来いこい、と伊勢や宗兵衛がサスケを手招きした。三味線を壁に立てかけ、サスケがすり足で近寄ると、そこに座れと顎をしゃくられて、傍らに正座をした。長唄を金糸銀糸で重たい衣装でおどりきり、額ににじんだ汗を薄紙でおさえていた薄雲や小糸、他の視線がしぜんと伊勢やとサスケに集まる。 「ええか、おまえさんのな、三味線はな、とても聞けたもんじゃあない」
開口一番の科白に、サスケは面食らった。 薄雲、小糸が合わせたればこそ、何とかかたちになっただけで芸者さんと拍子をあわせれば、生習いの手など吹き飛ぶ、と伊勢やは続ける。 「厳しいこといってるがな、だがそれは当たり前じゃ。な?幇間さんやな、芸者は其れで稼いで何ぼのところで何年もやってきておる。お前さんみたいなジャリがホイホイできてたまるかっちゅうんじゃ。お前さんがなんとかなっとるのは、ただ単にそこらの餓鬼よりましなことができるからじゃ。勘違いしたらいけんぞ。そうじゃろ」 もっともなので、こくりとサスケが頷くと伊勢やはじんわりと笑って手を伸ばし、サスケの頭を思いのほかやさしい手で叩いた。 「だが坊主ぐらいの年でやるにはえらい。飯は食ったか?賄いでもろうたか?」 伊勢やが番頭新造をかえりみれば、大年増は苦笑して首を振った。伊勢やは番頭新造を手招きし、手の中に金を押しつけた。 「膳がもう空じゃ。皆さんにうまいもんでももってきてさっしゃれ」 番頭新造がちらと手の中に目を落として、瞠目すると、伊勢やは気持ちじゃ気持ち、とだけ言ってとっとと行って来いとばかりに手を振った。そしてまたサスケに首をねじ向ける。 「わしはな、お前みたいな坊主は好きじゃないんじゃ」 またまたはっきりいう爺さんだ、とサスケは思う。言いたいことをずけずけと言う、でもなぜかむかっ腹が立たないのは何故だろう。厳しそうな顔をしているが、歳月をきざんだ皺のおおい顔が笑うととたんにやさしいからだろうか。 「男におごってなにが楽しい。かわいい女の子に食わせたほうがよっぽど楽しいかわからん。ええか、ただで男におごりゃあせんぞ。次の座敷までにもうちっとましな三絃ぺんぺんを聞かせてみせい。きちっと稽古してな、わしみたいな素人にボロが出んようええ気分にしろ、な、ええか」
一方、賄い方に行こうと立ち上がった番頭新造をおいかけて、カカシも離れの廊下に出る。雨降る渡り廊下の中ほどで気配に気づいた番頭新造が振り返って何か、と尋ねるのにカカシは歩み寄った。雨靄にかすんで花の姿は見えないのだが、梔子の甘い香りがただよっていた。
「すみません、サスケの事情はご存知で……?」 番頭新造がいう答えはカカシの問いたかったことと違っていたし、珍しくない、というのも九尾絡みの話だが、サスケの場合はまた事情が異なる。だが訂正したところで意味もないので、カカシは訊きたいことだけを訊くことにする。
「あ、そうじゃなくてですね、あの伊勢やさんという方は」 手の中の金子を見せられて、カカシは目を瞬く。 「全員分を頼んでもお釣りが来ますよ」 番頭新造はすこし崩れた鬢を指で直し、懐から懐紙を取り出した。くるくると金子を包んで、カカシに手を差し出す。
「伊勢やさんからのいただきだって、あの子に渡しといてくれますか」 さらりときびすを返した背を見送って、カカシは手の中の金子をしげしげと見下ろした。 (なんだか、ずいぶん可愛がられてるのね)
