あの日の約束、覚えてる? ペダルから足を浮かせれば坂のくだりにまかせて勢いよく回る。 南風にさやいだ葉むらから夕べの雨が頭に肩に降りそそぎ、イナリは小さく声をあげてうつむいた。石や枝をふみつけはねあがるハンドルと中身がとびでそうになる鞄をおさえつけ、ペダルを左右に踏み抜いていく。後ろにながれていく道、サンダルばきの足の甲に白や緑、風にゆれる木洩れ日に雲間から太陽がのぞいたのだとわかる。ブレーキをかけないまま水たまりの青空をつっきって木立の道からとびだせば、ひらめくよう広がった砂の白さが赤く目を灼き海がひらけた。 面白くもない面談がつづいた最終日、終業のチャイムがなると同時に鞄を斜めがけに飛び出した。 一年前ようやくにセメントで舗装された堤防沿いを下りながら走りつづければ魚の背中のようにきらめく沖合い、定期船の船影と信号灯がちいさく光っている。入港をしらせる無線が鉄柱のスピーカーからきこえてくるのにブレーキをにぎり、カタツムリの通り道みたいなタイヤ痕を焼きつけながら急停車する。鍵をかけるのにも焦る。アスファルトに中古で譲り受けたばかりの自転車を放り出し、サンダル底ゴム越しにも熱くなった階段をかけおりる。 ポンポンと軽い音をたてながら港に近づく船にイナリは両手をふりながら埠頭をはしる。曲がり角の土を踏む数秒間ももったいない。思い切りよく踏み切って海をとびこえ桟橋の板を両足で鳴らして全速力。いっせいに羽ばたいたウミネコの影がTシャツの上を横切った。 「おうい!」 異動の告知がくだされたのは六月初め、体制が変更になるのは七月からになる。各事務書類の変更点を洗い出して赤入れをしたサクラはゆっくりと立ち上がった。片付けがほとんどおわったデスクを見下ろし、筆記用具とメモ帳をカバンにしまえばもう終わりだ。 がらがらっと引き戸が開く音に顔を向ければ宿直当番のイルカが張り紙を丸めながら入ってきた。 「お、サクラまだ残ってたのか?」 「今日でここも最後ですから」 笑うとイルカは感慨深げにサクラを見て笑った。 「どんぐらいになるっけなあ?八ヶ月くらいか?」 「そうですね。ありがとうございました」 「そんなになるかな」 早いもんだなとイルカは目を細める。 「お疲れ様でした」 「皆に言われてますよ」 「うん、まあな。サクラのおかげで随分助かったしな」 ゆっくりと頭をサクラは下げた。 片付けで立ち寄った受付にふと落ちた影、机をかるく叩いた手甲に目を上げる。ちょっと驚いていると相変わらず整っているせいで笑わないと冷たく見えがちな、けれど無理に笑うことなんかごめんだと言わんばかりの無表情でサスケが見下ろしている。なに、とサクラは首を傾げると、サスケは形のよい眉をすこしだけ顰めた。昔は自分の何が彼に顰め面をさせるのかと冷や汗をかいていたけれど、最近わかってきた。 サスケの顰め面は、なにかの表情に移る前の前置きのようなものなのだ。だから案の定、サスケの端がさがりぎみの唇がすこしほどけて、困ったような笑いたいような、どこかはにかみのにじんだ淡い色をのせていくのをゆっくりと見た。 「ちょっと、行ってくる」 短いセリフのどこにも、いつまで、とかどこに、はない、かわりに置かれたのは外勤の報告書だ。緊急の任務ではないかぎり依頼票を書くことが義務付けられている。机の端から落ちそうになった紙片をあわてて指で抑えるサクラにじゃあな、といったかと思うとサスケは引き止めるまもなく踵を返していってしまった。すこしだけいつもより足音が早い。 「……」 見送った向こうでナルトが笑い声を上げるのが聞こえた。だっせーの、とバカにしてるのだろう、低い声でサスケは何かを言ってるらしい。相変わらず生徒たちの小競り合いに無関心なカカシの姿も向こうに見えた。 「サクラちゃん!」 ナルトが手を振る。廊下で大声をだすんじゃない、と思いながら顔をあげるとナルトが両手を大きくまた振った。 「あのさ!あのさ!オレらちょっとさ、波の国いってくるってばよ!お土産持ってくっから!」 楽しみにしててね!ときっと満面の笑顔だろう。だからバカみたいとかたいして知り合いでもない女にしたり顔で噂をされるのだ。もう、と肩のあたりで手をふるとナルトが照れたように頭を掻いて、カカシになにか言われている。 その隣、肩越しにふりかえったサスケが少しだけ左手をあげた。 ちょっとトイレ、と誰がいるわけでもないのにサクラは立ち上がる。廊下を足早に歩き、出てきかけた女の人の肩にぶつかりながら個室のドアをばたりと閉じ鍵をかける。タイルの窪みにできたちょっとくさい水溜りを避け、洋式の便座に腰掛けながら横の壁にごちりと頭をおしあてる。壁に誰かの悪戯でのこったボールペン痕をむやみに見る。おでこの血管が膨らんだりちぢんだりしているのがよく分かる。