねえだろ。おまえが、帰ってこなかったらだめなんだ、と声が聞こえた。 泣いてるのかと思う。なんで怒鳴るんだよと思う。木の葉のはずれ、国境門そばでも怒っていた。 (だから、オレはおまえみたいに生きられない) こめかみを冷たいものが流れるのにサスケは目覚めた。瞼をもちあげれば、ようやく見慣れた天井が視界に映る。瞬きをすれば耳の後ろをとおって落ちる。 瞼をもちあげればカーテンを開け放ったままの窓から朝の光がにじんでくる。西向きだから朝日は差し込まないのだ。 サクラなんて泣かせてばかりだ。 泣かないでくれとはいえない。 許してくれなんていえないことはわかっているから。 オレの手は誰ひとり抱きしめられない、涙も拭いてやれやしない。 だけどカカシにもナルトにもサクラにも、いつだって笑っていて欲しい。 ひとり永夜の盲にたちすくむときも星が見えるよといって欲しい。暁はすぐそこだと、自分に見えなくてもうそでもいい。星が見えない夜中でもいつかその声を聞いたことがある、それだけで最果てまでひとり歩きだせる。 うそじゃない。 きっと誰ひとり抱きしめられないオレのなかでたったひとつ輝かしいものの全部だ。 なのに。 荒野の果てに赤い星が光っているのだ。 ―――汝は地にさまよう流離子さすらいびととなるべしと。 (――この心は、棄てられない) |
「焼けない心臓 13」/カカシサスケ |
焼けない心臓はこれにて終了、 |