ごめんください、と休日に珍しく尋ねてきた男をツナミは迎え入れた。昨夜電話をもらったため来訪の準備は整っている。イナリはサスケと出かけていたし、タズナも出かけていて家はしんとしたものだ。額にうすく浮いた汗を拭きながら封筒をかかえたイナリの担任は頭を下げた。 「どうぞ」 「いえ、長居するつもりはありませんので」 「でも、立ち話もなんですから」 お邪魔します、とあがった担任にツナミは麦茶と黒糖をだして頭を下げた。 「わざわざどうもすみません」 「いえ、お忙しいとお伺いしていたのに無理をいったのは私ですから。すみません」 タズナが一度入院してから、週に五回、六時間以上パートに出ているツナミの事情のことをこの四年で二回イナリのクラスをうけもった担任はわかっている。タズナの年金の振込にあわせて、毎月ではなく二ヶ月に一度に給食代の支払いをかえたらどうかとすすめてくれたのもこの担任だ。 「それで、お話っていうのは」 「ほら、あのイナリ君が何回か出たことのある、本島の児童コンクールがあるでしょう。県でやってる」 「はあ」 「あれにね、イナリ君が何回か入選したり、金賞とってるでしょう、あれでね、ちょっといい夏の間だけなんですけど、絵画教室っていうか工作教室っていうんですかね、スクールのね、推薦枠みたいなのがうちの学校に来たんです。ぜひ、と思って誘ったんだが、なかなかイナリ君がうんと言ってくれないものだから」 「……はじめてききました」 「イナリ君は、工作だとか絵だとかとても上手だから、うちの学校でもめったに見ない子ですからね、もったいないなあと。そろそろ申し込みの締め切りも近いもんだから。こういうのは初めて早いってこともない奴だと思いますしね」 「そんなことでわざわざ?」 広げられたパンフレットを受け取ってみながらツナミが日焼けて優しい分、どこか気の弱そうな顔をみて尋ねると、はあ、と担任は頭を掻いた。 「いや、お恥ずかしい話なんですがね、うちみたいな生徒がすくない田舎の小学校に、こういう立派な教室の推薦が来るっていうのはめったにないんです。うちの学校には、初めてです。でもイナリ君が行ってくれると、こういうのがこれから来やすくなったりするもんですから……」 パンフレットを捲った担任はちょっと笑って、一番うしろのページを指差した。 「ここに、子供絵画協会の会員で載ってる人いるでしょう。前に一度話す機会がありましてね、郡の優秀賞をイナリくんがとったとき、あれの選考をやってたらしくてね、言ったらすぐに思い出して、あの橋の絵の子かってすごい褒めてたんです」 外の通りでトラックがクラクションを鳴らすのが遠く響いてくる。驚いているツナミの反応をただ感心しているものととったのか、担任はこの人が、と覚えているより随分と変わったちいさな写真を指差して、熱心に言葉を募らせた。 「わざわざ電話まで学校にくれましてね、是非にって仰ってるんです」 お母さんからもイナリくんに言ってあげてくれませんか、と担任は言ってパンフレットをまとめてもとの封筒に戻し、ツナミに差し出した。 「あと、すこしお聞きしたいんですが、イナリ君は中学はどうするんですか?」 「中学ですか?」 「ええ、こっちに来るか、それとも本島のほうに行くのか。うちのクラスなんかは本島に通う子が多いみたいで。その、進学とかにはやっぱり本島のほうがいいもんですから」 「それも、イナリにきいてみませんと。私の一存では」 「そうですか。長々とすみませんでした。私はこれでお暇させていただきます」 玄関まで送ると靴を履いた担任が振り返った。荒れてすこし赤みをおびたツナミの手をながめ、汗がたいしてでてもいない額をぬぐうと、躊躇うように唇をひらく。 「その、差し出がましいとは思うんですが、来年からですね、市の奨学金みたいな制度が変わるんだそうです。ほかにも母子手当ての見直しとか、いろいろできると思うんです。こういうのは、使わないと損ですから、いちおうその案内みたいなのも封筒に入れておきました」 「……なにからなにまで、すみません、ありがとうございます」 深々と頭をさげたツナミに驚いた担任もまた頭をさげる。 「いえ、すみません、こちらこそお休みのときにわざわざ」 「イナリには、すこし話してみます」 いったツナミに担任はお願いします、と笑ってから、人の気配がないことにいまさら気がついたのだろう。家に視線をはしらせてツナミにたずねた。 「……おじいさんの具合は?」 「いまは元気にしてます。ありがとうございます」 「お元気ならいいんです」 イナリ君はおじいさんを本当に尊敬してるみたいだから、と担任は破顔した。 「じゃあ」 「今日はありがとうございました」 頭をさげて送り出してから、担任の残していった封筒を見つめたツナミは左手で両目を押さえるとため息をついた。イナリが黙っていたことだとか、担任の言葉だとかいろいろありすぎて、なんだかもうよくわからない。 (あの子と、話をしないと) 電話が鳴った。じりじりと廊下でなる黒い電話にイナリが駆け寄る。