恋人は危険な暗殺者!? いやな男だ、と吐き捨てられ、カカシはわざとらしく眼を瞬いた。 南欧の古城から内装の一部を移築した室内は、いまだ当時の鮮やかさを失わない酒食の神バッカスとニンフが虹の野でたわむれあう天井画、アポロンの求愛からのがれるために月桂樹になってしまった乙女ダフネの黄金律の彫像、やわらかく光を反射するクリスタルをふんだんにつかったシャンデリア、柔らかな曲線と精緻な彫刻で彩られた調度のひとつをとってみてもどれほどこのクイーン・エリザベスに投資されているのかがわかるというものだ。 はこばれてきたコーヒーとフィナンシェ、ソーダのグラスがチェスボードをもしたアンティークのテーブルに並ぶ。カフェ・シュヴァルツァーだ。 「ディーラーの眼をかすめてカードを一枚がめたろう」 「なんのことですかね」 「手癖があまり悪いと四大叔に睨まれるぞ」 言外にしめされたのにカカシは口元だけで笑った。 「……猫、好きなんですよ。いいコーヒーですね」 「夏場はこれがいい。炭酸水やフィナンシェで香りに慣れないようにして、コーヒーを一口ひとくちじっくり楽しむんだ。ヨーロッパでうまかったのはこれぐらいだな」 「大叔父ぎみはずいぶんとあの二人に入れ込んでますね」 「前はヨーロピアンが好きだったんだがな」 「へえ」 「世話してやろうか」 このフロアの従業員だれでもいいぞ、部屋の番号さえ教えてくれればとチャールズ・イェンは笑った。見回してみてカカシはすこし呆れる。いままで気がつかなかったがメイドたちやボーイはどれもずいぶんと見目が整っているが、下世話な斡旋まがいもしているのか。 「いいえ、いりませんよ」 「晩霞がいいと言うならあいつでもいいぞ」 しつこいな、とカカシは笑いカップを置いた。 「あの二人はどこから?」 「香港の旺角モンコックで黒幣の下っ端をやってたのさ。払尭はもとから使えたし、晩霞もガキだが運び屋には十分だったしな。俺が手元で育てたんだ。それに四大叔が眼をつけただけの話だ」 因業ジジイめと口調は吐き捨てるのに近く、顔にも眼にもどうしようもない嫌悪が浮かんでいる。 (使えるにしろ使えないにしろ、勝手に手をだされて怒ってるってとこかね) 失礼します、とドアをノックする軽い音、入れ、とチャールズ・イェンが返したのに両開きのドアが開いた。 「お茶のお代わりをおもちしました」 ワゴンを押しながら入ってきた人影がカカシをみて一瞬眼を丸くする。だが端正な面はすぐに凪ぎ、なにを思っているのかは知れない。 「ミスタ・イェン。兄がこれをお渡しするようにと」 「ああ、よくやったな、晩霞」 恭しく絨毯に跪いたサスケは両手に捧げもって小さなディスクをチャールズ・イェンに差し出す。立ち膝のまま左拳を右手に包み、頭を下げた。 「あなたは俺ら兄弟の恩人です。親にも等しい」 さしだされた手の甲に拍車をさずかる騎士のよう、うやうやしく唇をおとすさまをカカシはあっけにとられて見下ろしている。とてもサスケとは思えない。チャールズ・イェンはカカシの愕く顔をみて満足げに唇をつりあげると、サスケのまだ幼い頤をなで、何事かを囁いた。サスケが一瞬、眉根を寄せて小さく反論する。だがイェンがつよく言えば、カカシを見つめながら小さく「同意了わかりました」と呟いた。 「お疲れだろう、払尭のご友人。ゆっくり休むがいい。あとは晩霞が世話をする」 立ち上がったチャールズ・イェンにカカシはすこし笑う。 「……なんで俺なんかにそう親切なんです?」 「おれは四大叔とちがって、いやな奴ほど懐柔したくなるんだ」 光栄ですね、と返したカカシにチャールズ・イェンはごゆっくり、と笑い出て行ってしまった。カカシが立ち上がり廊下を歩き出すとサスケも無言のままについてくる。部屋に招きいれ、ドアを閉めたとたんサスケは従順な仮面をいっそ鮮やかなほど脱ぎ捨てた。 「いつの間に、近づきやがった」 「依頼主はチャールズ・イェンか」 「ミスタ・イェンはそんなんじゃねえ。答えろよ、カカシ」 「おまえ―――」 あいつがどんな商売しているのか、知ってるのか、といいそうになって口をつぐむ。なんであれ、諜報員が手にした情報を口に出すのはあってはならないことだ。カカシはサスケに手を伸ばした。 「サスケ」 「俺に触るな」 手を伸ばせば、たやすく落ちてくるのにどうしてとどめることができるだろう。どこまでも果てしなくふかい夜空をおもわせる黒水晶のような瞳、その極上の輝石が気高さと怯えの間でゆらめくさまは、あまりに脆くカカシを惹きつけた。