「坊ちゃんの ぐぐっと飲むとこ 見てみたい」 小糸の声にカカシは座敷に足を踏み入れて、何の音頭だ、と視線をめぐらしてぎょっとした。 「ア ソレ ア ソレ ア ソレソレソレソレ」 手拍子と音頭にあわせてきゅっきゅっきゅー、とサスケがいっぱいに注がれた盃を傾けている。口の端から飲みきれない酒がこぼれていたが喉仏が上下していて、ほんとうに飲んでいるのかとカカシは呆れる。 「アアレ 坊ちゃん いーい男」 やんややんやの喝采に、サスケはいたって平然と口をぬぐい、すすめた小糸に返杯をすすめていた。白い蓬髪、相当広くなったおでこのてっぺんまで赤くした伊勢や宗兵衛が手をたたき、魚清の隠居もにこにこと酒をなめている。 「姐さんの ぐぐっと飲むとこ 見てみたい」 サスケのすすめに小糸も漆塗りの盃を両手でいただき、にこりと首をかしげながら目礼をする。すーっときれいに飲み干すのに、カカシも思わず手を叩いてしまい、なんだかプロだ、と呆れをとおりこして感心がたってしまった。 「アアレ 姐さん いーい女」 サスケはといえば、特に頬を赤くするでもなく、また給仕の手伝いをしてちょこまかと動いている。 (もしかして……ザル?) と思っているうちに、すすすといざりよった初緑がにっこりと笑ってカカシに盃をさしだす。
「伊勢やさんの大盤振る舞いで今宵は貸切の無礼講、どうぞめでたき御酒にござんす、居合わせたのも何かの縁と、さささ、兄あにさま、どうぞおひとつ」 ととととと、と注がれる酒はずいぶんと香りがいい。嫌いではないしいける口なので思わず受け取ると、初緑が白い手を叩いて音頭をとりだした。気がついた小糸が太鼓をテンツクと叩き、手拍子がはじまる。膳をかこむ皆にカカシは杯をあげて目礼をした。酒はうまいしネエチャンはきれい、ならば何を考えることがあるものか。般若湯だ、般若湯。
(……ま。タダだし。場が白けちゃうのもなんだし。ちょっとぐらいいっか) 自己正当化の理由をあっという間に数え上げたカカシもきゅーっと杯を干したのであった。 「アアレ 兄さん いーい男」
とっぷりと夜もふけたころ、ようやく伊勢やがつぶれて座敷はお開きになった。お泊りで、と伊勢やは薄雲の座敷に、初緑も小糸もひきあげ、後片付けをはじめようかというとき、かくかくん、とサスケの膝が折れた。カカシはとっさにサスケの手首を持って、こけないように支える。
「足にくるタイプなんだ、お前」 何だおまえ飲んでないのか、さあ飲めさあ飲めとかいわれて、つぎつぎ酒注がれるタイプだよ、おまえ。
「あんただって相当赤いぞ」 くっくとやたら気持ちのいい酔いが回って、身振り手振りも交えいつもより声が浮ついている気がする。 「からむな酔っ払い」 ぐいー、と腕の長さぶん、顔を押しのけられるが、ずいぶんと力が入っていなかった。押しのける手を握りこめばじわんと温かく、微熱をもっているようだ。ほんのりと赤い頬も視線もどこかふわふわとしていた。 「……お…っと。ほら、平気か?」 倒れそうなサスケを床に片膝ついた格好で支えた。一人で立てる、とサスケは言うが、強引に腕を取るとすぐに抵抗がなくなる。
「お前、何で飲んだの?」 カカシの肩口にのった頭が持ち上がろうとして、かくんと落ちる。白河夜船になったサスケの髪の毛と息が首筋をかすめて、すこしくすぐったい。音頭とられたし、とぼんやりした声がぼそぼそと聞こえて、だからってなあ、とカカシが呆れかえったときだった。 「先生、あらあら。そっちも」 小糸がさらさらと衣擦れとともにやってきた。番頭新造がもうサスケはあがっていい、と言っていたとの言付けをもらって、カカシはよかったと胸をなでおろす。
「ごめん、すこし休めるところある?」 すい、と振り返った小糸はなにやら少し顔を強ばらせてカカシの傍による。