耳がじわじわ熱をもって奥のほうでおおきなモーターが回っているみたいな音がする。 (なによう、あれ) 嬉しいはずなのになんでか泣きたいような気がしてちょっと苛立つ。嬉しいことや悲しいこと、なにか感情の針の振れは極端になると涙にしか出口を見つけられなくなるのかもしれない。睫のふちにたまったのが砕ける前に指の腹ですくい、上を見る。瞬きはしない。 (あー…あんなちっちゃいことで、なによ) サスケの背中を見るのはやっぱり好きじゃない。でもナルトの隣にサスケがいてその向こうにカカシがいる。 もう、とサクラはちょっとだけ天井の電灯を睨んで一分だけ泣く。なにもかも昔どおりだなんてありえないことはわかっている。 明日から新しいところで修行なのだ、赤い目でなんか行けない。 左手の中指が見えない糸にひっぱられるように動いた。 幾度かたしかめるよう左手を開閉させたサスケは裏返して手の甲を見つめていたが立ち上がる。ややして両開きのドアが勢いよく開いた。窓から差し込む夏の入日が長く茜の影を三つのばした。七月も半ばというのに大分長くなった気がする。夏ははじまったと思ったはしから夕暮れの匂いをさせて秋になってしまう。 頭をさげようとしたところで、楽にしな、とツナデは鷹揚に手をふり奥の執務机に腰をかけた。お前だけかい、と目を細めると続けて入ってきたシズネに顎をしゃくる。 「残りの奴らはどうした」 「さあ、どうなんでしょう?任務は割り振ってないはずなんですけど」 こまったように長い袖をもちあげてシズネが首を傾げる、とたんバタバタと聞こえた足音にツナデは紅のぬられた唇をつりあげた。 「ひとりは来たみたいだね」 「……ごめん、ばあちゃん!」 サンダル底のゴムを石造りの床にきかせて立止まったのはナルトだった。きょろりと眼を動かしてサスケを視界にいれると、にっと笑う。ツナデを見てからちょっとため息をついて、ハイネックの襟元を引っ張って風を首元に送った。鼻の頭にうすく汗をかいている。 「なんだ、カカシ先生まだ来てねえじゃん。汗かいただけ無駄したってばよ」 「アレを比較対象にすんじゃないよ」 ツナデの言葉にシズネ、ナルト、サスケの三人は否定のしようもない、そもそもあまり庇う気もない。 ドアが軽くノックされてゆっくりと開く。顔を覗かせた男は右眼だけですこし気まずそうに笑い頭をかいた。 「いやー、遅れてすみません」 「じゃあ始めるよ、シズネ」 顎をしゃくった里長にあらら、と目を瞬いたカカシは応接用の椅子に腰をかけていたナルトとサスケの後ろにたった。 「ちょっと上寄せますね」 灰皿と来客用の煙草をひくい机から控えの間にもっていったシズネが抱えてきたのは幅が子供が腕をひろげたぐらいのおおきな巻物だ。 ばさりとひろがった古びた地図にカカシとナルト、サスケの三人が身をのりだす。カカシが眼を細めて街道の名前や国境線をたどり、頭を掻いた。 「こりゃ、旧地図ですね、大戦前のでしょう?」 「どうせこいつらは大戦のこといったってわからないだろうが」 「ま、そうですね」 よくご存知で、とカカシが言えば、ツナデがお前の生徒だからな、と無礼千万なことをいう。なんとなくバカにされているのを察したのかナルトがむっと眉をしかめ、サスケも眼をほそめているが里長の手前もあって黙っている。 もう一枚、と大きく広げたのは五大国同盟が結ばれてからの地図だった。 シズネが持ってきた書類の束を四人それぞれに配り、各人が地図の周りにたったところでツナデがさて、と呟いた。 「八月に同盟参加国である波の国駐留部隊とカカシの隊とで交代するのはすでに周知のことだ。それに伴い、カカシ配下のうずまきナルト、うちはサスケ両名を補佐として三名に任務を命ずる」 「……補佐、ですか?」 カカシがちょっと首を傾げるのにツナデは説明をするから、とつづけた。 「補佐といっても五年前に波の国にいったことがあるって程度だ。こいつらに変わる副官がいるならカカシ、あんたが推薦しな。承認はしてやる。波の国はたしかに同盟国だが部隊を常駐させたのはここ一二年だ。それまではなんら注目すべき国ではなかったからね」 「……十二でしたよ、こいつらは」 「十二のガキだろうと見たことは覚えてるだろう。それを判別して比較できる程度に頭は成長してると、買ってるんだがね」 「ったりめーだってばよ!」 「はいはいはい。とりあえず、火影様、説明をお願いいたします」 ナルトが呟くのにカカシはひらひらと手を振り、ツナデの顔を見る。ツナデが懐から取り出したのは、木の葉の忍びが伝令用に使役する鳥型の式がもつちいさな筒だ。 「波の国の傀儡から今朝方、伝令が来た」 |
「P.S. I love you.」/TEAM7 |
本編2部スタートです。
→焼けない心臓 13 |