「うるせえよ。じゃあ、もうすんな」 すこし赤くなった唇を舌で舐めたサスケは、サクラがいたら黄色い悲鳴をあげてしまうこと間違いなしのクールな顔、俺から言わせるとなんだか流し目に見えないこともない鋭い視線を投げて踵を返す。俺はピリピリ痛む顎と鼻をおさえてすこし呆然、まだちょっとキスの余韻で湿ってあたたかな唇が嘘みたいだ。くそ、舐めてしまえ。 だって死刑執行台の踏み板を囚人が外す音ってこんなんじゃないのか、と思うぐらい決然とした声だった。 いったい何が起こったっていうんだかちっとも分からない。 どん、と押されてよろけた拍子に、風を切る音がして勢いよくドアが閉じていく。 天国と地獄の距離がどれぐらいか? そりゃもうあれですよ、サルも赤面しちゃうぐらい青いバナナを甘くする熱帯のスコールもかくやってキスしてた唇があんなこと言うのと同じ距離だと俺はたった今このとき思ったよ。 もうすんな、だって。 うん? 説明? いっしょに歩こう 千里の道も一歩から、世の中には砂漠をラクダで下手すれば徒歩で踏破する人間がいるし、神話だけだと思われてた都を掘り当てる人間もいるし、筏で海をわたった人間もいたりする。無謀といわれた彼らの一歩は不可能を不可能で終わらせないためのはじめの一歩、ゼロから可能性を芽吹かせるための一歩だ。土くれに与えられた神様の息吹、屍から世界を成した太初の巨人の死、宇宙の大爆発とかそういうもの。 見栄をはっておおきな例えをだしてしまったが、人生は舞台って名言もあるわけで、はたけカカシという人生の主人公は俺、太陽だって主人公を照らすためのスポットライトだ。観客は俺ひとりだけどね。銀河系が宇宙の端っこなんていうのも問題ない。原点は俺、宇宙は俺に始まり俺に終わる、アルファにしてオメガ、地軸は俺だ。俺の中でね。 俺の前に道はなく、俺の後ろに道がある、その道のりのいくつかにもやっぱり節目みたいなのもあって、宇宙イコール即ち俺がなにかはじめた一歩が白い花を星みたいに咲かせてるだろうと思う。 青空からいきなり落ちてきた宝石細工の花束みたいな恋のはじめの一歩はいったいなんだっただろう。甘い匂いがしそうなのに触れてみれば硬くて水にかざることも侭ならない、手の中で見てるしかできない恋のはじめの一歩、オレの背中を突き飛ばし、恋のマンホールを前に足に空飛ぶサンダルを生えさせたはじめの一歩は? だが産声をあげたときをほとんど誰もがおぼえていないように、その恋の星も当然はじまりが曖昧でただはっきりしてるのは恋の星の実在だけだった。錯覚でも勘違いでもどっちだっていい、運命だとオレの心のドアをノックしてきた恋の存在がハートのエンジンを燃やして動かして、確実にオレの一生に許された鼓動の数をひとつひとつ減らしていってる。 そのハートをオレはただいま一分につき120ぐらいでノックさせて寿命を縮めてた。 手首をおさえて長い長いため息をはくと、すっぱだかのままお湯につかったサスケが不審人物をみる目で中腰のまま立ち尽くしてるオレを見あげてくる。いまのオレは不審人物とその手をつなぎかけてたんだよ。あぶない危ない。 火影さまのご好意でわりあてられた任務は山間にある旅籠のお手伝いで、山渓をのぞむ露天風呂なんかもついていたりして、ほとんど慰安旅行のいきおいだった。七班の子どもたちもお泊りっていう状況を楽しんでるみたいで、お膳を一緒にかこみながらほのぼのいつもどおりのケンカとかもしたりしてた。 そこまでは別によかったんだ。 別にナルトがサスケの乳首がどんだけピンクなのかをばらそうと、サクラがびっくりしてお櫃をひっくりかえそうと、キれたサスケがナルトに関節技をかけたあげく、止めにはいった俺に暴言を吐いて卍固めされようとまったく変わりないいつものパターンだ。だけどイレギュラーだったのははだけやすい浴衣だった、浴衣からのぞいたものだった。 銭湯で脳天をハンマーでたたかれたみたいにドキドキしたのはそう遠い話しじゃない。