「?」 袖口を袂でかくし耳元で口早に囁かれた言葉に、カカシはあの因業オヤジも来ていたのかと眉を顰めた。小糸はちらとサスケに目をやると、さらに言う。 (ご贔屓がたの悪口は言うもんじゃあありんせんが、どうもねえ。ですから、どうぞお含みくだしゃんせ、尾白に世話は任せます。さ、はよう) そのわりにまんざらでもなさそうな顔だね、という余計な科白は飲み込んだ。男と女は異なもの妙なもの、この翠楼での野暮はご法度だ。サスケを連れて、とっとと隠れろという話だった。まあ、敵(?)の敵は味方というし。 こちらに、と案内する禿に連れられて、カカシはよいしょとサスケを抱えあげ、小糸の座敷にふたたび足を踏み入れたのだった。
髪の毛を梳く感触にサスケはぼんやりと目をあけた。
「……蒸しあつい」 長日の暑熱は雨にさめるどころかむしむしとなるばかり、きりっと冷えた酒と氷片でうっすら汗をかく硝子のすずしげな淡青をみて心ばかりの涼をえるしかない。
「水のんで酒出したほうがいいよ。湯冷ましあるけど飲む?」 そう、と頷いたカカシは空いた手で白い団扇をはたはたと動かした。ゆるい風も体温の低いカカシの手もすこし気持ちがよくて、サスケは目をつむる。 水沿いだけに蚊も多くなるため、夏ばかりはあまい丁子、麝香よりも、蚊遣りのいぶすようなとがった匂いがする。それでも七宝焼きの香炉から物憂くたちのぼる烟りに栴檀やら伽羅がまじる上物なのは、安かろう悪かろうがほしい客は、病気もちと名高い羅生河岸にいけばいいだけの話だからだ。客筋からして違うのだ、店構えが違うのも当たり前だ。 だんだん目が醒めてくると、髪を撫でるカカシの手に落ち着かない。けれどすこし経ってしまったせいで今ふりはらうのは間が悪い気がして、やめてくれともいえない。 そういえば頭を撫でられるなんて、サスケ本人があまり好かないせいもあったし、めったになかった。イルカはやたら子供の頭をごりごりと撫でるほうだったが、遠巻きにしていたからアカデミーの数年をとおしても数えるほどしかなかった。カカシの手は強引さを持っていなかったが、どちらにしろ、なんだか落ち着かなくて苦手にはかわりない。 視線を動かせば、見覚えのある部屋だった。だが、娼妓の部屋はどれも似たり寄ったりで、誰がどれ、とまではわからない。 「小糸姐さんの座敷だよ」 やけに生々しい科白に聞こえた。いまさら、ここは花街なのだと思う。サスケはじっとカカシを見る。そういえば、この男も客として通い、女を買っているのだった。それもサスケも顔見知りの女だ。そう思ったらもうだめだった。カカシの手が何か得体の知れないものみたいだ。かっと耳が熱くなるのがわかる。 ながい凝視に、なに、とカカシが訊ねれば、なんでもない、とサスケは首を振り、ごろりと背を向けてしまった。サスケの後姿に、カカシは手持ち無沙汰になった右手をひっこめ、はたはたと団扇を動かして障子をあける。雨はやんでいた。 なんだかな、と思ってカカシは頭を掻いた。窓の外、夜空には黒い雨雲がながれ下弦の月が浮いていた。ちゃり、と軽い音がする。
「あ」 サスケが振り向くとカカシがずずいと手を差し出した。
「そうだ、そうだ。忘れてた。これ」 手の中に落とし込まれた紙包みの重さにサスケが眉をしかめる。どちらかといえば、困ったようなとほうにくれたような顔だった。実はおひねりの全部だとほんとうのところをカカシが言えば、サスケは絶対返すと言い張るだろう。だからカカシは黙っていた。
