バイオリズム
ああ、やばいな、これまともに当たるって思ったんだ。 浮遊感がして、それから消毒液とアルコールの匂いがした。アカデミーの保健室。ささやくような声が水中から上がったときのように飛び込んできて、カーテンの外を離れていくスリッパの音、ドアが開いて閉じる、廊下に遠ざかる足音。誰かが出ていった。 緑色のカーテンが夕方の光に染まっている。 じゃっとカーテンのフックが滑る音がして、差し込んだ西日に顔をしかめる。ベッド脇に唇の端にバンソウコウと不機嫌面、いわゆる不本意極まりない、と顔に書いた奴がいて、それでナルトは納得した。 「とっとと起きろ、このドベ」 「サスケのせいだろ」 ぐっと眉がよった。サスケの表情が動いたことに内心驚く。……おもしれえ。頭の後ろに手をやる。たんこぶが出来てる、だから嘘じゃない。 「あー。いってぇー」 「……」 サスケの眉間のしわが深くなった。カカシ先生に自分で責任取りなさいよ、とか云われてしぶしぶ付き添ってる不機嫌じゃなくて、不本意ではなくて、これはいわゆる、ばつが悪いという奴か。おもしろい。体術で吹き飛ばされて気絶させられたことは悔しいが、これは面白い。木登り特訓以来だ。 「……笑ってんのが見えみえだ、このウスラトンカチ」 眉をしかめたサスケはオレを見るとふと手首に目をとめた。いきなり物も言わずにカーテンの見えないところに行くから、オレは思わずはだしで床に下りる。 サスケはごそごそ銀色のワゴンの引き出しを探っていた。 「て」 スプレー缶を振りながらサスケが言うが、意味がわからない。なんだ、それ。 「……あ?」 「手え出せ。捻ってるだろうが」 ぎろりと睨まれ、ぐっと掴まれて、いきなり走った鈍い痛みに痛ぇ、と言いかけて無理やり飲み下す。ぜったい言わない、こいつになんか。けれどすぐに痛いなんて言葉なんか消し飛んだ。 手首を掴むサスケの手、その手が、赤紫にはれている場所をおそるおそると言っていいような、むしろ気遣うような、そう、臆病にやさしい仕草でサスケの冷えた指がオレの手首を撫でる。やわらかい、壊れ物みたいな触りかただ。 「おい、お前、これすぐに冷やしたか」 「寝てたら、治る」 「んなわけねえだろ」 「保健室の先生がそう云ってたんだってば」 「……」 チィとおなじみの舌打ちが聞こえて、どういう意味だと思った。 またなんかバカ云っただろうか。自慢じゃないがオレははどうも物覚えが悪く、知識が足りない。だからたまにサクラちゃんとかカカシ先生に異星人でも見るみたいな目をされる。サクラちゃんは呆れかえり、カカシ先生は苦笑、こいつは鼻で笑う。それでおしまい。 でもサスケはすこし眉根を寄せているようだった。 馬鹿にするのでもない、皮肉でもない、怒るような痛みをこらえるような表情。 はじめて見た。 なんでお前がそんな顔すんの。 また言葉を飲み込んだ。 サスケは立ち上がると、養護教諭とは比べ物にならないぐらいてきぱきとした動きでバケツに氷を入れ、水と生理食塩をぶち込んだ。何をするのかと思うと手を突っ込めと言う。氷が浮かぶところに指示通り両手を突っ込めば、捻ったほうだアホ、と来た。マジでむかつく野郎だ。悪口だけ口が回る。 最初は冷たくて気持ちが良かったが、だんだん悴んできて、針で刺すみたいに鋭く凍みる。とくに腫れ上がったあたりに鈍く骨をハンマーで叩かれるみたいな痛みがしてくる。本気で痛い。歯を食いしばった。弱音じゃない。 「……冷てえ」 「感覚がなくなるまでだ、出すなよ」 にべもない。戸棚をさぐっていたサスケは振り返りもせずに言いやがる。 「トロトロしてっからだ、ドベ」 「んだと」 「ウロウロ変なところに気を取られんじゃねえつってんだ、お前には集中ってもんがねえのか」 それとも二文字の熟語も理解できねえか、とまで冷笑つきで言われたらさすがに血が上る。 「……うるせー、てめー加害者の癖に。