夜の中で黒くひかる眼をみながら恋を自覚したのも、やっかいな恋のどぶ穴にみずから足を突っ込んでせっせと家に招待して餌付けをしてるのも。 口に出して言うのもためらわれるが、俺ことはたけカカシは目下のところうちはサスケに恋をしてるのだ。 その相手と露天風呂ででっくわすなんてなんの冗談かいたずらかとおもうよねえ? 手をのばしたら届くところにいるんだよ、だって。しかも俺としてはちゃんとはっきり「手を出したい」といってるのだ。相手が弁えたいい大人ならもうなにもいわずに手を伸ばしてドアを閉じて電気を消して終了っていう状態じゃないか。おかげで一瞬、自制とか理性とかが数光年とおのいてしまうから困った。頭のすみっこで、トマトやるからお触りさしてくんないかなあなんて思いながら手をのばしかけてたのが数秒前だった。 あー、危ない。 なんでこう妙にぬけてるんだ、サスケは。 一回痛い目にあわなきゃわからないんじゃないか、あわせてやろうか、とかまたぞろ都合のいいこと考えそうになるだろ、まったく。 ヘタレと言うなら言うがいい。 インモラル野獣教師になんてやっぱりとてもなれない。 どんなにサスケの乳首がマジでピンクでいちごみるくな誘惑があろうとそれをやっちゃったらなんていうか人間の底辺だ。いくら出先の任務で知り合いがあんまりいないにしても、部屋の中ではナルトがまってるしサクラだっている。たまにだけどナルトだってオレのことカッコいいとか言ってくれたりすんだよ、かっこ悪いとか言われたくないよ。見栄だといいたきゃ言えばいいけど、男の子から愛と勇気と見栄をとったら何が残るんだ。 俺だってそりゃほんのちょっぴり教師である幸せをかみ締めてるのだ。照れるからいえないがやっぱり嬉しいのだ。卍固めとかきめたらぎゃはぎゃは笑って欲しいのだ。いやそもそも大声あげて笑うサスケって想像つかないし、卍固めなんて笑えないっていうか嫌がらせか。好きな子いじめるなんておれはガキか。いやちょっと話をずらすな。ちょっと真面目な話だ。 でもなにより一番きつかったのはなんだったか? サスケの眼がオレを見あげている。 土からはじめて取り出されて磨き上げられたばかり、はじめて空気に触れる黒い鉱石みたいな眼だ。なにしてんだよと不審気な、でも警戒なんて微塵もない目だ。いったいいつの間にオレはこれだけの信頼をかちとっちゃったんだろうと愕然とするぐらいだ。いやそもそも警戒なんてされてないのかもしれないけど、だけどこんな眼をどう裏切ることができるんだ? サスケはそりゃすこし距離をとりがちというより距離のとり方がうまいんだろうな、人間と人間との距離をさりげなく離してる。踏み込まれたくないから踏み込まないことをふつうにやってのけてる。うちはの事情なんてよくわかってるから仕方がないのかもと思うし、俺だってあんまり広く浅く付き合える人間じゃないから、サスケの一定距離をおくスタンスは人それぞれなんだと思う。 だけどやっぱり七班だとほどけてるなあとか思うわけよ。 なんかちょっとよく笑うんじゃないかとか、憎まれ口もあしらえちゃうレベルだからぜんぜん気になんないわけで、むしろ年長者の余裕ってやつでぜんぜん笑って許せる範囲なもんだから、なんだろうなあ。サクラが七班編成当初よりなんか本気でサスケのこと好きっぽいのも感じちゃうぐらいなんだ。サスケは身内と身内じゃないものとの境がはっきりしてないようでいてはっきりしてるから、懐にちょっと入れてくれたのかなあと思うと妙にうれしくさせる奴なのだ。 裏切れないじゃないか。 でも俺のうっかり元気にこんにちはしてるトキメキはどうすればいいんだ? どう処理すればいいんだ? そう考えたらもうムラムラ八つ当たりがしたくなってしょうがなくなった。原因といえばサスケだ。