「ちゃんと受け取りな」 失礼、という言葉にサスケは困ったような顔をする。それに困ってるんだろ、と駄目押しすれば、サスケは渋々ながら紙包みをようやく懐に入れた。ほんとうに強情だ。人の好意は素直にうけとるものだと思う。 (お節介だったかな) やっぱり自分がサスケがどう稼ぐ云々に口出ししたのは間違いだったかといまさら思った。まさか月末に食料調達に出るほどだとは思わなかった。節約するときにまず削るのは衣料品、だからサスケの格好はいつもお決まりの奴だし、次は光熱費、それから食費になる。 (いや、だからってなあ) 場所柄ってもんがあるだろう、と思う。先の三河屋みたいな手合いがいないともわからないし、なんだか面白くない。それにいちいち心配して登楼するのも面倒でいやだ。 すでにカカシの頭からは「心配しないで放っておく」という選択肢がなくなっていた。 遊里の夜も更けて、ときおり車の音が響くばかりで喧騒も潮が引いたようにかすかなものだ。どうにも進歩的な考えが出てこないカカシは横臥するサスケの背に視線をやり、ん、と首を傾げて、まじまじと見る。それからおもむろに手を伸ばした。 「……なにしやがる」 するすると後ろから尻を撫でられ、鳥肌だったサスケは首をねじ向けた。
「いんや、無いなあと思って」 ふうん、そんなもんか、とサスケは自分の尻をみおろした。べつになんのへんてつもない、布に包まれた自分の尻があるだけだ。
「女の子とかけっこう気ィ使うけど。え、それでおまえ何はいてるの」 パンツ何はいてるの?ってまんま痴漢のセリフだよなあとカカシは他人事のように思う。サスケは何の話をしてやがるとばかりに眉をしかめた。だが口は止まらない。 「女の子だとTバックとかだけど、おまえそんなビキニパンツはいてるの。って言うか持ってるの?」 いやそれとも、と思い当たったのにカカシは愕然としてサスケをみおろした。
「……それともノーパン?」 言いかけてサスケは言いよどむ。
「ふ?」
だが目の前の葭簀よしずに、「ハウツーふんどし」なる張り紙がしてあったのだ。まったくもって意味が分からない。(後日サスケがたずねたところ、せっかくそういう場にきているのだから、雰囲気を盛り上げるため特別に、と試したがる人間がいるらしい。だが所詮脱ぐのが目的であるし、いちいち着付けてやるのも何なので、張り紙でまにあわせているのだそうだ)。 逡巡はみじかかった。いかにサスケが勇敢であろうとも、木の葉一の優秀血統だろうとも、襦袢やたとえ腰巻があろうとも公共の場でブランコさせるのは蛮勇というものだ。えいしょ、とサスケはふんどしを手繰り寄せ、ハウツーふんどしの前で仁王立ちになった。 (まず顎に晒し木綿の端をはさみ……?もう一方を股下から通して……、後ろに回し持ち上げてねじる…) なんだかお尻の間に固い何かが食い込むという感覚が初めてでサスケはぞわぞわした。それでもどうにかこうにか、マニュアルどおりにきりりと締める。少々おちつかないが、意外や意外、履き心地は悪くなかった。 (緊褌一番っていうしな) きつめにしめると、心なしかきりりとひきしまる気がする、ような気になる。前をつつむ糊のあまりきいていない晒し木綿のするするしたさわり心地も肌に馴染みがいい。用足しのときは布地をぐいと横にのければいいだけの話で、使い勝手も悪くなさそうだ。
後ろ半分がほぼ丸出しなだけ、夏場には涼しいかもしれなかった。サスケは悪くないと、腹のあたりをぽんと叩き、用意してある着換えに手を伸ばしたのだった。
「……チィ」 尻の間でごりごりするのにだけは慣れなかった。
「……赤フン?」 サスケはぼそぼそと言っていたが、カカシのセリフに体を起こし、声を荒げる。
「ただのふんどしだ!」 やってられるかとばかりにごろりと横になって、サスケはふたたび背中を向けてしまう。
