彼の人生には遵守すべき掟がいくつかある。

ひとつ、メシより高尚な哲学はない。
ひとつ、己の食い扶持は己で守れ。
ひとつ、働かざるもの食うべからず。

彼が生れ落ちた一族はエリートだ、と呼ばれている。
血継限界である写輪眼を駆使した瞳術による忍術のエキスパート、という呼び名のみが取り沙汰されるが、それだけではない。写輪眼を継承できるのは一部の血統のみであるため、他の部分にも秀でていなければ、うちは一族の名前が他国にとどろくはずもないのである。

ではどうやって一族は鍛え上げられるか。

特別カリキュラムなどはない。実家に付録で道場がついてるような日向とはことなるのである。 彼らの修行は、日常、いついかなる時も行われている。

まず、おかずは大皿にひと盛りである。ひとり分が皿に盛られるなんてことは皆無だ。理由はあたりまえ、大皿の方が彼の母の茶碗洗いの手間がなくて済むからに決まっているからだ。母親はうちは家の御台所にして法律である。ひとたび怒らせれば、食糧供給がストップ、それから経済封鎖おこづかいなし、逆らえるものがいようはずもない。

彼の家庭のみをかんがみれば、彼の父も兄も大人気なかった。狙っていた海老の素揚げを横から掻っ攫おうものなら箸が手裏剣みたいに壁につきたつ。まさにバトルである。

ごはん茶碗抱えて、食卓だけはひっくりかえさないあたり、意地汚さが出るというものだ。幼少の彼はその隙に海老の素揚げをありったけ口の中に詰め込んだ。ばれたら父と兄の両方から食卓の下で足の甲をつねられるが、「飲みこんじまえばこっちのもの」であった。つばをつけるという実に幼稚な場外乱闘にひとしい行為は母が許さなかった。

まさに弱肉強食、日々これサバイバル。弱きに甘んじてたら腹には食物が入らない。

想像してみよう、子供相手にスキルのすべてをだして戦う父親と、箸先が見えないぐらいの猛スピードで食物を口に運ぶ兄(いつ噛んでるか、幼少の彼にはしんそこ疑問だった)、母親相手には父も兄も相互不可侵条約を結んでいるため、サンクチュアリたる彼女はいつも涼しい顔で食事をしていた。

その母親が味方になってまだ対抗術をもたない彼の分を確保してくれたが、それもごはん茶碗一膳分の米だけ。その米もまた日課の修行をこなしたらである。風呂洗いをすれば漬物が、新聞をとりにいけばみそ汁がつく。

あとのおかずは自から勝ち取らなければ、毎食みそ汁をかけたネコめしか醤油メシか塩かけメシであった。たまにだし用の鰹節があればそれだって贅沢であった。幼少の彼は涙ぐましい。

だったら彼が一番最初に覚えた計算がなにかも想像できようものだ。
足し算か。否。引き算か。否。
割り算である。

九九もろくろく暗証できない子供が会得したのは一桁の割り算であった。切迫した食糧事情が予想できる。おやつにしろメシにしろ、一定分が確保されてなければ、欠食児童みたいに「あいつの方がちょっと多いっぽい」と三時間口論するような家であった。公平を規するには、すべてを四分の一にする必要があった。買ってきたお菓子には名前を書いておかなければ、いつのまにかゴミ箱に空き袋が突っ込んであるのが日常だった。

だったら彼ことうちはサスケの人生のモットーが「メシより高尚な哲学はない」になってもおかしくはあるまい。

三つ子の魂百までもである。










ごはんにしよう2


















玄関脇の電灯をつけ、サンダルを脱ぐ。ぼさっと置いてけぼりにされた箒のように下宿の通路に突っ立っているカカシに視線を流し、サスケは眉をしかめた。

「なにやってんだ、とっとと来いよ」

ん、とカカシの右眉が跳ねあがる。通行の邪魔だろ、とつけ加えればいつものとおりどうでもよさそうな口調でもって、そりゃご尤も、と返ってきた。すこしだけ語尾が笑っている感じが風体もあいまって、胡散くさい。

「ま、お邪魔します」

玄関の左手、入って直ぐのドアをあけたサスケは風呂場はそこだ、勝手に入れ、といい置いてから台所の流しの前にしゃがみこむ。買い物ぶくろから冷蔵庫に中身をうつしていると、サスケ、と声をかけられた。

「……なんだ」

気配が全くないからすこし驚いた。

「石鹸とかかりていい?忘れちゃった」
「適当につかえ」
「りょーかい」

ぺたぺたとわざとらしい足音をたてる背中を見送ってから、サスケは首をかしげる。

(……なにオレ連れてきてんだ?)