サスケに卍固めしたせいで手とか足とかにサスケの四肢を押さえつけた感じが薄い膜みたいに皮膚をぴったりおおってて、眠れなくなるし、サスケの乳首は妙にきれいだし、あげく朝風呂なんか俺と一緒に入ってうっかりなアレになっちゃうし。だけどサスケにお願いちょこっと触らしてくれなんていえるか。変態じゃないか。やっぱり原因はサスケだ。なにからなにまで徹頭徹尾サスケサスケだ。サスケに始まりサスケに終わってる。手を出させたくなるのもサスケならその手を止める最大の抑止力もサスケだ。 俺にどうしろっていうんだ全く。 今思えばこのとき俺の思考回路は、もんもんムラムラしてた睡眠時間ゼロのせいでちょっとおかしかったんだと思う。 「サスケ」 「なんだよ」 「ちょっとこっち」 犬のしつけのときみたいに手招きするが眉間に皺を寄せるばかりだ。しかも背中にうずまく不穏な空気をよみとったのか、温まったせいでほこほこあかい頬っぺたをすこし緊張させながら、なんでだよ、と尋ね返してくる。うんしつけがいがある。無視。 「いいから、こっち来い」 「やだ」 手ごわい。 「あんたなにするつもりだよ」 「なにそんな警戒してんの」 「あんたが怪しいからだろ」 怪しいって、傷つくなあ。俺がどれだけの忍耐力をもって躍りかかりそうな気持ちをおさえて紳士的に振る舞ってると思ってるんだ。へらりと顔の表面だけ笑う。 「たいしたことじゃないよ」 「なんだよ」 「じゃあ言ったらこっち来る?」 「……答えによる、が、たいしたことじゃねえならこだわんなよ」 「おまえにとっては、くだらないことかもしんないけどね。俺にとっては大事なんだよ」 「……屁理屈だな」 だめでもともと、屁理屈にもなりはしない理不尽な言いがかりだってことは分かりきってると思いながら口は止まらない。 「いいからまあちょっとおいで」 だってただ時間を無為にすごしてたらさせてくれるわけないに決まってるんだから、断られようが現状はちっともまったく変わらない。でも太陽が西から昇るぐらい万に一つ、言い間違いでもいいからうっかり頷いてくれようものならジャスミンの花を振りまいてラッパを吹き鳴らしながらパレードしたっていいぐらいハッピーじゃないか。負けても何の損失もないんだったら何をためらう必要がある? 「キスしていい?」 不機嫌そうなサスケの顔が不機嫌の振幅の頂点で固まった。顔がものすごくしらけてる。俺の気分だって白けてる。なに言ってんだろうねえ、オレ。でももう言っちゃったからしょうがない。 「くだらねえ」 サスケは怒りのためか昂奮をおさえるよう、深呼吸をして、くだらねえし、ともう一度いった。 「……たいしたことだからいやだ」 「いってることちがくない?」 「ちがかろうがいやだ」 「ふうん、じゃあいいよ。勝手にするから」 「どういうつもりだ」 「どうもこうも。ていうかそっちのが俺にとっては都合がいいのかな」 いいの?と見せ付けるようわざとらしく首をかしげて尋ねればにサスケは形のよい眉を盛大に顰めた。 あ、損失。 あった。 サスケにとっての俺という人間の人間性。 「いやだっつってんだろ」 「だから譲歩しろっていってんじゃない。お前が譲歩しないんならいいの?勝手にしちゃうよ」 うんだけど今の俺は男一匹はたけカカシだ。 だけどもういっちゃったもんはしょうがないでしょ。言葉は音波になってサスケに届いちゃったし、呆れたように見あげてくる眼差しだけで十二分にサスケ市場におけるはたけ株の大暴落が見えようってものだ。しかもよくかんがえたら前にもいっぺん五十秒ぐらいキスしちゃったし、おかしなこともたくさん言ってたじゃないか。 時間はどうあがこうと巻き戻しできないのだ。だったらもうしょうがないでしょ。やるしかないでしょ。 とかいったって実は嘘でした、とか大声でいって限りなく黒にちかい灰色にしたいなあと頭のななめ後ろらへんで思ってたがすっぱり諦めた。悶々と布団の皺をふやしてしまったための徹夜明け眠っていない脳は昂奮してた、気が立ってた、気が大きくなってた。