「はきごこちは?」 まだ丸みの残す頬に、すこし赤味が差している。黒髪の間からみえる耳もほんのりと赤い。 (まずいなあ) なんだか、すごいうずうずしている。さっきサスケを抱き上げたときに首筋を掠めたくすぐったさを思い出して、這い上がるすっかりなじみの感覚をもう変だとか思わなかった。ただ単に見ようとしてなかっただけだ。思ったより自分は節操がなかっただけのことだ。 そう、どんな肌をしているか、もう知っているのだ。 実はひとつかみできる手首の細さだとかちょっと怯えてる感じにどきどきしたとか、首筋がほそくて、足の肌がすべすべだったからパンツを掴んだ手が不埒な動きをしそうだったとか、下着なしで袷が乱れてるのをあまり直視できなかったとか、それから。 髪の毛を撫でる体温の低い手にサスケは思わず肩を揺らした。後ろ頭、旋毛のあたりから髪の毛の流れにそって、カカシの指が撫で下ろす。 「……っ」 そろりと首筋を何かが撫でた気がした。でも振り返ることはできなかった。背中の神経がとがっていて、カカシにぜんぶ向かっていた。 目に見えて緊張しているサスケの背中にカカシはなんだか楽しくなってくる。そんなにびくびくしなくてもいいのに、と思う。触られることに慣れていないのだろうか。でも気にかけてもらえるのは正直うれしい。そういえば、ここではサスケは年相応の子供として扱われるのを当たり前と受けとめているようだった。なんだかその顔を見れてうれしいのか、うれしくないのかよくわからない。 髪の毛を梳く指先にサスケの体温がじわりとぬるく沁みてくる。
「カカシ」 心底不思議そうなカカシの声にわけのわからない緊張でがちがちになったサスケはなにいってんだこのウスラトンカチが、とむかっ腹を立てた。生徒の前で女といちゃつく教師がいてたまるか。ふつうありえない。いや、だが生徒の前でエロ本を嬉々として読む教師だった、と思いだす。こいつならありえないことではなかった。
「だってアンタ」 耳の後ろをカカシの指が掠めて、もうダメだった。びくびくとすくみ上がったサスケはがばりと上半身を起こし、すこし面食らった顔をしているカカシを睨む。 「姐さんが来るんだろ。だいたいアンタ」 しばらく口を開き、閉じをくりかえしたサスケはうつむき、熱をもった額に手のひらをおしあてた。自分の顔が赤くなっているのを自覚して、額を手の甲でこすりながら畳を睨む。 「女買いに来たんじゃねえか」 だから帰る、といって脱兎のように逃げ出しそうになるサスケの手をカカシがつかんだ。 え、と驚く暇もない。いったいどこをどうしたものか、布団の上にうつぶせに転がされていた。右手の関節をきれいに押さえ込まれて後ろから覆いかぶさってくる体温の近しさ。なんだか前と似たような状況に、サスケは呆気にとられ、それから血が上るのを感じる。こいつの冗談はまったくもって笑えないものばかりだ。
「おい」 首をねじ向けて睨むサスケに上から覆いかぶさるカカシはにこりと笑うだけで答えない。 「小糸姐さんはこないよ。馴染みが来てるから」 悪い予感がした。
晒し木綿のふんどしはきつく締めても普段つけなれていないだけ、ゆるみやすかった。 「あ」 前を覆う布の横合いからすべりこんだ手にカカシの下になったサスケの膝がわななく。黒髪がざらりとした青畳の上でにぶい光をはなって揺れた。急所なだけにそこをとられると身動きができない。目に見えてサスケの抵抗が中途半端なものに変わる。それでなくても、襟を引きはぐようにして下ろされた袖がサスケの両腕の動きを邪魔をしていた。
「ぃ、つ」 このぐらいの年のときってこのぐらいだったっけか、と懐かしい気さえなる。自分も体が大きくなった分、手も大きくなっているから、相対的な記憶はあてにならない。なんだか握りつぶしてしまいそうで、指先でそろりと撫でると小さく声をあげた。 「……てめ、ッ……あ」 畳のへりに爪を立てるがむなしくすべる。着物からは栴檀かなにかの香の匂いがして、うつむいて堪える首筋や押し殺すような息、熱にうるみだしあわく染まる肌も、手の中で遊ぶものさえなければ、まったく変わりはしない。
