立派なもんだなぁと感嘆の声が落ちてくるのにイナリは帽子の下から傍らの男をみあげた。
小人の国につかまえられた人間のように足場だらけになったつくりかけの橋は金の西日に黒々とそびえ、はこばれていく木材、たかい足場のうえを声を交し合い悠々といきかう人夫たちの影が見える。夕暮れになってつよくなった汐風には塗料とセメントの匂いがまじっていた。 『いやぁ、傍でみりゃモロ立派じゃねえか。大体男ってのはよ、ぱーっとでっかく夢持ってよ、こうじゃなきゃいけねえ。なあ、うん』 エンジン傍に腰をおろしてみあげた男にイナリは指で足場のてっぺんをさした。 『あれ』 『ん?おお』 『あの真ん中で紙もってんのがうちのじいちゃん』 『へぇ!監督ってやつか。すげえじいちゃんもってるじゃねえか、ボウズ』 でかいなぁ、と眩しげに夕日に手をかざして男は食い入るようにみつめている。面映いなんて言葉はしらなかったけれど、イナリは口のなかがやたらと甘酸っぱいような顔をして、精一杯なんでもない風をよそおって声をだした。 『この島とあっちの岸繋ぐんだ、アレ』 『そりゃモロすげえ』 すごいすごい、と手放しでいう男にイナリは泣きすぎたせいでつまった鼻をすすって、笑った。夕映えは海を燦然とひからせている。 『あんなでっけえもんが海の上にたつってんだからよ、すげえなまったく。どんなカラクリで海なのにしずまねえんだか、ちっともわかりゃしねえや』 ボウズは知ってるか、と聞かれるのにイナリは首をかしげる。たしか、とむき出しのまま灯台のようにそびえている橋脚になるだろう柱を指差した。 『なんか、杭?杭をいっぱいうって、その上に柱のっけてる、っていってた』 『杭?へえ、よく知ってんじゃねえか』 じいちゃんがいつも話してくれるから、といえば、すげえじいちゃんだなあ、とまた感心をする。 『この国はスイシン?が浅いからいいけど、もっと大きいとこになると、すごい大掛かりになるんだって』 『ああ、大陸だなって奴だな。ここらの海一帯が、浅いんだ。おまえ知ってるか?海の底にはよ、陸にあるよりでっけえ山があるんだぜ?』 興味をもって訊きたがるイナリに身振り手振りで話していたが、男はふと夕日に目をとめ、傷跡のある顎をざらりとなでた。 『……なんだ、遊んでたらすっかり遅くなっちまったなぁ。母ちゃんが心配してるだろ』 もう、と見あげるイナリの残念そうな声に苦笑した男は、おおきな手のひらでぐりぐりと頭を撫でた。 『そろそろしまいだ、かえらねえとな。男だったらよ、女を絶対泣かしちゃいけねえんだ。母ちゃんでもな。俺が送ってやるからよ、とりあえずその鼻水ふきな。男前がだいなしじゃねえか』 男がべそかいていいのはお袋が死んだときと財布をなくしたときと女にふられたときだけって決まってんだ、とほどいたねじり鉢巻でイナリの鼻の下をごしごしと擦った。 ほら、ボウズ家はどこだ、と聞かれるのにあっち、とイナリは答える。合点承知、というのに意味もわからずガッテンショウチ、と返して笑った。 『あー、じゃあおまえ、これ土産でやるよ、晩飯にしな』 船底の水槽からとれたばかりの魚を数匹いれて、別れ際に男が手渡した。 バケツをかかえて帰ってきた息子におどろいたツナミが礼をいうため玄関から顔をだしたとたん、夕日のせいじゃなく真っ赤になった。いままでイナリをけしかけていた勢いはどこへやら、へどもど挨拶をして照れ笑いをした。 今でも覚えている。カイザとツナミがはじめて会った日だ。 (……父ちゃん) おきろ、とばちんと頬を張られた。瞼を持ち上げると担任の教師がいることにイナリはひどく驚く。襟元をもちあげられたまま、もう一度頬を張られ、倒れそうになるのに腕をつけようとするが動かない。手をつけないせいで、おもいきり床に頭をぶつけた。 視界がゆがむ。 「おきろっていってるだろう」 襟首を掴まれてもう一度後頭部を打ち付ける。ほら、と何度もゆさぶられて頭が床に幾度もぶつかるのに、やめてくれとイナリは声をあげる。 なんで、と呟くとあしのチガヤは温厚そうな顔に笑みをはりつける。 「別に、君がわるいわけじゃないんだよ。ちょっとね、君んちにいる人に用事があってさ」 それまではちゃんと面倒みるから大丈夫だよ、と笑う。 「おきてごはん食べないと持たないよ」 「……」 「おとなしくしてなさい」 さしこんだ赤い光が刺さるのに、ソファで身をまるめていたイナリは瞼をもちあげた。ぎし、と背中でくくられた腕が軋み、身をよじってどうにか寝返りをうった。 ゆるく回る換気扇の隙間から、もれていた光がさえぎられては翳る。口には布を詰め込まれて息苦しい。目だけを動かせば、どこかの古いビルなのか、むきだしの窓の外には明かりをつけだした看板がたちならび、呼び込みの喧騒はひどくちかい。 迎えにきた教師と自転車にのってどれだけ時間がたっているのか、日は傾いて赤く染まりだしている。 どうやらあしのチガヤは不在のようだ。人のいる気配はしない。手をうごかして拘束がゆるまればとおもったのだが、ビニール紐はかえって手首に食い込み、こすれて血がでただけだった。 