知らない感覚ではない。 「つまりあんた盛ってんのか?」 盛ってるって、情緒とかそういうものがこれっぽっちもないなあ。 「で、どうなのよ」 暗にこっちはどうだっていいんだぞ、ともう一度、最後の譲歩のつもりでほのめかしてみる。実際どっちだってよかった。もとから悪い目つきをますます眇めて眺めるというより睨んでるともいえそうな眼でこっちをみていたサスケは、ながいながいため息をついて眼を伏せた。 サスケは深爪になりがちな親指の爪をかむ。それから俺をみた。 手招きをされる。 なんなんだろう、と思いながらのこのこと近寄っていけばぎろりと睨みあげられた。 「かがめ」 させてくれんのかって思うと同時に案外サスケってあほだなあと失礼なことを思う。いやだっつったらいやだ、って突っぱねれば済むことなのに丸め込まれてる。ってまるめこんだ当人がいってたら世話ないか。なんでこんな男の子がすきなんだろうとも思う。なんで俺がとサスケがぼやいてる。うん、なんでお前なんだろう。 「にやけてんじゃねえ」 「はいはい」 でもなんかすきなんだからしょうがないじゃないか。 馬耳東風でうなずく俺にサスケは来い、と一言いってオブラートにつつんだ薬包みをわたされる子どもの顔で睨んでくる。 高飛車でいじわるそうなお姉さまにこちらにおいで、と呼ばれるのとちがって、なんか無駄に勇ましいというかなんというか。勢い込んでるところで相手のほうに先手をとられると勢いをそがれがちになるのは、女の子にあんまりリードをとられすぎたときにもよくある。俺なんかあんまり勢いがいいほうじゃないぶん、下手に相手にもりあがられると逆にテンションがさがってしまうなんてことがよくあった。 でもサスケの「来い」に俺の気分がそがれるかといえば全然そんなことはなかった。 むしろなんだか尻尾があったらふりたいぐらい嬉しくなってうきうきして三十センチ分かがんでしまったのが現状だった。俺はやっぱり危ない趣味の大人なんだろうかなんてことは都合がわるいからしらんふりだ。恋は盲目だ。 眉間に皺が寄っていていかにも不本意きわまりないといった感じだ。そっと手をのばして頬にかかった髪を耳の後ろにかけようとすると、ぴくっと震えるのが分かる。睫もすこし震えてる。片手でひとつかみできそうなまだなり終えていない顎のすこし硬い感じを指の腹で撫でる。 耳の後ろの窪みを人差し指でなでながら、親指をすこしかさついた唇の下に添えれば、緊張のためかすこし顎をひき、かるく唇を噛んだのが手のひらを通し触感としてわかる。 眼をあけて焦れたサスケがとっととしろ、と言いつのる、その前に下唇を唇ではさむようついばむ。ぼやけた視界のなか、サスケの黒い眼が驚いているのを間近にみながらもう一度。ちいさく吸ってから離れた、俺の唇はどうしようもなく緩んだのを叱るよう、べちんとおでこが鳴る。サスケがはたいたのだ。 「離れろ」 「はいはい」 サスケは親指で唇をなぞっただけで乱暴にぬぐいはしなかった。大げさに擦られたりするかなあと予想してたからちょっと驚きながらも嬉しかったりして、口が緩むのをおさえきれない。 「気はすんだか」 「うん。週にいっぺんぐらいでよさそう」 「……あ?」 サスケってばかだよねえ。 恨むなら俺の理不尽なごり押しになんでか妥協してしまった自分を恨むんだサスケ。 俺の頭の中ではお花畑ハッピーが大笑いしてる。 だがその天下はあんまり長くは続かない。 何日か後、冷たい冬の雨が去っていった翌日のことだった。 色砂をいちめんに振りまいたように紫を底に沈めオレンジと藍を漲らせて冬の日が暮れていく。階段の上、銅にかがやく空をきりとったサスケの影がちょうど自分の影にかぶさっている。太陽と三日月と白い星が一直線にならんでいるのをみていると、サスケが振り向いた。階段の段差でいつもは30センチ以上はなれた黒い眼が目の前にやってくる。 なんだ、と思う間もなく黒髪が右眼の周りのすこしだけ出た頬にさわる。