いつもすまんねえ、と見あげてくる昔馴染みに脚立からおりたタズナは首をふり、古びた工具箱を片付けていく。神棚が壊れそうだから支える棒をなおしてくれ、と言われてきたのだが、なんのことはない、家がすこしゆがんでしまって、釘がゆるんでしまったのだ。 「こんぐらいならなんでもないよ。それよりセツばあさん、この家もそろそろ建て替えどきだ。一度ちゃんと見てもらって見積もりだしてもらったほうがええぞ」 「わかっちゃいるんだけどねえ、あたしと家、どっちがくたばるのが先かって思うとね、ばからしくってさ」 さしだされた茶碗に片手をあげて礼をすると口をつけた。ぬるめの麦茶でもじりじりと照りつける日差しが眩むほど白い日中は放っておいても水分がきえていくから、ありがたい。 「台風がくるまでになんとかしたほうがええぞ。家がつぶれちまったらいやだろう。本島におる息子さんとこと住まんのか」 「来いよっていってくれてるんだけどね。どうもこの年になると慣れないとこに行きたくないもんでさ」 自分の家でも転んで怪我しそうになるってのにさ、とセツは砂埃をはたいて板敷きの床に茣蓙をなげだすと丸まった背をかがめて座った。簾ごしにまばらに光が床に散っている。嫁が嫌われてるとか心配するんじゃないのか、と笑うがそれはないよ、とセツは皺だらけの手を振る。 「なんでうちの息子とくっついたんだかもわかんないような、すなおで大らかな人よ。あんたんとこの、ええと」 「ツナミか」 「ああ、そう。娘さん、元気にやってる?イナリくんももう中学校にいくんだっけね」 「そうさなあ」 「でもやっぱ孫にいつでも会えるってのはいいわねえ。せっかく橋があったってさ、正月と盆ぐらいにしかこないもんだからさ」 「港ができたら定期便も増えるだろうよ」 本島との郵便をのせた定期便は一日に二本、あとは知り合いの漁師にでも頼むしかない。 「だからって来ないのが家族ってもんなのよ。最近、久しぶりの知り合いから知らせがあったら悪いことばっかりでさ、やんなるよ」 あんたも病気のほうは平気なの、と尋ねるセツにタズナは平気だと返した。 「この年になったらどっかガタのきとらん奴のほうが少ないじゃろ」 「ほんとにねえ。でも病院いくのも怖くってさ」 「なんでじゃ」 きいたタズナにセツは入れ歯のすわりがわるいのか顎を動かしてから、なんかね、と言う。 「なんか新しい店だとかたくさん増えてね、賑やかなのはいいんだけど人通りが多いと、道わたるのにも時間がかかるしさ、人とぶつかるのが多くってねえ。こないだなんか若い女の子にぶつかっちゃってさ、そしたら舌打ちするんだもの、怖いったら」 「そうさなあ」 「でもまあ、橋ができたたおかげでさ、暮らし向きも楽になったし、港もできるっていうしねえ。立派なもんだよ。ほんとうに」 やな時期だったからさ、とセツは言った。 「ガトーと反対する奴の間で座り込みだのストライキだの散々あって、あたしの息子も逃げちまって、おちおち夜道も歩けなかった頃に比べればさ。なんもかんもよくなって」 「だといいな」 「そのあんたがうちなんかのちまちました修理してんだから世も末だよ。もっと威張っちまえばいいのにさ」 バカ言うな、とタズナは調子のいいセツに笑って諭す。 「所詮わしなんかは単なる大工よ。腕以外になんのとりえもありゃせんわ」 タズナの言葉には答えず、カイザさんも見たかったろうねえ、とセツが呟くのにタズナは頭にまいていたタオルをほどいて汗をぬぐう。横向いたセツは海と架かる橋を遠く見ている。 「でもさ、あの橋なんだってあんな手すりが低いんだい。怖くて端をあるけやしないよ」 「ああ、ありゃな、潜り橋っていうてな水に沈んでもええようにできとるんじゃ。まあ、金のかからん設計ってのもあるんじゃけどな」 潜り橋、沈下橋とも呼ばれる橋はおおく河川にみられる。水面からの距離もあまりなく、水かさが増したとき橋桁などに流木や土砂などがひっかかっても水のなかに沈むため壊れにくく、川の流れをふさいで洪水になるのもふせぐ。また建材も少なくて済むため、交通量のすくない過疎気味の農村などに多かった。 「貧乏だったからねえ。まあ、子供は飛び込んで楽しそうだけどさ。ねえ、アレにちゃんと手すりつけなよ」 「なんじゃ」 そしたらあたしも安心して孫に会いにいけるじゃないさ、とセツは勝手なことをいってタズナをけしかける。橋の上であそぶ数人の子供たちが、走りだすのがちいさく見えた。 「自分はやらんからって適当なこと言いよってからに」 飛び込んだ子供達の笑い声が遠くきこえるようだった。 帰宅すれば誰もいないのか、しんとしずまりかえっていた。ツナミは出かけているし、イナリは遊びにでている。土間の上がり口に工具箱をおいたタズナは流しにいって手をあらい、水を飲んだ。 郵便受けからとりだしてきたチラシをみていたところで、ちいさく入っている不在伝票に気がつく。電話をかけて交換台につなげば、すぐに行くとのことだった。 どうも、と自転車を漕いできた男はタズナの後ろの開いた扉を一瞥し、奥をうかがうような仕草をした。 「一人なんですかい」 「ああ、みんな出かけてしまってるんですわ」 「お運びしますか?