冷蔵庫なのか空調なのか、唸る音が響いてくる。 六畳ほどの部屋には荷造りでもしていたのか紐でくくられて棄てられるようになった雑誌や、よみかけらしい新聞の束、片付け忘れたらしい食器が無造作におかれている。海がずいぶんと近いのか、波の音がして汐くさい。窓におりたカーテンに光輪がいくつも踊っていた。 ふいにドアが外から叩かれる。ぎし、と背後でひびいた音にイナリは驚いた。人がいるとは思わなかったのだ。 ふいに頬の真横をつめたい風がかすめた。マットに垂直につきたった薄刃のぬめった光がイナリの頬にあたる。ぬるついた液体が頬をぬらすのと、かすかな痛みが走るのは同時だった。 目だけをうごかせば陽に灼けた裸足でダンボールをふみつける、やせた女がひとりたっていた。油気のない髪を首のうしろでひとつに束ねている。もう一本、薄刃をとりだした女はイナリの首をはさむよう交差させて刃をつきたてた。 動くなよ、声もだすな、とかすれた声で女はいい、ドアをしめてイナリの視界をふさいだ。もういちどドアを叩く音がした。 すみません、とドアをたたけば化粧気のない顔をした女が顔をだした。覚えのある匂いにあたりだな、とナルトは思いながらとりあえず笑う。 「今日休みなんですけど」 「…すみません、ちょっと迷っちゃって」 お伺いしてもいいすか、といいながら女の肩のむこう、部屋の奥、ドアをあけて『本体』がすべりこむのを見た。 ソファにころがるイナリの紐をナルトはクナイで断ち切る。驚いて起き上がるイナリの口をふさいで、しぃ、と囁いた。 すぐに見つけることができてよかった。まさかこんな変なことに巻き込まれているとは思わなかったから尚更だ。 イナリの担任の教員住宅を訪ねてもすでに引き払われていることに驚き、のこされた転出先にかいてあった住所をたずねてきたらあたりだったのだ。 おまえ、と分身に腕をつかまれた女の焦った声がきこえるのにふりむいたナルトはイナリを背中に庇ってクナイを抜き払う。 「なに企んでイナリさらったかはしらねえけどよ、こいつは返してもらうかんな、おばちゃん」 どん、と瞬時に、懐に踏み込まれた女が後退さり、壁に背中をぶつける。 「だいたい、旦那が悪いことやったら、とめんのだって夫婦ってもんじゃねえのかよ」 ひ、とひきつった女がおびえきって頭を抱えるのに、息巻いていたナルトは毒気をぬかれ、怒気をおさめる。 わたしはなにもしらない、と女が呟いた。あの人がなにやってるかなんて、知らない、と呟いて両手で顔を覆って泣き出す。 「そういう、事情もあとで聞くからさ、旦那さん、どこいってんの」 首をふるのに弱りきったナルトは頭をかいて逡巡する。こういうの苦手なんだよ、と困ったナルトはしゃがみこんだ。 「えーと、ともかく来てよ、おばちゃん」 ぐい、と女の手をひっぱった瞬間だった。ぞろりと脇腹をかすめた斬撃に、とっさに腕を振り回す。とびすさったのは、イナリだった。ナルトは息を呑む。 「……あ?」 ごとん、と膝が音をたてて床に崩れ落ちた。後ろの女が喉を鳴らして笑う声がする。脇腹に刺さった刃に呆然としたのは一瞬だ。だが一瞬で十分だ。 「てめえ」 うつむいたイナリが顔をあげたとたん、目の前の女の姿にうつり変わり、ぱしゃりと水音をたてて床に消えた。水分身だ。昔、霧隠れの抜け忍がつかうのを見たことがある。 「こんなに早く見つかるとは」 チガヤもうかつなことだ、と背後で呟く、おそらく霧隠れのくの一にしまったとナルトは思いながら睨みあげる。 「……イナリは」 「生きてるよ」 「そうかよ!」 床を蹴ってクナイを構えながら女の懐にとびこむ。だが交わされ、クナイをもつ腕を掴まれ流される。振り払う前に女の手がナルトの腕をからめとった。 えぐりこむように、体重をのせた膝が腹部にいれられる。背骨が破裂したような衝撃に激痛にのたうちまわった。たぶん肋骨を数本食われた。体術だって自分はそこそこのものになったと自負がある。だが女はナルトの上をはるかにいった。 (やべ) 喉からつかえることなく溢れ、ぼたぼたっと零れた吐瀉物に血がまじっている。腹の血がのぼってくるにはやたらと早いから、喉の奥がきれたのかもしれない。 (やべえ) あえぐようにあがった顎の真芯をつかまえた掌底がぶちあたり、平衡感覚が完璧にえぐりとられる。めったにこないサーカスの回転木馬に乗ったときのように、窓からさしこむ赤い光とビルの裸天井が床にころがったナルトの視界をに踊る。 (このおばさん、容赦ねえ、や) ぐ、と背中に膝をのせられて息が詰まる。腕をひねりあげられるのに、歯を食いしばった。まさか、と首筋にいやな汗が浮く。ごきん、と音がするのにナルトは声もだせずに喉を震わせた。もがいた足が床を幾度も掻いた。もう一度ビルのなかにごきんと音が響いて、脱力した。 痛みから失神したナルトの両肩をあっさりとはずした女は立ち上がる。 「木の葉の忍は油断がならないからね」 誰かにあとでもどしてもらいな、と呟いて女はナルトの体を担ぎ上げた。 |
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