やっぱむかつくってばよ」 「フン、お前がぼけっとしてっからだろ。手、出せ」 「いちいち命令すんじゃねーよ」 タオルで水気をきれいに拭き取ると、サスケがベッドに腰掛けたオレのまえに膝をついた。 目を上げると、斜めに差し込むあかい夕べの光、白い頬に睫毛が影を落としている。形の良い鼻梁の線、雰囲気からは分からない、おもいのほか柔らかみの残る耳から頬の線をたどり、また睫毛の影が震えているようす、それらをまばたきもせずに見ていた。 身長はオレのほうが低いから、いつもは分からない。こうして見おろす俯いた首筋が存外ほそいのに驚き、頭の奥のほうで熱っぽいものがじわりとするのを感じた。 あつくて、痛い。 なんで?わからない。オレの手は氷水で冷えていて、サスケの指の冷たさもあるのに、サスケの掴んでいる場所から一気に熱が溶けて、脈打つたびに痛みを訴えはじめている。 「熱もってるな」 思わず手首を取り返そうとして動くと、とがめるように力をこめられる。強くない。でもさっきと同じ、握りつぶすのを恐れるような触り方だった。熱い、痛い。心臓からながれた血液が冷えた腕の中にヒビをいれていく、全部がサスケの手が掴んでる場所にいく。 手首がまるで心臓みたいだ。 アイシングスプレーが眼にも鼻にもしみるぐらい手首に吹きかけられて、顔をしかめた。キバあたりが嗅いだら鼻を押さえてひっくり返ってるだろう。かなり強烈だ。サスケもすこし咳き込みながらスプレー缶を戻すと、湿布を手首に巻く。 「押さえてろ」 唇でテーピングを咥えたサスケが片手で器用に伸ばしながら、鋏で切った。うすい唇の端につけられたバンソウコウにへばりつく視線を剥がした。後ろめたさが背中に張りついている。 最悪だ。なにが。自問してわからない。でも二度と前のように、サスケを見れない。 白い首筋にかかる黒髪をまた盗み見る。視線をまた引き剥がし、床の木タイルの網目を数える。盗み見を知る前、どんな視線だったかもう分からない。 黒髪の隙間にあった千本の傷痕さえ自動的に反芻している。最悪だ。わからない、だけど、最悪だ。痛々しいとか、悪かったとか、そんな見下すようなことを思うんだったらまだ良かったのに、ぜんぜんちがう。 殴り倒した張本人が、オレの左親指にテープを巻いてから手首できつめに固定し、その上からさらに太いテープを巻く。見てもないのに分かる。視覚以外の感覚で拾い上げている。 「手首を外側に曲げないようなテーピングしろ」 「……」 答えないでいると、小さなため息のおちるのがきこえた。手つきがすこしゆっくりしたものになる。左手を支えるサスケの指の位置がすこし変わって、テープの巻き方が見やすくなる。 サスケはいつも余計なことばかり言う。大事な何かを言わない。 だから喧嘩ではぐらかして、訊けなくなる。 (何でおまえがあんな顔すんの) (おまえ知ってるの) おもわず右手を腹に当てた。サスケが黒眸をあげる。 「腹でも冷えたか」 「そんなんじゃねーよ」 「ガキ」 眉をしかめてバンソウコウのはがれかけた口角を歪ませる。人を鼻で笑う、バカにしきった笑い顔だ。だけどアカデミー出たての下忍でこんな笑い方がひとりだけなじんでいる。ほんとうにムカつく野郎だ。 鋏がテープを切って、とめた。オレの体温を移して、すこし温くなった指が離れていく。それからサスケは口端、青痣の上のバンソウコウを剥がした。確かめるように下唇をなぞり、眉をしかめている。片付けたサスケは立ち上がり、膝についた埃を払った。 「じゃあな」 夕映えの保健室を出て行こうとする腕を掴んだ。振り返った黒睛が驚いている。 頭を打ったせいでオレはおかしくなってる。だから今だけだ。 誰も聞いちゃいない下手な言い訳をなんども唱えて右手を、引きよせた。 スプレー缶が高い音を立てて足元に転がった。 |
バイオリズム/ナルトサスケ |
ナルサス連作その一。 |