結構おもいですよ」 「ああ、まあ大丈夫ですわ。どうも。ごくろうさまです」 それでは、と帽子を脱いで頭をさげた配達員の、青い制服をきた背中が自転車にまたがり遠ざかっていく。 土間におろされた荷物をかかえあげたタズナはサンダルをぬいで、板敷きの廊下にあがってテーブルに荷物を置く。宛名はツナミ宛になっていた。名前はイナリの父親のものだった。 居間をつっきって縁側に腰掛け、パイプに煙草をつめると燐寸をすった。独特のにおいと青い煙あげる燃えさしを捨てる。 昼下がりの町は白むほど強い陽光の下しんと静まり返り、うちよせる波の音だけが絶え間なく聞こえてくる。波打ち際から沖合いまで、澄んだ翠藍から紺青に色をたがえていく海は平らかに凪いで、航行する定期船の白い影がゆっくりと横切っていく。 水しぶきが大きくあがった。せーのォ、と大きな声でいいながら、見上げる友達が橋のへりを蹴って腕と足をおおきくふりまわして海へと飛びこむ。すぐにまたあがった水しぶきに大きな笑い声がたった。 手をふりまわして飛び込んだ友達の顔にイナリは水をひっかけてひとしきり遊んだ。 そろそろ遊び始めて二時間ちかくになる。オレちょっとあがる、とつげたイナリは、橋桁に足をひっかけてよじのぼった。 『この橋はなあ』 眼をほそめて晩酌をしながら、今は亡きカイザと話をしていた祖父の顔を思い出す。 『この国は資源もないし貧乏じゃからな、物資と交通がよくならんとどうにもならん。そのためにこの村がつくる橋じゃ』 橋の工法や種類についてもいろいろと教えてくれた。カイザが、ガトーに殺されてからは一心にうちこんで橋を作った。人はカイザを英雄というが、祖父だってそうだ。 手をついた橋の面は日に焼けて熱くなっている。水をこぼしてもすぐに蒸発してしまうぐらいだが、さんざん水遊びをしたせいで水浸しになりぬるかった。 タオルを被っていると、級友も飽きたらしく上がってきた。たちあがってイナリを見下ろしてくるのに眼を合わせる。 「なあ」 「なに」 「おまえ、本島の学校にいかないんだって?」 小さい声できいてくるのにイナリはタオルから顔をあげる。 「家の事情とか聞いたけど」 「うん」 「なんだよ、お前もいかねえのかよ。オレらのなかで本島いくっつってんのどんぐらいだよ」 指をおって数えて、やだな、オレもこっち通いたいな、という友達にイナリはすこし笑った。 「でも、ちょっとわかんない。母ちゃんに相談してみる」 「相談しろよ。新しい学校で苛められたくねえよ」 気弱にいう友達にイナリは笑った。母親も父親もずいぶん教育熱心な家で、低学年のころから中学は本島の学校に通わされることがきまっていたのだ。だが仲良くなった友達と離れなければならないのはやはり厭なのだろう。 「あ、やべ」 「なんだよ」 声をあげたイナリに友達が顔をあげる。 「先生にださなきゃいけないプリントあるの忘れてた」 スクールの申し込み締め切りにはまだ日があるだろうが、決めたうちにだしたほうがいいだろう。ツナミにも話をしなければいけない。 ごめんなさい、ということはとてもくすぐったく照れくさくてできそうもなかったけれど、安心してくれるだろうか。保護者印に判子をおしながら喜んでくれるだろうか。 なにより、うまい絵をかける同年代の子供達に会えるのは、うれしかったし、鉛筆の使い方や色のあたらしい使い方を教えてくれる先生に教わることも毎年たのしみでしょうがなかった。 「おまえんとこのクラスの先生ってけっこう締め切りうるさくなかったけ」 「だからやばいって言ってんだよ」 「……あれ」 声をあげた友達が眼鏡をかけない裸眼を細める。視線をおいかけたイナリも驚いた。 「先生だ。ちょうどいいや、オレちょっと行ってくる」 水をかけあってる友達にもいっておいて、と告げるとイナリはサンダルを足につっかけて、岸沿いの道を自転車をこいでいる担任に向かって走りだした。 「先生!」 振り向いた教師はイナリを見つけると、自転車をあわてて止めた。ブレーキの軋む高い音が響く。なにをそんなに慌てることがあるのだろう、と驚いたイナリの傍、小走りにはしってきた教師は荒く息をつく。 「……よかった。探してたんだ」 尋常でない様子に訝しく思うイナリに、教師は連絡があってと言い、顔をタオルで拭いた。 「診療所から学校に連絡があってね、そのお母さんがご不在だったからね」 真夏の日差しの下、海水をあびた肌が一気にあわだってイナリは震えた。 「……病院って、じいちゃん、なにかあったんですか」 「お母さんの行き先は知らないかな」 「…今日は用事あるから仕事休むって、言ってて。そんで、じいちゃんは」 泣きそうにいうイナリに安心させるように教師は笑った。 「ああ、ごめん、怪我なさったみたいなんだ。その、様子まではね、詳しくきいてないんだけど。命に別状はないって連絡してくれた方はいってたんだけどね。先生が送るから」 荷物もっておいで、と教師はイナリの背中を促した。 |
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