はい、と答える声は声変わりをして低くくぐもり、とてもぶっきらぼうに聞こえた。野菜を洗っていたツナミはエプロンで手をぬぐいながら廊下に顔をだす。受話器を片手でおさえたイナリが母さん、と呼んだ。 「電話。ごめん、聞こえにくくて、ちょっとなんか難しい名前の人」 「それじゃ誰かわからないじゃないの」 ごめん、というイナリから受話器をうけとったツナミは耳に押し当てて、お電話かわりました、と告げた。受話器のむこうで、どこか躊躇う気配がするのにいぶかしんだツナミは、もしもし、ともう一度口をひらく。 『……ご無沙汰してます』 どこかきいたことのある声だ、と思いながら次につげられた名前にツナミの手から受話器がおちそうになる。辛うじて落とすのを免れた受話器をにぎりしめたツナミの片方の手はしらず電話の下においた布をつかんでいた。力がはいったせいで関節が白くなっている。 『いまのは』 「ええ、イナリです。それで」 ご用件は、と尋ねる声はひどく震えていた。 「……ありゃ」 「ごめんなさい、起こしてしまいましたか」 「いえ、ちょっとお水もらおうかなって思っただけですから。遅くまで大変ですね」 お仕事ですか、とカカシに尋ねられてツナミは首をふった。 「まさか。家にまでもって帰ったりするほど真面目じゃありません。麦茶もありますよ」 「あー、じゃあ」 頂きます、と隻眼の男は頭を下げた。 「イナリくんの写真ですか」 「ええ、片付けてたら昔の工作だとか一緒にでてきたものですから、懐かしくて」 「けっこう、とっといてあるんですね」 「学校で、もらうものとかあるでしょう、それもいろいろたまっていて」 居間のテーブルの上に広げられたすこし日焼けのした色の褪せた写真をいくつかとりあげた、カカシはやっぱり似てますね、と笑う。 「男の子はお母さんに似ると幸せになるっていいますよね、女の子はお父さん」 「……そんなに似てるかしら」 自分ではわからないけれど、と笑うとカカシは見慣れてるからじゃないですかね、と続けた。 「毎日顔をあわせてるから、わかんないんですよ、多分」 「そんなものかしら」 「ツナミさんとタズナさんも似てますよね、やっぱり」 それはあまり褒めてないんじゃないかしら、と笑えば、あれ、と頭を掻くのがおかしい。笑いながら丸まってしまった画用紙をひろげた。せっかく賞をとった絵も本人が一番ぞんざいにあつかって、折り目がついてしまうぐらい適当にまるめている。クレヨンと水彩絵の具で彩色された絵をひろげると、優秀賞とかかれた金紙の短冊と白い紙に赤字で寸評が添えてあった。右肩があまりあがらない、けれど不思議とバランスのいい文字が連なっている。 『のびのびとした、げんきな線と色です。おおきな橋をわたるみんなが笑っています、うれしいという気持ちが紙のそとまでよくわかる、すてきな絵ですね』 それ、とカカシが覗き込むのに紙をさしだす。クレヨンの匂いがした。 「ああ、あの橋の絵ですね」 「ナルトくんとかもいますよ、ほら」 「ほんとだ」 「忍の方はこういう写真みたいなのを残しちゃいけないのかしら」 うーん、とカカシは頭をひねる。これだけで、木の葉の忍びってわかるわけないでしょうからね、といって、自分を画面の中にさがす。犬をたくさんつれた棒みたいな人物をみつけて、これですかね、と笑った。 「もう、随分と前のことなんですね」 「そうですね、イナリくんが大きくなってて、あれ、いつの間にって。そろそろ年かなあとか思っちゃいますね」 私より年下でしょう、といえばどうでしょう、と似たような抑揚で返してカカシは笑った。 「……男の子って、やっぱりもう母親に絡まれたくないものなのかしら」 「イナリくんですか?」 「ええ。一人っ子だからって、私、構いすぎなのかもしれないと思って」 「うーん、俺も子持ちじゃないですからねえ、なんとも言えないですけど。うーん、なんていうか、けっこう成長するじゃないですか、体とか、あと頭っていうか、ええと人格?性格だとか。言いたいこと、わかりますかね?」 うまくいえないんですけど、と眉尻をさげるカカシにツナミはなんとなくとうなずく。 「考えも大人びてきて、行動も大人びるっていうか。自分の意見がちゃんとできるじゃないですか。でも実際、子供なわけじゃないですか。で、父親だとですね、たぶんあんま考えなくても降参できるんですけど、お母さんだと、男の子なわけでしょう。その、面子っていうか男の子としてのプライドっていうか見栄っていうか、そんなものがあるから、こう、つい乱暴になっちゃうんじゃないでしょうか。説得力、ないんですけど」 こういうの、得意そうな人なら知ってるんですけど、とカカシは頭を掻いた。 「どうもオレは、向いてなくて」 「いえ、なんとなく、わかりました。ありがとうございます」 「え、ほんとですか」 「やっぱり、男の人じゃなきゃわからないものってあるんですよね。ちょっと、考えてみます」 |
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