(……なにオレ連れてこられてんの?)

もそもそとシャツから首をぬきながらカカシは考えこむ。何で教え子の家で風呂を借りているのか、まったくもって意味がわからない。服を丸めて置きながら、カカシは目を瞬いた。

とっとと来いよ、といわれて思わず幸せな想像をするのは恋するものの特権だと思う。想像が想像にしかすぎないことをしる時の墜落感といったらないが、ときめきばかりは本物だ。

年代ものらしく脱水槽のついた二槽式洗濯機の脇に水や砂のつまったペットボトルがある。 猫よけだろうか、と思うが、猫は水の入ったペットボトルぐらいで退散するようなかわいい生き物ではないし、砂の入ったペットボトルの意味がわからない。猫を毛嫌いするサスケというのもなかなか想像できない。でももしかしたら猫毛アレルギーでもあるのかもしれない。

犬は平気だといいけど、と考えて部下以上に一癖もふたくせもある八匹の顔を思いだし、カカシは想像しすぎだからと頭を振った。些細なことで一々いろいろ想像してしまうのは、なんだかこそばゆい。オレのキャラじゃないぞ、と誰にともなく言い訳をしたくなる。

カカシは勢いよく青い印のついた蛇口をひねった。



突如きこえたむくつけき男の悲鳴にサスケは米を研ぐ手を止める。赤い印のついた蛇口をひねって水を止めてから、眉をしかめるや走り出した。

「――カカシ!」

ばたーんとトイレ兼洗面所兼フロ場のドアを開いたサスケに、撥水カーテンの中からカカシが顔をのぞかせた。素っ裸で浴槽の端に腰かけ、赤くなった足をさすっているカカシは困ったように笑う。

「青い方で熱湯がでたんだけど……」

すまん、とサスケは言ってから蛇口を指差した。

「青いのが湯で赤いのが水なんだ」
「配管ミス?」
「業者が間違ったらしい」

湯音調節なんてものも出来ないから、水とお湯混ぜて適温にしろ、というと、紛らわしいなあとカカシは赤い蛇口をひねった。じょぼじょぼと出る水は確かに冷たく、蛇口がうっすらと汗をかきだす。

「熱かったー」

なんとなく動く口元にサスケは注目してしまう。カカシの肌は、生白かった。もやしの白さだ。極端に日の光を浴びてない色をしている。赤みを帯びていたり皮膚の一部が妙に滑らかになっていたり、ずいぶんと傷跡の多い背中から首筋、形の成り終えた骨をおおう筋肉の流れに思わず注目してしまう。

「サスケくーん」
「なんだ」
「あけっぱだと寒いんですけど」

素っ裸で隙間風はさむいに決まっている。悪ィ、といってドアをしめたサスケは台所に戻り、炊飯器に研ぎ終わった米を入れる。

(ひさしぶりにカカシの顔見たな)

Tシャツの袖から剥き出しの自分の腕を見おろしたサスケは、ふん、と曲げ力こぶを作った。







正直、フロでくつろいだ気分にはなれなかった。
窓もなにもないユニットバスは小さな小部屋につめこまれたような気がするし、成人男子、いちおう長身の部類に入るので手足がはみでる。だがなにより、サスケのフロだと思うとそこらじゅうがこそばゆかった。

いかにも手作りめいたヘチマたわしや、廃棄油をリサイクルした粉石鹸がタッパーに詰めこんであるのをみると、妙に所帯じみていて笑っていいのか考え込んでいいのかわからない。シャンプーとリンスはこの間、特売になっていた奴だった、というのに気がついて、今度こそ笑ってしまった。

ほかほか湯気をあげながらカカシが脱衣所で体を拭いていると、メシ食うか、と聞かれたので思わずご相伴にあずかってしまった。

鮭と三つ葉の混ぜご飯とネギ醤油がおいしい焼き豆腐、根菜の入った味噌汁と白菜とキュウリの紫り和え、という、さっぱりめながら実に立派な夕ごはんだった。足りないか、と追加でだされた玉ねぎののったトマトも意外に美味かった。

ごちそうさま、と箸を置いたのはサスケのほうが先だった。さくさくと皿の上をかたづけたサスケに反し、カカシはけっこう食事の時間が長い。もくもくといつまでも食べていて、牛みたいだと失礼な感想をサスケは持つ。