ちいさく湿った息が顔の下のほうをあたためるのに驚いて顎を引くと、ひやりと顔が冷たくなった。 サスケが俺のマスクを引っ張ってる。 がぶりと噛み付くみたいなキスを今度は直にしたサスケは顔を放しざま、マスクをひっぱってた指を離した。 マスクがまた元通りになっても、ちょっと頭がついていかない。呆けた俺の口がこぼしたのは間抜けな、「…どうも」という一言だった。 サスケはノルマは達成したぞ、と言わんばかりに鼻を鳴らし、じゃあなとポケットに両手をつっこんで背中を向ける。12歳にしてはどうかとおもうくらい、気持ちがいいほどのカッコいい退場だった。夕日のスポットライトに照らされた階段の真ん中ぐらいに俺は取り残される。 ……なんなのよ。 それから一週間に一回のキスは俺が近寄るだけでサスケがしてくれるようになった。 たいがい、ごはんを一緒に食べたりした日のトイレだったり、階段のちょっとした段差とかで俺があまりかがまなくてもいいようなところでサスケが俺をちらりと正面ではなく、斜めで見る。 ちょっと胸が高鳴るのはまあしょうがない。照れて頭の後ろが体温ぐらいのハチミツまみれになるみたいな気持ちもまあしょうがない。俺は待てを言われた犬みたいに立止まらざるを得なくなって、キスを待つのだ。 戦闘と喧嘩はよく似ているが、戦闘は相手を完膚なきまでに粉砕するのと違って、戦闘の第一段階である喧嘩はもっと話が単純だ。どっちが上かを思い知らせればいい。喧嘩を制するのは何か?それは間合いだ。 呼吸に応じた間合い。間合いは距離のとり方といってもいい。自分の体表十センチ以内までいきなり距離をつめられると、どんな人間も揺らがざるを得ない。 サスケのしかけた喧嘩はこの意味で正しく俺に勝った。見事に俺はまごついて揺らいでしまった。 だってここで自分から仕掛けて、週にいっぺんのキスもなくなるのはいやじゃないか。 ちょっとかがめよ、という声はサスケの家の玄関で、上がり框にあがったサスケの顔は俺の頭半分下にある。ちかいところでしゃべるからか意味なくひそめられて秘密めいて、鼓動もドキドキするのに、灰色の雪が降ってくるみたいになんだか面白くないのはなんでだ? だってサスケのキスは判子みたいだ。 書類にぺたぺたぺたぺた押されていくあの感じだ。ノルマは達成した、その証拠のためだけに押されていくもの。 キスは同情なのかな。 それともキスしないと写輪眼のこと教えてあげないとかするとか思ったのかな? 俺の月をうつしこんだ水みたいにきれいな純情を判子で終わらすなんてひどくない?いくらなんでもひどくない? すこし唇をおしつけた俺が口をあけて舌をすべりこませること十数秒、サスケがげほっと咳き込みながら顔をそむけた。 「それは―――よせ」 「なんで」 「だから、よせって。べろはいれんな。うごくな、さわんなよ、わかったか」 構わずに肩を掴まえる。肩をつかむとパンチには絶対体重が乗せられなくなるのだ。いくら腕力でこっちが勝ってるとはいっても、サスケに真剣に暴れられるとキスとかそれ以上なんてできるもんか。 「やめるぞ」 「は?」 「あんたからすんなら、もうしねえ」 ―――はあ? 黒髪の隙間から瀝青の眼が片方だけのぞいて暗がりの中ちいさく光っている。 「文句あんのか」 「あるよ。なんでおまえからすんのがよくて、俺からしちゃダメなのよ」 「……あんたがしたいっていうから俺がしてんだろ。つべこべいうなよ」 「言うよ」 だって俺、おまえとどろどろのぐちゃぐちゃになりたいとか、髭剃りながらトイレでズボン下ろしながら思うんだよ。どろどろのぐちゃぐちゃを8分の7やっても、のこり8分の1でお前をぎゅうっと抱きしめて抱きしめられさえすればいいなあとか思うんだよ。 海が空の青をうつすみたいに、日差しをうけてリンゴが甘くなるみたいに、砂漠のサボテンが水をためこんで真っ赤な花を咲かすみたいに、このハチミツ色をした心が金色の雨になってサスケの中に水溜りの一個でもつくったらいいのになあとかロマンチックな映画を見た後おもうんだよ。 