(酒が入るとよくなる質たちかね) 首筋に顔を埋めて舐めあげるとサスケの背中がそった。熱をもってぬるつくのを親指の腹でこすりながら、手を動かすと息を詰めて頭を振る。 「や、……いやだ」 ぐっと布越しに後ろから押しつけられたカカシの下腹にサスケは逃げを打つが、力の抜けた体はたやすく引き戻される。しかるようにきつく握られて、痛みに悲鳴をあげたサスケは畳に額をすりつけた。息で湿った畳からふるい井草のにおいがたちのぼり、息苦しくなる。日なたの埃めいたにおいは、場違いにすぎた。 「ん、くっ……」 なんで、と思う。
「あ、ァ」 かすれた声が耳元に落ちて、なにを勝手なことを、と思う。
「俺、思ったよりお前のこと好きみたいなんだけど」 俺だっていきなり突っ込んだりしないよ、と手前勝手なことをカカシは考えながら、指先を遊ばせる。引く気はさらさらなかった。 「ん、ぅ」 すこし醒めたと思っていたが、十分に酔っ払っているらしい。なんだか、サスケがいちいち小糸を気にするのに、すこし喜ぶ自分がいたりした。眞田屋でかわいがられてるのが、うれしいような面白くないような気もした。三河屋にはあとで脅しも掛けておこうと思う。
「好きなんだけど」 ふ、と月が雲に隠れた。
「先生、おきなんし。もう日も高くなりぃした」 細い女の呼び声にカカシは目を閉じたままむっと眉を寄せた。布団から顔を出して、まぶしさに顔をしかめる。とうふう、とうふうと気のぬけた豆腐売りの笛の音が響くのに、なんなんだと体を起こした。くあ、と欠伸をして、やすっぽい赤色の衾にぎょっとした。
(あ……、そうか) 昨夜の狼藉のまま、しわよって乱れた布団にカカシはわたわたと掛布をとりあげて、まるまってすうすうと寝息を立てるサスケにかける。ぴくり、と眉根を寄せたのに起きるかとどぎまぎしたが、サスケはごろりと寝返りを打っただけだった。その拍子にせっかく掛けた掛布が乱れて、はだけた紬の裾から太ももまであらわになるのにカカシが居たたまれなくなった。 そーっと掛布をもどし、自分の姿を見下ろして見苦しくないと確認してから襖の外に滑りでる。にこりと笑って控えている小糸に回れ右をしたくなった。
「小糸、どこだ」 櫛をとりにいっただけですえ、と答えるのに三河屋じゃなかったの、と尋ねれば、小糸はさあ、なんのことでありんしょう、と素知らぬ顔をする。カカシは額当ての上から左目を押さえてうつむき、口をへの字にした。ほんとうに参ってしまう。流し目をした小糸の目じりが機嫌のいい猫のように細められた。
「首尾は?先生」 耳慣れないことわざにカカシが畳と女房はかえるがいいじゃないの、と訊ねれば小糸はふんと鼻で笑う。 「はめればおさまるもんでありんす」 あけすけなことを言われて、カカシは笑うしかなかった。小糸はやれやれとため息をつく。わざわざ座敷まで貸してやったというのに。 「意気地のない方じゃとばかりおもっておりぃしたが、てんでおぼこい御仁ですわいなぁ」 あまりに心外なことをいわれて、カカシは脱力する。こういうときの女ほど手のつけられない生き物はないと、心底思う。あげく、まんまとはまった訳だ。
「いいんだよ。別に。時間はあるし」 恋ゆえに、野暮に暮らすもこころからってね、とうそぶくカカシに小糸はご立派なこと、ともらしただけ。サスケの洗濯を終えた着替えをカカシに押しつけた。
雨下の朝空はまぶしく、東には金色の雲。 |
「天紅」/カカシサスケ |
伽羅……丁子香の上等なもの。 |