動く口元が面白くてみていると、ごちそうさまとカカシが箸を置いた。

「メシ食ってるとこおもしろい?」
「いや、べつに」

充分おもしろかった。
なんというか、水槽にいれた金魚が泳ぐのをみているのと同じ観察気分だった。生態のちがう生き物にたいする純然たる興味だ。

生白い顔の、左頬にはしる傷を額宛のしたまで辿ったところで目が合う。なんでカカシを家につれてきたんだろう、と訊かれたらおそらく、マスクのついてない面をみたいがためだったんだろうなとぼんやり考える。喫茶店の掃除で皆して重曹まじりの粉を引っかぶったとき、カカシが銭湯代をおごってくれたが、カカシは入らなかった。

「あのペットボトル、なに?」
「ペットボトル?」
「砂と水が入った奴」

ダンベルがわりにしてるのだ、と訊かされ、ようやくカカシは納得した。

「お前ぐらいの年から度のすぎるウェイトトレーニングはちょっとお勧めしないぞ〜」

む、と眉をしかめるのを見てカカシは真面目だなあと感心することひとしきりだ。

「ナルトにも言ったんだけどな、身長のびなくなるんだよ」

抜かれるの嫌だろ、と誰にと示さずにいえばサスケはきりっとした顔になる。ナルトがサスケに突っかかっている感じだが、サスケも充分ナルトを意識している。

「程ほどにな」
「程ほどってどれぐらいだ」
「んん?」

まさかつっこまれると思わなかったカカシが首をかしげると、サスケはしょうがねえなとばかりに鼻を鳴らした。ちらりと唇の端がつり上がってる、どう考えても可愛げのない笑みに背中をどんと押された。

(もしかして、忘れてるんじゃなかろうか)

あの熱い五十秒間のベーゼを。
危機感をもってくれとは思わない。それはそれで手を出すときに厄介だ。
だがしかし、安全パイ扱いをされるのはプライドが許さない。
考えながら手にもっていた砂詰めペットボトルをサスケにむけて放り投げる。ぎょっとしたサスケがペットボトルを両手で受け止める、その手首を引っつかんだ。

「んぐ」

見事に色気がない。すこしだけ日向にある土のような匂いがして、自分と同じ石鹸の匂いもした。これがサスケの匂いだと思いながら、片手で顎を掴む。ぎしっと歯を食いしばってる反応に苦笑しながら、下唇に小さく歯を立てた。電気でも流されたみたいに手の中が鳥肌だってるのに、変質者の気分や好きな子を苛める気分がほんの少しわかってしまった。

「ん、ぐぐ」
(わかっちゃだめなんだけど)
「ぐえ」

踏み潰されたカエルのような声をあげたのはカカシだった。ペットボトルの底が鳩尾にめり込む容赦ない打撃に息が詰まって咳き込むカカシをサスケが睨みあげた。

R指定のエロ本を公道で読みふけり、顔の四分の一しか出さず遅刻の常習犯にして言い訳は煙に巻くばかりの確信犯、もとから期待はしていなかったが、上忍としての信任はあったというのに何たることか。

いたずらにしては度がすぎるし、たちが悪すぎる。

サスケにしてみれば少々意味がちがうが、飼い犬に手をかまれたといったところだ。しかしこのことわざを作った人は根本的なこと忘れている。

犬は噛む生き物なのだ。

「放せ、変態」
「わ、すれてたわけじゃなかったんだ」

何を、と考えたサスケはぎりっと眦をつりあげた。うへえ、怖ーい、とむしろ楽しそうな口調でカカシがのたまうのにサスケはダンベル代わりのペットボトルを両手で振りかぶる。

「それでなんで俺つれてきたの?」

殺人バットのように横なぎに振るわれたペットボトルを、体をひねって避けながらカカシが尋ねる。サスケは避けるな、と無茶を言いながら空振りしたペットボトルから片手を放した。こめかみを揺さぶろうとねらった左裏拳をばしんと捕らえられる。ちっと舌打ちしたサスケはその腕にぐっと体重をかけ、ブランコの容量でカカシの懐に入りこむ。

「金的は反則だって」
「変態に人権はねえ!」

危険な意図をさとったカカシがあやうく手を放すのに、バランスを崩したサスケはペットボトルを手放した。それでも両手を床についてカカシの軸足を払おうとする。

「あ、サスケ君それ差別ー」

テーブルの上にとびのって足払いを避けたカカシの顔面をねらってサスケはペットボトルを蹴り上げる。カカシは裏拳で上にそらし、ぱしんと左手で受け止めた。隙を狙った廻し蹴りもペットボトルで阻止される。悔しいが、実に嘆かわしいことに上忍なのだ、この変態は。