「うるせえよ。もうすんな」 すこし赤くなった唇を舌で舐めたサスケは、サクラがいたら黄色い悲鳴をあげてしまうこと間違いなしのクールな顔、俺から言わせるとなんだか流し目に見えないこともない鋭い視線を投げて踵を返す。ピリピリ痛む顎と鼻をおさえて俺はすこし呆然、まだちょっとキスの余韻で湿ってあたたかな唇が嘘みたいだ。くそ、舐めてしまえ。 だって死刑執行台の踏み板を囚人が外す音ってこんなんじゃないのか、と思うぐらい決然とした声だった。 いったい何が起こったっていうんだかちっとも分からない。 どん、と押されてよろけた拍子に、風を切る音がして勢いよくドアが閉じていく。 天国と地獄の距離がどれぐらいか? そりゃもうあれですよ、サルも赤面しちゃうぐらい青いバナナを甘くする熱帯のスコールもかくやってキスしてた唇があんなこと言うのと同じ距離だと俺はたった今このとき思ったよ。 でもドアを開けば天国と地獄はまたつながるってことだよねえ? ドアノブを咄嗟に掴んで、肩と膝を間にねじ込む。ひゅっとサスケが息を飲む音がする。鈍い音がしたからね。青痣ぐらいにはなる。名誉の負傷だ。でもそんなんで躊躇っちゃうなんて甘いでしょ、サスケ。 だっていやなら最初からキスなんてさせなきゃいい。 うざいっていって、軽蔑の眼差しを投げて金輪際むりだって言えばいい。 お前に軽蔑されたら一生たちなおれないぐらいなんだよ。 攻防はきっと一秒にも満たなかった。すべりこんだ玄関が俺の後ろでばたんと閉じて余計な世界を向こうに追い出す。後退さって廊下の壁に背中をあずけたサスケの踵が上がり框の段差にぶつかる。身をよじったサスケの目の前、壁に右手をゆっくりつく。反対側に逃げようとする前にゆっくり屈みこんだ。直い睫の下、サスケの眼が俺ではないどこか一点を凝視しながら見開かれている。 「…それ以上したら」 「したら?」 信用なんてもうしてくんない? (ねえ、でもお前いつのまに俺のこと信用した?) 体をよせると磁石が反発するみたいにますますサスケは背中を壁に押し付けていく。でも逃げ場はないし、逃がしてやるつもりもない。 にやつくのをおさえろって言われたって無理な話だ。 悪趣味でもやっぱり迫られるより迫るほうが断然たのしい。 「…べろいれんなって言った」 「うん」 「さわんなって――」 「うん、言ってた。触ってないよ、まだ」 唇を寄せると顔を俯ける。壁に背中をおしつけてずるずるしゃがみこんだサスケの前に俺もしゃがみこむ。黒髪からのぞく両方の膝小僧が赤くなってく。前髪をひっぱろうとすると逃げるように俯かれる。あきらめて熱っぽい膝に額を押し付けて、頭の押し合いをしかけると頭突きされる。 「ひどいことなんてしないよ」 「……」 「俺おまえにやさしくしてない?」 「自分でいうなよ」 「まぜっかえすなよ」 話そらすなんて下手くそなんだから、諦めな。 「サスケさ、なんで、俺にキスしてくれるの?」 「あんたが――」 「俺が言ったからとか、そういうことじゃなくって。なんで?」 電気信号の混線を狙った誘導尋問だってなんだっていい。だって俺とサスケのくっついたこめかみから、通り雨が葉っぱをたたくみたいな子どもがダンスするみたいな音がするんだ。おれの心の宇宙を流れ星みたいにつづくかぎりない道のりの一歩一歩、踏みしめた足跡に咲いた白い星みたいな花がひらくときの音なんだよ。 キスなんてしなくたって、無体なこととか嫌ったりとかするわけないじゃない。 だけど言わない。 はちきれそうなハートの花をかかえたはじめの一歩を踏み出すのはお前じゃなきゃ。 |
「いっしょに歩こう」/カカシサスケ |
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