夏の朝、きらめく露をまとわせて馥郁と花ひらく薔薇のようだ。無粋な手は傷つける棘をもつ。だが薔薇は血のついた手に手折られるために美しく咲くのはないのだろうか。 「お前がいやがることはなにもしないよ」 「じゃあ、触るなよ」 「なら逃げればいい」 そんなこと、できたらとっくにしている。 壁に背中をはりつけながらサスケはつよく目を閉じる。指先までが震えてどうしようもない。怖くて足も竦む。カカシのせいで自分の体はなにも思うようにならない。ただ耳元で名前を呼ばれるだけで動けなくなる。 「サスケ」 唇が耳の後ろに吸いつく。ぴくりと肩を跳ね上げ、サスケは逃げようとする。 「おまえが欲しいよ」 「信じない」 耳から頬のラインをことさらしらしめるようにたどり、震える喉仏にカカシはかるく歯をたてる。掠れた声をだすサスケの頑なさに目を覚ます獰猛な自分をおさえ込みながら、カカシは喉元にあてがわれたナイフを親指でなぞる。 「うそじゃないよ」 「嘘だ。俺に触るな」 最後はなかば悲鳴じみた。必死でナイフをつきつけてもカカシは恐れるでなく、唇を寄せてくる。 「やめろよ!」 「やめないよ。いやなら逃げればいいって俺はいっただろ」 ナイフをひこうとした手をつかまれて壁におしつけられる。サスケがきつく瞼をとじると、唇をたやすく奪われた。 「ん……っ」 いつでもカカシはたやすくサスケの内部に花でも踏み散らかすように入ってきて、ぐちゃぐちゃにしてしまう。自分が自分でなくなって、なにもかも遠くなってどうにかなってしまう。 「サスケ」 なんで逃げないの、ときかれてもわかるもんかと胸中でかえすばかりだ。 唇がはなれるころにはすっかり息があがってしまっている。耳元でカカシが熱っぽい息を吐くのに、サスケはちいさく震えた。腰をつよくだきよせられ、胸に頬をおしあてられる。サスケ、と呼ばれると耳からというより体から振動になって響きのよい声が伝わってきた。 「なあ、サスケ。今すぐじゃなくていい、俺のところに来ないか」 「なに、言ってんだ、アンタ」 かすれた声をだし、見あげたサスケにカカシは真摯な眼差しを返す。 「チャールズ・イェンのそばにいたって、今のチェンみたいな奴にあてがわれて利用されつくすだけだぞ。俺はお前がそんなにされるの、見てらんないよ」 「犬のあんたに、なにがわかる」 「たしかに俺は組織の犬だよ。でも俺は犬であることを望んでやってる」 カカシはざらりと左眼をおおっている髪をかきあげた。縦にはしる傷痕は抜糸痕もなまなましく隆起し火傷跡のように鮮やかな色をして、傷の深さを彷彿とさせる。 「俺は組織のありようも倫理を認めてる。だから片目をうしなったって後悔してない。でもお前はちがうだろ」 それともまた俺と寝たいか、と聞かれてサスケは詰まる。できないだろ、とカカシは揶揄して笑った。 「おまえら兄弟に新しい戸籍をつくってやることだってできる。ふつうに、まっとうに暮らせるようにしてやる。お前らはこんなとこで腐っていい人間じゃない」 バカじゃねえのか、とサスケは吐き捨て、ひた、とカカシを見据えた。 「それで俺がイェンを裏切るとでも思うか。イェンを裏切ることはうちはの名折れだ。うちはであることは俺の誇りだ。邪魔をするやつは誰であろうと容赦しない」 そうか、とカカシはつぶやくと、小さく笑ってサスケを抱きしめる。 「でも、嘘じゃないよ、全部」 なぜだか無性に胸が痛くてサスケは顔をしかめた。この男がいうことは全部嘘にきまっているのに、体温ばかりはホンモノだからたちが悪い。うつむいたサスケはカカシの胸をかるく拳で叩いた。 「放せよ、帰る」 「ここに居てよ。大事な客ほっぽりだしたら怒られるよ」 「…」 「一緒に寝てよ。おまえのやがることはしないっていったでしょ」 安心して、と右目をたわめて嘘みたいに優しく笑う。信じてみたいと一瞬だって思ってしまう。 (ひでえよ、アンタは) また俺と寝たいかと聞かれたとき戸惑ったのは、もう二度と抱かれたくないからだ。 だがその理由は? 考えるのが怖くてサスケはカカシの腕の中で目を閉じた。 海鳥の声に眼を覚ますと、船室の窓から暁光がさしこんでいた。ミルクの海のようなシーツにちらばる黒髪、寝汗で額にはりついたのをそっとはがすと、まるで犬のように手のひらに頬をすりつけてくる。だがそれもサスケが眠っている間だけのことで、けして心の奥までカカシを受け入れたわけではないのだ。 (むりやりしちゃったしね、あたりまえなんだけど) 白い陶磁器のようになめらかな肌は冷たそうなのに、サスケはとても温かい。そうっと俯いて頬に唇を落とした。伏目になれば黒曜石のような眼差しをけぶらせる睫がちいさく震える。 (ああもう、攫っちゃいたいなあ) 夢みたいなひと時はもう終わりかと、名残惜しくなってカカシはサスケの唇に自分の唇を重ねた。 「……ん」 「サスケ」 「ん」 「ん?」 するりと腕が首の後ろに回ったことにカカシは戸惑う。眠たげにとろけた黒い瞳がふうっと閉じられて、小さく唇をついばまれた。 「ん」 「……朝から嬉しいんだけどね……」 そんなことをされると昨夜一晩がんばりとおしたなけなしの理性が吹っ飛んでしまう。下手に体温や、あのときの声をしってるからいけない。いたずら心がむくむく頭をもたげるのもしょうがないだろう。サスケの細い足がカカシの足に絡まり、さらに引き寄せられる。 「……あー、もう」 頬にちゅ、と口付けて、首筋にすいつくと、白い指がカカシの髪の毛をかきまぜる。耳朶を舐めれば犬の子供のように小さく肩を震わせた。朝も早くからただれてるなあ、と思いながらもカカシの手はとまらない。 「誰とまちがえてんのよ」 もうこんだけしたらいい加減おきるだろう、とカカシの手がパジャマの裾に忍びこみ、すべらかな胸をなでたときだった。 「ん、カカ……」 なにかふわふわとくすぐったくてとても気持ちがいい。猫か犬かがじゃれついてくるみたいで、やわらかい毛並みも手ざわりがよかった。喉のうすいところを舌でなめられると、なんだかくすぐったくてきもちがいい。抱き寄せるだれかの声に名前を呼んだ。 ふっと水からうかびあがるように、意識がいっきに晴れた。朝のまぶしい光、見覚えのある天井、見慣れたくもなかった銀色が目に映った。 サスケは目を見開く。胸元にすべりこんでるのは節ばった男の手ではないか。 「……な!?にしてやがッ」 ぶっちゅう〜。とカカシにキスをされてサスケの抗議は飲み込まれてしまった。三分後、顎ががくがくするぐらいでろでろにさんざんやりこめられて、サスケは朝から荒い息を吐く羽目になった。 「なに、しやがる…!」 「どっかの誰かさんが色々するもんでね」 さすがの俺もあぶなかったよー、とべたべたになった唇をぺろりとなめたカカシは頬杖をつきながら至極機嫌がよさそうだ。 「いーい眺めー」 「どこ見てやがる!」 寝相がわるかったせいかなにか、すっかりまくれ上がって太ももまで露になっていたバスローブの裾をサスケは押さえた。よいしょ、とたちあがったカカシはサスケを見下ろしてくる。 「でもオレ、紳士だったでしょ。なーんもしてないよ」 「……よく言うぜ」 「厳しいね」 言いながらちっとも堪えた様子もなく、ひょいと上半身をかがめたカカシはサスケに顔を寄せてくる。なんだかもういい加減抵抗する気もうせてきてしまった。 「ほら、お兄ちゃんが迎えに来てるから顔洗っといで」 「!」 絶妙のタイミングでかかったノックの音にサスケは慌てる。悪びれもなくサスケのこめかみにキスを落としたカカシはドアへむかい、来訪者を迎え入れた。 「おはようございます、カカシさん」 「おはよう」 「弟が世話になりまして」 「いえいえ、お世話なんてとんでも。……なんもしてないからね」 「ミスタ・イェンがおしえてくださいましたので、ご安心を」 ちらりと寝癖で鳥の巣みたいな頭をしたカカシを見やり、イタチはすこしだけ唇をもちあげた。言外にチャールズ・イェンのいい付けでなかったら、といわれているようで曖昧に笑って頭をかいたカカシはやっぱり苦手だ、と思う。 「ミスタ・イェンはなかなか気さくな方でしょう」 「まあね。仲良くさせていただいたよ」 「そのようですね。興味ぶかい話もよくしっておられる方ですから、話も弾んだでしょう」 ……直訳すれば『てめえのニュースソースを提供してやったんだから、弟にちょっかいかける前にとっとと引き上げろ』ということなのだろうか。 兄さん、といって顔をあらい身支度を整えたサスケがはしりよったところで、見せつけるように肩をだく白い手をみてカカシはため息をつく。 (……やっぱ苦手だ) クイーン・エリザベスの処女航海、その幾度めかになる朝の静謐をやぶったのは銃声だった。 |
「恋人は危険な暗殺者!?5」/カカシサスケ |
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