「人権とはいかなる時もいかなる者に対してでも保障されるべき普遍的なものであってだな、自分と異なる性癖趣味嗜好を理解しようともせず迫害するのは感心しないぞー」
「人の意思を無視するのはいいのか!」

カカシののっかったテーブルをちゃぶ台返しすれば、カカシは天井からぶらさがった電燈にとびついてにやりと笑う。サスケがぶらさがった時は天井が抜けそうになったのだから、チャクラか何かでくっついてるのだろう。まさに無駄。

「いやよいやよも好きのうちって言葉が天地開闢太古の昔からだな」
「んなわけあるか!」
「だっていちいち『あなたに接吻したらば、おパンツに手を突っ込んでよろしいか』って聞くバカいる?」
「……ッ」
「恋はやさしく笑ったかと思えばすぐに背中を向ける気まぐれな女のようなもの」

品のない表現に思わず攻撃の手を止めたサスケに、しぶく決めたつもりのカカシはほくそ笑む。恋は人を詩人にするのだ。だがうちはの正統は手ごわかった。かっと写輪眼でも発動しそうな勢いでサスケは剋目し、きっぱりと言い切った。

「――だとしても、断固としてオレはいやだ」
「じゃあどうすればいいのよ?」
「あ?」
「どうすれば俺はお前に手を出していいわけ?」
「……」
「教えてよ、言うとおりにするから」
「……なんでオレがそんなことアンタにおしえなきゃいけねえんだ」

気づいたか、と姑息にも論点をすりかえていたカカシは、リビングダイニングに着地しながら、内心舌打ちだ。だが彼はめげない。

「サスケ、曰く、百戦して百勝するは善の善なる者にあらず、戦わずして?」
「――戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」

脇腹にめりこみそうになった中段蹴りをカカシはまげた膝で受け止める。

「孫子だな。戦争は最善の解決法ではないってことだ。戦えば双方無傷ではすまないが、相互調停をむすべばお互い損害はない。――おわ、そこ急所」

膝蓋骨の少し上、どんなに鍛えても筋肉が発達できないところにむけてくりだされた踵落しをすんでのところで避けた。ちっと下履きの布地が摩擦に鳴ったのに、カカシは苦笑してしまう。ほんとうにいい筋をしている。

「もってまわったいい方すんな」
「今この時点で有利なのはどっちだと思う?」

尋ねる声がきこえたのは真後ろ、がしんとサスケの顎の下に砂の入ったペットボトルが挟まった。羽交い絞めだ。

「時には譲歩も戦略的撤退も必要だよ」
「……」
「条件を提示しな、そしたら俺も見合った条件を提示してやるから」

じゃないと、と耳元で濁された語尾に、何たる大人げのなさ、とサスケは目眩がした。目先に逃げ道を示した態のいい脅迫ではないか。サスケにデメリットがあってもメリットがない。

「……卑怯くせえ」
「曰く、兵は詭道なり」

手段はえらびません、と無駄に引用する男に目眩が頭痛に変わった。

「つまり?」
「えーと、どうしたら手をだしていいかってことになるんだけども」
「出すな」
「やだ」
「ガキかあんたは」
「兵は詭道なり」
「……じゃああんたの条件ってもんを言ってみろ」

羽交い絞めにしたカカシはサスケの旋毛に顎を乗せる。うっとうしい、とサスケが目つきを悪くしていると、頭上からそういえば、とのんびりした口調が降ってきた。

「取引って言うのは、立場が対等ではじめて成り立つものだよね」

もしかして好き勝手しちゃっていいんじゃなかろうか、と考えこむカカシをサスケは鼻で笑い飛ばした。

「だってあんた、オレが好きなんだろ」

それはまあ、そのとおりだったのでカカシは思わず沈黙だ。なんでこう自信満々なんだろう、と思いながら笑えてくるのは恋する弱みだろうか、なんだろうか。

「すくなくとも手は出してえんだろ」
「うん。合意の上で思い思われっていうのが」
「じゃあそれがオレの強みだろ」

条件を言え、と直い睫毛の下から見上げる眼差しがきゅっと細まる。筆ではらったような切れ長の眼が笑ったのにカカシはマンガのような映像を思い浮かべていた。ビニールシートをマヌケにも踏み抜いて恋のマンホールに墜落した男が、勇んで穴に飛びこむ残像だった。








もう運命としかいえないんじゃないかと彼は思う。
『お医者様でもクサツの湯でも恋の病は』治るわけがないし治してなどと頼む気もそもそもない。

三人の女神がつむぎだす因果律にそったそれは、ついでに赤い糸だと思っている。彼はいささか誇大表現のきらいがある。彼に小指を眺めてアンニュイなため息を吐くような感受性を見出したことがある人間は皆無だ。小指を眺めてため息を吐く暇があったら、耳掻き棒のかわりにするほうがよっぽど有益だと思っているような男である。

彼は恋に落ちているとき、loveの発音は「ラブ」じゃなくて「ラヴ」、下唇を噛んで発音するんだと意味もないこだわりを発揮してみたりする。

だが、魂プシュケは愛エロスを求めるという伝説を女友達に聞かされても、胸筋の奥をときめかせることはない。顔見たぐらいで失踪するなんて狭量な野郎だ、奥さんかわいそう、と思うだけである。

そんなことよりアイラブユーでも、ジュテームでも、ウォーアイニーでもチョンマルサランヘヨでも何でもいい、とりあえず思い人と視線が合えば条件反射でベサメムーチョといいたくなっている。

だがしかし今のところ彼がベサメムーチョと云ってみたところで返る答えは「うざい」の三文字か容赦ない鉄拳である。ゆえに彼は甘ったるい声と糸でも引きそうな異国語で「優しくキスして」とねだるのではなく、「とりあえずキスしてやる」という持論にまで至っていた。鉄は熱いうちに打て、メシも熱いうちに食え。うるわしきアネモネのような唇があるのならとりあえず食いつくのが紳士の礼儀というものだ。

彼が求めるのは恋や愛を語る言葉ではないのであった。

読みふけっていた本を閉じ、本棚にもどすと彼は立ち上がる。寝癖のついた髪の毛を乱暴にかき回して整えてから、ドアの前に立った。足音はしなくても気配がする。

愛を語る言葉はそれこそ星のように溢れかえっているがどれひとつとして愛そのものではない。

ある人は打擲を愛と呼び、ある人は抱擁を愛と呼ぶ。生命そのものも愛という。世界も宇宙も宇宙を動かす根源の力もまた愛という。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛。行為も愛であり、事物も愛である。愛の現出はさまざまだが誰ひとりとして愛の本質をつかみだすことはできない。数多くの哲学者たちが小説家たちが芸術家たちが、虚構によって世界に表出する真実を描き、はじめて輪郭が炙り出されるもの、そのつかみがたき真実、何ものかの一つが愛だ。

頭の中で鼻歌を歌いながらがちゃりとドアをあければ、ドアノブをひねろうとした手が空振りした。できるならその手を掴んでサービス精神をこれでもかと発揮してやりたい。だが欲張っては損をするというもの、今はこの部屋にきてくれただけで良しとしなければなるまい。恋は焦らずだ。






『条件?』
『あんたが言ったんだろうが』
『うーん、じゃあ……ごはんでも一緒に食べてみようか?』

おまえに今日はごちそうになっちゃったし、俺がご馳走するってことで、と言えば黒眸が胡乱そうに眇められた。

『……なんもするなよ』
『しないよー』
『タダ飯か』
『タダ飯。悪くはないでしょ』







このドアはいわば運命のドアだ。かの難聴のルードヴィヒが第五交響曲をさしていったものだ、この音は運命がドアを叩く音だと。しかし彼の運命はいつでもドアをノックしないでハートにやってくる、この黒い小さな頭にあり、胸にあり胃袋にあり心臓にある。

「いらっしゃい」

お邪魔します、と口で呟くうちはサスケを前に微笑むはたけカカシが欲しいのはその、愛だ。 はたけカカシはしろい炊き立てのご飯を丼によそいながら白い湯気の向こうがわにほくそ笑む。 そしててんこもりの丼飯を受けとりながら、うちはサスケは思うのである。

メシより世のなか高尚な哲学はありゃしねえんだ、それもタダ、と。



















「ごはんにしよう2」/カカシサスケ








わたしだけが楽しいです。
むだに強気なあの子が、
好きなんだ。
引用はいずれも孫子。










だがしかしうちはサスケは知っているだろうか。
タダより高いものはないのだ。そして提示された条件は、はたけカカシが宣言したところの、「手を出したい」という最終目標までの執行猶予にしか過ぎないことを。そして執行猶予は執行猶予、必ずいつかの未来に執行されるべきものである。



百戦して百勝するは善の善なる者にあらず
百戦して百勝することは最善ではない。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり
戦わずして、勝利することこそが最善の道である。



調停あるいは譲歩が最善とは誰も言っていない。

そんな恋の話だ。













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